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「名詞」理解の誤り
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11227149.html?isSho …

<「名詞」理解の誤り Ⅱ」: 名詞が指示をするのか?>
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11232737.html

西山佑司『日本語名詞句の意味論と語用論-指示的名詞句と非指示的名詞句 』の非科学性
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11236898.html

の続きです。

上記では、名詞の指示という、機能を本質と取り違える誤りを指摘しましたが、未だに<【語】が指示するという誤り>を理解できていない応答が見られます。

この誤りは、橋本進吉の『新文典別記』(1938年)に見られ、<代名詞>を「事物を指す語」だと規定しています。ここから、更に<代名詞>を<指示詞>などと呼ぶようになり、

話し手のいる地点と状況をもとにしてものを指し示す機能を持つ語であり、特に代名詞や限定詞として用いられるものをいう。日本語の「これ」「その」や英語の this、that などは典型的な指示詞である。【Wikipedia】

などと機能的な理解、名称が展開されています。

そもそも<代名詞>という名称自体、名詞に代わる語という機能的な名称で、この誤りは、時枝誠記が『日本文法・口語篇』(1950年)で、<代名詞>は<名詞>を代用するものだという説明は、「皮相な観察」の所産だといい、「このような見解からは代名詞の真義が理解できない」と批判しています。

<指示詞>、つまり「指す語」というのは、幼児がデパートの売り場で菓子やオモチャを選ぶとか、被害者が人混みの中に見憶えがある犯人を発見したとか云う場合に、話し手が名称を知らないだけでなく聞き手も対象がどれだか分かりにくいため、「これ」「あれ」といいながら【指で対象を指す】という身振りを伴った表現になります。ここから、<代名詞>と指すことが同じ内容の表現と思われ、<代名詞>を「指す語」と規定するようになったものと考えられます。
(三浦つとむ「代名詞の機能をめぐって」:雑誌『試行』No.37-1972.11)

この機能主義的な発想が、さらに<代名詞>のみならず、【語】が「指示する」という発想に進展したものと考えられます。

これは、何も日本だけではなく、言語学者や文法学者が昔から「代名詞」を「名詞の代わりに用いられる語」と規定し、ソール・アーロン・クリプキ (Saul Aaron Kripke, 1940年12月13日 - :アメリカ合衆国の哲学者・論理学者)は、『名指しと必然性』(Naming and Necessity;1972)で、指示理論に関する指示の因果説を提唱し、固有名はどのように世界の事物を指示するのかという頓珍漢な議論を展開しています。

当然、この固有名詞の議論は未だに収束していません。

「個体概念説による固有名の意味論」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bi …

「固有名の意味論」
https://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/klib/kiyo/l …

このように、語が指示するという誤りを指摘したところ、

>>しかしまあ、「指示」が専門用語だと知らず、国語辞典的な「指で示す」という用法に当てはまらない!、などと批判する人がいるとは、なかなか面白いです。/
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/11232737.html
No.3の回答

などと、「言語哲学(分析哲学)に関しては全くの素人ですが、」と云う方からピント外れの応答をいただいたことがあります。

こうした発想の誤りから、英語の関係代名詞、疑問代名詞という誤った品詞名称が生まれ、フランス語文法他も同様の状況にあり学習者を混乱させているのが現状です。

そして、「は」と「が」についての議論でも指定、措定、主題などと「語が指示する」と盛んに論じられています。

言語は話者の認識の表現であり、語は概念としての意義の表現であることを理解すれば、このような「指示」「指す」や、「語が制限する」などというのは明らかに誤りであり、単なる音声や描線やドットの集合が何かを指示したり、制限するというのは一種のフェティシズムに過ぎないことになります。

西垣内 泰介<「非飽和名詞」を含む構文の構造と派生>
http://j-int.info/wp-jint/wp-content/uploads/201 …

は正に、こうした発想の基に、

2.2. 「非飽和名詞」と「指定文」

(21) パラメータを含んでいて,その値が具体的に定まらないかぎり,外延を定めることができないタイプの名詞 (西山 2003: 269)
本分析では,「非飽和名詞」と呼ばれている名詞は,次のような 2 項をとる名詞句を形成してその主要部となると考える。/

などと、指示の内容を問題にし「非飽和名詞」という名詞の機能を論じています。さらに、「【指定】文」というのも、文が指定するという発想に基づいているのは見易いどおりです。

そして、「カキ料理構文」と呼ばれる構文変換の条件を次のように論証しています。

1. 「非飽和名詞」「カキ料理構文」と「指定文」
 • 「カキ料理構文」
(1) カキ料理は 広島が本場だ。
(2) a. 広島がカキ料理の本場だ。
b. カキ料理の本場は 広島だ。
本論文で主張するポイントは,「本場」のような「非飽和名詞」は 2 つの項をとり,外項(「カキ料理」)が 主要部名詞「本場」の意味範囲を限定 (delimit) し,内項 (「広島」)がその意 味内容を「構成する」(constitute) または「過不足なく指定する」(exhaustively specify)という関係を持つ。/

