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『障害の程度に関わらず前向きに生きろ』という本人の心の持ち方が大切という事でしょうか?
我が家の祖父(事故で指が9本しかない)と祖母(高齢でほとんど音が聞けない)を見ていてふと思いました。

A 回答 (12件中1~10件)

#6,9,11です。

(苦笑)

あ、ご安心ください。もうフレーミングはしませんから。(いや、フレーミングじゃなく、真面目に書いた
だけなんだが…まあ結果的に)

昨夜、ある夢をみました。というのは、この問題に
ついて、ずーっと自分なりに悩んでいたことが
夢に出たのだろうと思います。

自分の、左右の指を一本一本切り落とされる夢
でした。夢の中のことで、痛みはなかったのですが、
「これからどうして生きていけばいいのだろう…?」
という恐怖と絶望感に満ちた夢でした。

障害者の方の苦悩、
苦しみを「自分の身に起きたこと」として
疑似体験したことにより、ある部分目からウロコが
落ちたような思いがして、考えが大きく変わりました。

あの夢が醒めることない状態が、
障害者の方の現実でしょう。いや、指がない程度の
不自由とは比べ物にならない方のほうが多いでしょう。

いままで、自分は障害に対しては理解のある方だと
考えていたのですが、正直「まだまだ甘かった…」
と素直に反省し、とりあえず謝りにきました。
障害を「自分の問題」として捉えることが不十分
だったようです。

議論として、また理論として、自分が間違っている
とは思いません。しかし、もっともっと相手の
心情を汲んだ物言いをすべきだったと反省しております。この場をお借りしてお詫び申し上げます。
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この回答へのお礼

こんにちは。
皆様、お返事ありがとうございました!
どうやら私の質問の仕方に問題がありましたね。今後は気をつけます。

お礼日時:2006/01/09 15:17

私は夫の両親も介護しましたし、自身も先天性股関節異常で、60歳になったら人工関節の手術を受け、身体障害者4級になります。


ですから、介助される人の心も、介助する人の心も分かるのです。

私は双方の障害になったとき、自殺の準備をしました。
ただ、それを踏みとどまったのは、障害に負けたく無いと言う一心でした。家族理解も得られぬ状態で、人の役に立てると言う事が私の幸福です。

家族の愛に包まれ、サポートを受けられている、質問者のお爺様は、きっと幸せでしょうが、サポートすら受けられない、又家族が障害を隠されているご家庭の方は、何をもって幸福だと想えるのかが分かりません。

病状が悪く、現実感の無い私は、自分がしている書き込みすら、夢の中にいるようなのです。
障害者は、常に前向きに自分の障害と戦っています。
克服できた分だけ、幸福感がつのり、社会参加が出来、一人前の社会人と認められたら、多いな達成と言う喜びがあるでしょう。
その達成感しか幸せとは想え無いのでしょう。

本当に、一人一人が立ち上がり、この国を障害者に優しい国にしていきましょう。基本的人権は平等なのに、この国では、やってあげていると言う感覚の人が、役所にも、一般人にも多いのです。
この国が、障害者に優しい国になったなら、障害者は、皆幸福だと考えられるでしょう。
ただ、「回避性人格障害」の方は、感情を持つ事にまで、恐れをなすのです。そんな人は、病院にも行けるはずがなく、障害認定すら、人に会うため出来ないのです。

だれもが、貴重な命をもっています。この世で起こる事は、総て試練、学びの場だと知ってはいても、試練が酷すぎると、疲れ易いのです。
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先天性の障害を持つ、幸せな障害者本人です(^^)


なんか、下の方で、よく分からない議論(持論?)が展開されていますけど。。。

『前向きに生きろ』かどうかは知らないですけど、私が不幸では無い事は確かですね。
確かに不便ですけどね。

ヘンな例えなんですが、
・舌の肥えた人
・味音痴な人
どっちが幸せだと思いますか?

私は、味音痴な人の方が幸せだと思っているんです。
何故かと言うと、舌が肥えていれば、ちょっとした味付けのおかしさにも不満を感じてしまうと思います。
でも、味音痴なら、一定レベル以上の物なら何を食べてもおいしい訳で。
毎日(ちょっとした事でも)不満を感じるより、「おいしいなぁ~」って思いながら食事が出来る方が幸せだと思いませんか?

