1. 世界について――あるいは 世界を超えた世界について―― 人間の
認識のあり方によって その対象を分けると 次のように成りました。これ
の成否・当否を問います・:
〇 認識の対象を種類分けするなら ~~~~~~~~~~~~~~~~~
A 経験事象:経験合理性で知り得るとするもの
A‐1 可知: 認識しうるとするもの
① 既知: 知り得たもの。あやまっていたと知ることがある。
② 未知: まだ知り得ていないもの。やがて既知となりうるもの。
A‐2 不可知: 認識の対象ではあるが 知り得ないと証明しえたもの
③ 不可知: (数学の命題などでそういう判断があり得るような)
B 非経験の場: 経験合理性ないし人知を超えたところ:超自然・超経験;
絶対性・無限
④ 非知: 知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
2. 《非知なるナゾ》が 神のことです。
3. そして 言いかえると 神は 《人間が知り得るかも知れないし 同
時に――同 時 に です――知り得ないかも知れない》。つねにそういう
あり方として 人間に相い対している。
4. つまり 《有る神(有神論)》と《無い神(無神論)》との〔人間の
目には〕相い対立する二つの説が 同・時・に ひとしく 成り立つ。これ
が 神です。
4-1. 《有る・無い》あるいは因果関係は 経験合理性の知り得る範囲
です。《非知》はこの範囲を超えています。
5. これが 形而上学〔としての哲学〕です。
A 回答 (7件)
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No.7
- 回答日時:
カントとの対比は一旦やめます。
すみません。究極的という言葉によって私は神とそれに関するものを表しました。あなたは神を論理学的主張における特例として扱うことにした、とすればいかがでしょうか。それでは表せない主張内容のうち、意味のあるものがありますでしょうか。やはり分からないのがこれを考えることが、どういうものに関する思考の役に立つのかということです。今のところ私は言葉の使い方を承諾した(しようとしている)のみで、新しい観点が見えないです。
ご回答をありがとうございます。
★ 究極的という言葉によって私は神とそれに関するものを表しました。
☆ たとえば 数でたとえて 0.999・・・ これが 1 に近づき究極
として(いわゆる実無限として) まさに 1 であると見做すというよう
なことを思い浮かべます。
ですが 神は・あるいは非知なるナゾは すでに一気にポーンと弾んで
このような数値とそれをさだめる論理を超えているのです。
★ あなたは神を論理学的主張における特例として扱うことにした、
☆ ちがいます。単なる仮説法に拠っただけです。
非知あるいは非経験の場 これを 想定し 神に当てた。それだけです。
★ やはり分からないのがこれを考えることが、どういうものに関する
思考の役に立つのかということです。
☆ 定義しえているということです。大きな成果です。
★ 今のところ私は言葉の使い方を承諾した(しようとしている)のみ
で、新しい観点が見えないです。
☆ 定義からの展開は そこかしこ(この哲学カテのです)で設問しつ
つやっています。
No.6
- 回答日時:
いえ、カントのアンチノミーの主張の筋道としては、
論理的弁証によって、神に関する一見矛盾したような二つの主張が、両方とも真であることが導かれた
↓
神、時間、無限などの究極的事物に関して人間の理性で考えることはできないのかもしれない
↓
人間の理性が行うことができるor行ってもよい論理的思考をいくつかだけに限定しよう
人が違うので言葉の使い方はもちろん異なると思いますが、エッセンスとしては同じことを言っているように思います。
神が絡む二律背反に遭遇したことで、カントは人間がしてもよい思考法を限定することで究極的事物に触れる主張を避けたが、一方あなたは究極的事物を《非知》とすることで論理学的な特例措置をした、と、こんな感じではありませんか?
ご回答をありがとうございます。
★ 論理的弁証によって、神に関する一見矛盾したような二つの主張が、
両方とも真であることが導かれた
☆ わたしは このことからして うたがっています。(例証を出さず
によわい立論のままにしますが)。
★ 神、時間、無限などの究極的事物に関して人間の理性で考えること
はできないのかもしれない
☆ 時間が 究極的事物だという見方には疑問を持ちますが この命題
は けっきょく何もかたっていません。《できないのかもしれない》で
止まってしまっているからです。
★ 人間の理性が行うことができるor行ってもよい論理的思考をいくつ
かだけに限定しよう
☆ そんなことは 経験科学として 経験合理性にもとづき推論をすす
めるのだと 初めから大前提として分かっていることです。
問題は この理性ないし論理を超えるナゾ〔があるとしたら そのこと〕
の処理をどうするか です。
★ 神が絡む二律背反に遭遇したことで、カントは人間がしてもよい思
考法を限定することで究極的事物に触れる主張を避けたが、
☆ その回避を回避することができる方法があるのです。
仮説法(アブダクション)です。
★ 一方あなたは究極的事物を《非知》とすることで論理学的な特例措
置をした、と、こんな感じではありませんか?