ここでは、「本場」のような「非飽和名詞」という語の意義と、2 つの項をとり,外項(「カキ料理」)が 主要部名詞「本場」の意味範囲を限定 (delimit) するという文中での機能を同一平面に並べて論じるという錯綜した論理が展開されています。

しかし、語自体が「項をとり」、意味範囲を限定 (delimit) したりという機能と本質の取り違えを考えれば、裸の王様に近いトンデモ論文というしかありません。とても、言語、文、文法の科学的、論理的な解明に資すものではないと判断されます。

こうした論文が意味ありげに通用し論じられているのが現在の言語論、文法論、ならびに学会の現状です。

これは、言語規範を言語と取り違えたソシュールパラダイム下の言語実体観、さらに文のアプリオリな実在を前提とする生成文法の論理的必然ではありますが、こうした現象論段階に過ぎない解釈論の誤りを自覚し、科学的な言語論の展開をこそ目指すべきものと考えます。

このような現状を、諸賢はいかが判断されますでしょうか。■

A 回答 (1件)

さっき、失せ物が出て気分がいいから答えてあげよう。



不飽和名の定義が分かってないから、トンチンカンになる。
「本場」は不飽和名詞だ。

辞書にもそう書いてある。
(以前、アスナロウ氏本人が辞書の定義を示されて、不飽和ではないとおっしゃっていたが、明らかな誤謬である)

ほん‐ば【本場】
1 ある物事が本式に行われる場所。また、盛んに行われている所。「本場のフランス料理」「本場仕込み」
2 ある物の本来の産地。また、主要・有名な産地。「ワインの本場」
(デジタル大辞泉)

「ある物事」「ある物」が決まらなければ、その指示(!!)は決まらない。
つまり、「ある物事」「ある物」は変項(variable)である。
記号で書けば、
λx (e,x)
となる。
これを不飽和名詞という。


なお「指示」というのは「指で指すこと」pointing outではなく、referenceの訳語である。

これが分からないから、
指で指したときの「アレ」が話し手と聞き手両方から遠くにあるものを指し、
「あれどうなった?」の「アレ」が話し手と聞き手の両方の頭にあるものを指示する、
という区別が付かなくなる。

「えーと」が頭の中で計算していることを表すフィラーであるのに対し、
「あのー」が頭の中で指示対象を検索していることを表すフィラーである
ということも分からない。
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この回答へのお礼

早速の応答をありがとうございます。

ソシュールパラダイム下の発想を遺憾なく発揮され非常に有益なコメントと感じました。

>>不飽和名の定義が分かってないから、トンチンカンになる。
「本場」は不飽和名詞だ。

「不飽和名詞」なるものの存在を前提にすれば、そういうことになりますが、これまで指摘してきた通り、名詞とは実体概念を表わすもので、語の意義に飽和/不飽和などという区分はありません。

>>辞書にもそう書いてある。

残念ながら、提示された辞書にもそのような区分は記されていません。
あれば、是非具体的に提示いただきたく。

「ある物事」「ある物」が決まらなければ、その指示(!!)は決まらない。
つまり、「ある物事」「ある物」は変項(variable)である。
記号で書けば、
λx (e,x)
となる。
これを不飽和名詞という。

「その指示」、何かを指すという発想の誤りが必然的にその対象を探し求めることになり、それを意味付けるために変項などと意味不明の実体、存在を持ちだすことになります。

「本場のフランス料理」「本場仕込み」「ワインの本場」というように、場所、産地を表わす実体概念である名詞であるに過ぎません。

「本場のフランス料理」「本場仕込み」「ワインの本場」が、

「本場」のような「非飽和名詞」は 2 つの項をとり,外項(「カキ料理」)が 主要部名詞「本場」の意味範囲を限定 (delimit) し,内項 (「広島」)がその意 味内容を「構成する」(constitute) または「過不足なく指定する」(exhaustively specify)という関係を持つ。

などという恣意的な解釈の誤りを否定しています。

意義と意味の区別と関連が理解できないソシュールパラダイム下の言語実体観では、連辞などという因果を逆転した結果論と機能を結びつけて論じる他ないことを明かしています。

日本言語学会会長、田窪行則の【会長就任講演】、

「トコロの多義性を通じて見た言語,認知,論理」
http://www.ls-japan.org/modules/documents/LSJpap …

に、機能主義言語論の成れの果てが露呈しています。

「ている」を「テイ-ル」形などというのは膠着語である日本語を無視した噴飯ものです。■

お礼日時:2019/10/25 12:43

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