更に年収400万円の人が2人いたら、幸せ度数は同じでしょうか?
例えば、
Aさん:過去の年収500万円→今年400万円
Bさん:過去の年収300万円→今年300万円
きっと、Bさんの方が年収だけに関して見れば、幸せに感じていると思うんですね。

私には同じ障害を持つ子供がいるのですが、私は
「この子は、幸せな子」
と思っています。
外見からは理解されづらい障害なのに、”同じ障害を持つ、私と言う理解者”が側にいるからです。

結局、現状がどうか、と言うより、本人が、その状況に対して、どう思っているか、が”幸せ←→不幸”の分かれ目じゃないかと思います。

障害なんて、その人間の一部分。
”不幸”と感じるのは、障害そのものより、障害の不便さから起こる二次障害なんじゃないですか?


ところで、、、私の友人にIQ70ちょっとの人がいますけど、フツーに感情ありますよ(^^;)
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IQ70未満だと、自己の認識がありませんから、どんな環境にも適合出来ますが、感情を司る部分の脳の発達がほとんど正常では無いのです。



これまで書いた事で、健常者と、障害者の物の捕らえ方が大きく違ったいる事に気が付いてください。

障害者で、克服出来た部分のある者は、それを誇りと感じているのですが、少しでも現状を訴えると、僻みと捕らえられるのです。

身体障害者の、装具品は出来るだけオーダーメイドが良いのです。いくら健常者相手に試しても、どう不自由なのかは分からないでしょう。

障害者を支えるのには、いろいろな知識が本当に必要なのです。まず、良い病院探し、(精神科医でパニック障害を治療できる医師は数%)
薬の知識、栄養学、福祉制度、年金制度等、その総てをつぎ込まなければ、たった一人の方も救えないのです。

考えてください。新潟の山奥で一人暮らしをしている障害者の事を、雪の中に囲まれ、自力では雪掻きもできぬ状態のまま、時々起きる停電で、外の状況も分からないし、食糧はどう購入すれば良いのですか?
その為には、外の者が助けに行かなくてはならないのです。
その方法を教えるには、障害者の立場に立たねばでき無い事なのです。

障害を持ったものだから、自身の経験が生かせますが、保健婦さんでも、もっと単純なアドバイスどまりなのです。
もっと身近な、障害者の話を聞いて、何が困っているのか、どう言う援助が欲しいのか、ご家族共々の相談にのってあげてください。
又障害者を生んだ親も世間、親戚から責められ、肩身の狭い思いをしています。でも、どんな健康な夫婦間に置いても、障害者が生まれる確率はあるのです。

大阪の精神発達障害者は(脳年齢14歳)、私を頼って上京し、その母上から家庭内の惨状も伺いました。私は、自分の担当医に無理を言って診察を頼み、彼に必要な情報を添えて大学病院に行くようにさせました。

どうして障害者同士が、助け合わねばならないのでしょうか?
もう一度書きます。
どうして障害者同士が、助け合わねばならないのでしょうか?
それは世間が偏見に満ちているからなのです。
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あの、IQ 70未満だと感情はないのですか?


軽度の知的障害でも言葉がなくても表情豊かな人は人は多いですよ。
重度の障害でまばたきもしない、自発呼吸もない(24時間人工呼吸器で管理している)子供たちでも、vital signを見ていると、快・不快を感じているのがわかります。周囲の人にも愛され、必要とされています。(「この子が居ないとみんなが寂しくなってしまうから、ちょっと無理してでもお正月は入院させないでがんばらせてください」、と頼まれた方も居ます)
(もちろん、皆が皆、というわけには行きませんが。)
みんな、程度の差はあれ、いろいろな感情を持っていると思うんだけどなぁ・・・

・・・と、揚げ足取りでした。
もう火に油は注ぎません。
以後、無言で通します・・・・
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このように、ヒステリックな自己主張を