☆ 最初にも出ていましたが この《究極;究極的事物》が くせもの
です。
それは 《A 経験事象》のうちにあって 何かに限りなく近づくとき
のような概念(ないしイメージ)です。
ですが 《非知》は あくまでこうです。:
☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~
B 非経験の場: 経験合理性ないし人知を超えたところ:超自然・超経験;
絶対性・無限
④ 非知: 知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ
~~~~~~~~~~
No.5
- 回答日時:
ありがとうございます。
舞台設定も主張内容も、わかった気が致します。確かに区別が可能そうですね。前半部1は単に区別(この世には2種類の人間がいる、Aと¬Aだ、というようなもの)なのでメインパートは2からなのかなと思いました。しかし、そこで、2での一連の主張群は、「神を含む論理的主張は通常の論理学が通用しない」以上のことを述べていない気がします。それはすでにカントが4つのアンチノミー(二律背反)によって指摘している内容だと思います。いかがでしょうか…
ご回答をありがとうございます。
★ 舞台設定も主張内容も、わかった気が致します。・・・
☆ よかったです。
★ しかし、そこで、2での一連の主張群は、「神を含む論理的主張は通常
の論理学が通用しない」以上のことを述べていない気がします。それはすで
にカントが4つのアンチノミー(二律背反)によって指摘している内容だと
思います。いかがでしょうか…
☆ そうですね。かんたんに述べますが――まちがったら指摘してください
―― アンチノミーは 相反するふたつの命題のどちらとも 結論が決まら
ないのでしょう?
ですが 《非知》は ちがうんです。
☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~
3. そして 言いかえると 神は 《人間が知り得るかも知れないし 同
時に――同 時 に です――知り得ないかも知れない》。つねにそういう
あり方として 人間に相い対している。
4. つまり 《有る神(有神論)》と《無い神(無神論)》との〔人間の
目には〕相い対立する二つの説が 同・時・に ひとしく 成り立つ。これ
が 神です。
~~~~~~
☆ どうでしょう?
No.4
- 回答日時:
ありがとうございます。
やはり話題が抽象的になるにつれ「知る」という語の曖昧さが目立つような気がしてしまいます。言語はその意味を規定する日常的用法から離れることで意味が確定しなくなることはウィトゲンシュタインも主張しています。
質問文の補足等でも構いませんので、①〜④に確実に分類されるであろう例をそれぞれ教えて頂きたいです。その上で、その分類が(境界線付近は曖昧になろうとも)可能であり、かつ有用であるかを見たいです。
ご回答をありがとうございます。
A 経験事象:経験合理性で知り得るとするもの
A‐1 可知: 認識しうるとするもの
① 既知: 知り得たもの。あやまっていたと知ることがある。・・・・・・・《わたしが19xx年に生まれたこと》
② 未知: まだ知り得ていないもの。やがて既知となりうるもの。・・・・・《わたしが20〇〇年に死ぬこと》
A‐2 不可知: 認識の対象ではあるが 知り得ないと証明しえたもの
③ 不可知: (数学の命題などでそういう判断があり得るような)・・・・・(くわしい知識がありません)
B 非経験の場: 経験合理性ないし人知を超えたところ:超自然・超経験;
絶対性・無限
④ 非知: 知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ・・・・・・・《わたしが神の霊を享けて生きていること》
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ こんな感じでしょうか。
No.3
- 回答日時:
丁寧なご対応ありがとうございます。
確かにひとつめの例はあまりクリティカルではなかったかもしれないですね。二つめの例をもう少し改変します。
ピサの斜塔におけるガリレオの実験が行われるまで、質量の大きいものは質量の小さいものよりも先に落ちると信じられていました。そこで、その実験以前の人は、「質量の大きいものは速く落ちると知っていた」と言えるのでしょうか。
知るか知らないかには二分できないのではないでしょうか。神の存在や世界の存在、自我や他者が存在するということも同様で、「今のところ経験的合理性をもつ主張と一致する信念を持っている」ということしか言えないように思うのです。知っていることと知らないことを分ける以前に、そもそも我々が知っていることなどあるのか?というのが主張内容です。
ご回答をありがとうございます。
★ 丁寧なご対応ありがとうございます。
確かにひとつめの例はあまりクリティカルではなかったかも・・・