はじめる人がいるから、障害者への偏見が
強まるのです。

>もう二度と、障害者が、ひがみ根性を持っているなどと考えないで下さい。

わたしは別に障害者はひがみ根性を持っているとは考えて
いません。ただ、あなたがひがんでいることは
あなたの文面を冷静に読むだけでわかりますね。

誰も一言も触れていないのに、
>1票の力です。

などと演説をブチあげなくては気がすまないのが
その証拠です。
ひがみの裏返しで、そのような表現になってしまう
のです。

その、1票の力があるのは、世の中が障害者差別に
理解が進んできた証拠じゃないですか。
私の書いた文章をもういっぺん読み直してください。
なにも、あなたの主張と矛盾するところは
ないはずです。

だいたい、あなたがどのような活動をしているか
なんて、誰も尋ねていないのです。
障害イコール不幸か、という質問に答えようと
していただけなのに、話をねじまげてしまったのは
あなたなんですよ。

IQ70の方の話。いや…そんな実例を挙げなくても
知らないで書いてるわけじゃありません。
「言葉を持つ人はいないでしょう」
そんなもん、黙々と支え続けるしかないに
決まってるじゃありませんか。

感情に訴えかけることと、理性的に議論することは
別々にしてください。もちろん、心情的なことは
完全には理解できなくても、できる限りの慮りは
必要でしょう。しかし、それが完全でないことを
責められても困るのです。インパクトだけぶつけて
相手を黙らせようとするのはやめましょう。
話し合いが不健全になります。

>ボランティアと言う美名に、おごりを持たないで下さい。

いや、だから、おごるほどのことはしてない、って
書いてるじゃないですか。冷静に文章を読みましょうよ。こういうのをひがみと言わずして、どう言う
のですか?

>運命が、今、貴方を健常者にしているだけ、
いつ精神疾患に掛かるか分からないのです。

ええ、まったくおっしゃるとおり。
今日交通事故にあって半身不随になるかも
知れません。

そういうことを踏まえて、私が書いていないと
感じるのですか?

問題なのは、あなたの「心の壁」です。

どうか、あなたのために、その壁は取り壊して
ください。でないと、感情論と偏った理屈の
塊になって、現実的建設的な話し合いが出来ない
のです。
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不便と不幸は全く別の問題ではないでしょうか。

No5さんがおっしゃる「現実」はよく分ります。いわゆる社会から見られる差別的な「受身の立場」で不幸なんですか、とお聞きしたいものですが、ここは質問者様へのお答えの場ですので。
さて、祖父母様が不幸に見えますか?
不便だろうと思うのは、質問者様から見てのことですよね。
孫が生まれて、大部分のおじいちゃん・おばあちゃんは嬉しいものでしょう。
あなたが産まれてからずっと見守ってきたのではありませんか。ハイハイした、つかまり立ちした、2・3歩歩いた、ちょこちょこ歩けるようになった、幼稚園に入園した、そんな成長を見て、きっと幸せな気持ちで
いらしたと思いますよ。
孫が、温泉旅行させてくれた、公民館の催しで楽しんできた、家庭菜園でたくさん採れた、・・・人は様々な人生の楽しみ方があり、その中に幸せを見つけているのではないですか?
つまり、肉体的・物理的な表面上の「不便」と、心の問題・内面的な「幸せ」は全く別の問題と思いますけれど。
ちなみに、母は股関節の障害で健常者のように歩けませんが、社交的で好きな趣味にいそしんでいますよ。
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障害者が不便である事は、言うまでも無い事ですが、それを幸せと考えられる人が、障害者の中にどれだけいるのでしょうか?



普通の人達は、歩道を電動車椅子が通っていると、心の中で邪魔だと思っているでしょう。
最近駅にもエレベーターが付けられるようにはなりましたが、混んでいる電車に乗ったら、皆、どんな目で見るのでしょう。

精神疾患も、障害者なのに、目に見える姿をしていないため、優先席に座っていても、冷ややかな目で見られます。

どうしてこんな状況で、障害者が幸せだと想えるのでしょうか?
きっと健常者が美化した押し付けにしか想えませんが、障害者全員がこう想える世の中が来る事を願うしかありません。
障害者本人がこう言っているのであれば、自分のくじけそうな心を励ますためでしょう。

私は精神疾患をもっていますが、障害認定さえ受けられないのです。
認定を受けられる方がうらやましいと言うのが、私の本音です。
何故、精神疾患だけが、特別に排除されているのか、病院建設にも反対をされ、世間の人は、私の精神疾患を知った人は、興味心身で、私の顔を見ますし、きっと様々はうわさ話のためになっている事でしょう。
だから、井戸端会議にも、参加する事すら出来ないのです。

どんな障害も障害としては同じなのに、どうしていろいろな差別があるのでしょうか?そして、健常者とは誰ですか?
誰でもが、障害者になる可能性があると言うのに。。。。

私は、精神疾患者が、自由のその事を伝えられ、認め、支えられるような社会作りをしていますが、とても困難なことなのです。

誰もが、偏見を持たず、興味本位では無い対応をしてくれると、本当にうれしいですが、世の中はそんなに甘くは無く、一部の方達の努力の成果だけが、美化され、報道されています。

私はTVにも顔をだし、雑誌の取材も受け、その立場上実名報道されますが、親戚、知人の反応がとても怖いのです。親戚からは、きっと責められるでしょうし、私の名を知った人からは、「キチガイ」と後ろ指を指されるでしょう。
これが現実です。
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ちょっと、参考になる丁度よいURLが見つかりませんでしたが・・・。



車椅子の女性の日記のようなメールマガジンを以前とっていたのですが、そのときに目を啓かされたことがあります。
その方はずっと車椅子の生活なのですが、健常者と対等に友人関係を持っているのはもちろんのこと、普通に事務所づとめをしその傍らで同じような障害者を支援する活動も行い、さらに海外の障害者の社会事情を視察にもでかけ、バリアフリーを実践してゆくための公的な活動にも積極的に取り組んでいる、というような方でした。

当時私は医学生でしたが、その方の活動力、視点には、陰ながら尊敬の念を覚えていました。

そのメールマガジンの中で、女性が繰り返し言っていたのです。
『車椅子で出かけると、手を貸してくれようとする人が沢山いる。しかし私は段差も自分で登れるし駅の階段でも駅員さんを呼ぶためにボタンを押すこともできる。ありがたいとは思うが、反面、屈辱的でもある』
『日本はまだまだ道に段差が多い。自転車の無断駐輪で道が狭まっていることも多い』



学生の頃次のようなことを講義で教えられました。
障害者の「障害」とは、肉体的障害、物理的障害、社会的障害である。肉体的障害は取り除けないが、後の二つは努力すれば取り除ける。

おそらく、社会的障害というのは例えば上記の一つ目の『』のことでしょうし、物理的障害というのは例えば上記の二つ目の『』のことなのでしょう。
これらを取り除くことを「バリアフリー」といいます。(日本では、主に物理的障害を取り除くことにばかり目が向けられていますが。)

是非、バリアフリーという言葉をキーワードに、いろいろな意見を読んでみてください。


(p.s.私は、近視という障害を持っていますが、これに関して、目が悪くてかわいそう、と本気でいわれたことはなく、これは大変ありがたいことだと思っています。もしも宇宙飛行士やパイロットになりたいと思ったなら話は別だったかもしれませんが・・・。)

参考URL:http://www.hi.sfc.keio.ac.jp/access/research/rep …
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僕は、こう考えるようにしています。




僕は背が低くて(163センチ)若い頃は
それがとてもコンプレックスでした。

世の中には、背が高い人もいる。低い人もいる。
美人もいる。不美人もいる。

障害とまで言わなくても、人はみなそれぞれ違う。

例えば、手足が不自由でなくても、
運動神経の鈍い人も優れた人もいる。

身体障害も、その延長上にあると考えるべきじゃ
ないのか、と。


背が低いと、高いところのものを取るのに
不自由なんですよ。

身体障害のある人の不自由さも、基本的には
それと同じことじゃないかと。

いや、そう考えるべきで、その程度の不自由さを
感じる程度で生きていける世の中にならなきゃ
いけないんじゃないかと。
(バリアフリーや介助システムの充実で)


きれいごとの、理想論かも知れません。

でも、「不自由ではあるが不幸ではない」というのは
そういうことじゃないかと思うんです。

もしも不幸になったとしたら、それは本人じゃなくて
社会が不幸にしてしまったんですよ。きっと。
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