☆ いえ。どういたしまして。
★ 二つめの例をもう少し改変します。
ピサの斜塔におけるガリレオの実験が行われるまで、質量の大きいものは
質量の小さいものよりも先に落ちると信じられていました。そこで、その
実験以前の人は、「質量の大きいものは速く落ちると知っていた」と言え
るのでしょうか。
☆ やっかいな問題を挙げてこられましたが そうですね。たとえば み
んなの共通の理解として持たれた認識内容は それが間違いだと分かって
修正されるまでは 《知られていた》と言ってよいかと思います。
簡便法ですが。
★ 知るか知らないかには二分できないのではないでしょうか。
☆ それはですね。たとえ間違った内容としてでも みんなが共通に間違っ
ていたという・いま直前の問題があります。
そのかぎりで そのつどの一時点にあっては 《知っている》または《知り
得ていない》のどちらかに分かれる・・・といったふうに捉えてもよいかと
は思うのですが。
★ 神の存在や世界の存在、自我や他者が存在するということも同様で、
「今のところ経験的合理性をもつ主張と一致する信念を持っている」という
ことしか言えないように思うのです。
☆ どうですかねぇ。まぁ くわしく真実を追究してゆくと 分からなくな
るのかも知れません。
そうですね。いまの段階でわたしが思っているところは 趣旨説明として①
から④までに分類したどれかに 《ゆるくだけれど その人の確信として入
る》ということであれば よしとしたいと思うのですが どうなんですかね
ぇ。
★ 知っていることと知らないことを分ける以前に、そもそも我々が知って
いることなどあるのか?というのが主張内容です。
☆ あるくれみえさん。それは ダメなんです。なぜか?
この主張内容について では くれみえさんは 《知っている》のかどうか?
という問いが発せられるからです。・・・でしょう?
と思います。
No.2
- 回答日時:
それらの議論は、知ると知らないの境界は明確であるという前提に基づいているように思います。
その曖昧性を突く二つのシチュエーションを提案します。「Aである」と信じている人が「Aであるか、あるいはBである」と主張します。しかし実際には「Aでなく、Bである」が真だったとします。このとき、その人が信じている「Aであるか、あるいはBである」は依然として真でありますが、しかしその人は「Aであるか、あるいはBである」を知っていることになるでしょうか?
原子というものが存在すると信じている人は多いですが、実際にはこの世界は他者間で接続された仮想現実に過ぎず、原子など存在しなかったとします。このとき、皆は原子の存在を知っていると言えるのでしょうか?
ご回答をありがとうございます。
★ それらの議論は、知ると知らないの境界は明確であるという前提に基づいて
いるように思います。
☆ 気づきませんでしたが そういう問題でしたら 弥縫策はあります。
その《〈境界は 明確である〉と見なす》という前提をおけばよいのです。
★ その曖昧性を突く二つのシチュエーションを提案します。
☆ はい。ですが よく読み取れないでいます。
★ 「Aである」と信じている人が「Aであるか、あるいはBである」と主張しま
す。
☆ 発表内容は 心の中での判断とは別だということですね。
★ しかし実際には「Aでなく、Bである」が真だったとします。
☆ いえ。これは おかしい。なぜなら 《真である》ということを《知る・知
らないの区別ないしその境界》をどのように知ったか? これが 明らかではな
いからです。
論点先取のあやまりではないですか?
★ 原子というものが存在すると信じている人は多いですが、
☆ いえ。これは 経験合理性に照らして(つまり 科学の認識の問題として)
真であった・あるいは偽であったと認め合われたかどうかの問題です。
《信じる]とは別でしょう。
★ 実際にはこの世界は他者間で接続された仮想現実に過ぎず、原子など存在し
なかったとします。
☆ こういったところが わたしにはむつかしい。よく読み取れないのです。
★ このとき、皆は原子の存在を知っていると言えるのでしょうか?
☆ は――したがって―― 分かり難いんですが。・・・
No.1
- 回答日時:
人知及ば非。
無限永遠絶対。です。ご回答をありがとうございます。
☆☆ (趣旨説明欄)――非知についてですが――
3. そして 言いかえると 神は 《人間が知り得るかも知れないし 同
時に――同 時 に です――知り得ないかも知れない》。つねにそういう
あり方として 人間に相い対している。
☆ つまり 非知なる神は――その霊性〔の心やハタラキ〕について――人
間が・その人知が 《及んだ》と思う場合があり得て それと《同時にその
主観は いやいや及び得ていないかもという思いをも〔同時にひとしく〕持
ち得ている》ということです。
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