https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=2748&id=9186 …
この筆者であるアスナロウさんは、格助詞「に」の意義についての批判をいくつかのサイトを引用しつつ展開している。
これが、明らかな勘違いに基づくものであることを、要点のみを挙げつつ以下に証明していきたいと思う。
1.
「日本語 文法 格助詞:解説 - 東京外国語大学」
http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/content …
に対する批判。
煩雑になるのでかいつまんで引用させていただく。
☞から
(31)木村さんに本をあげます。
(略)
このように、「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」とは個別の文における意味であり、名詞の語の意義や格助詞「に」の意義ではないのである。
格助詞「に」自体が「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」を表わしているのではないことは明らかであろう。(アスナロウ)
☜まで
この点はまったく同感である。
◎「意味」=様々なシチュエーションに対応して解釈可能な個別の意味。一つの語に対して辞書が表記している複数の語釈のことを指す。
◎「意義」=あらゆるシチュエーションに通底する、ただひとつの意味。
ということだ。
問題は、このサイトでは、上記批判に値するようなことはまったく言っていない、という点。
つまり彼は勘違いをしているわけだ。
サイトでは上記(31)の例文に関して、
『2 「に」は物や情報の受け取り手を表わす』(要約)
と解説している。
《個別の文における意味であり、名詞の語の意義や格助詞「に」の意義ではない》点では同じ認識であるにもかかわらず、アスナロウさんは勘違いして、その点をまず批判している。
これが第一の勘違い。
また、この解説文は『格助詞「に」自体が「受け取り手」や「到着点」「動作の相手となる人」を表わしている』と言ってるわけではない。
以下、順に説明してみよう。
(ア-1)格助詞「に」は、(「に」の前の語に、「に」の後に続く)動作を空間的・時間的に位置付けるという認識を表わす。
これはアスナロウさんも納得できるはずの「に」の本質的意義である。
上記例文に当てはめれば、
(ア-2)格助詞「に」は、「木村さん」に『「あげる」という動作』を空間的に位置付けるという認識を表わす。
ということになる。
「木村さん」は、格助詞「に」(という主体的認識表現)によって『「あげる」という動作の行われる場所(=受け取り手)』として空間的に位置付けられた。
格助詞「に」を使うことによって「木村さん」は本の受け取り手として定められたわけだから、
・格助詞「に」は「木村さん」が本の受け取り手であること表わす。
という意味になる。
「受け取り手であること」の文中「こと=認識」であることは当然である。
これを『「に」は物や情報の受け取り手を表わす』と言っているだけなのだ。
しかるにアスナロウさんは、「に(主体的認識)」=「受け取り手(客体的認識):木村さん」ではないのだから間違っている、と主張している。
しかし、その論理でいくと、
・格助詞「から」は起点の認識を表わす。
という表現も《「から」=「起点」ではないのだから間違っている》ということになってしまう、という矛盾に気づいていない。
これが第二の勘違い。
つまり彼は二重の勘違いを犯していることになる。
むろん、「木村さん」が受け取り手となるのは、この文における動作が「あげる」だからである。
アスナロウさんも、
『この名詞句が「受け取り手」として理解されるのは、「に」で動詞「贈る」「教える」「あげる」との関係が表現されているからで、動詞が「もらう」「借りる」などになれば起点の意味に変化するのである。』
と極めて的確に指摘しているとおりだ。(この件は重要な認識である。以下の2でも詳しく触れることになると思う)
いずれにせよ、このサイトをあえて批判するなら、『「に」の意味だけを述べており、意義について触れられていない』という点にすぎない。
誤った根拠に基づく批判は撤回されるべきだろう。
蛇足として付け加えておくと、このサイトでは「やりもらい」の「渡し手」の例文が載っていないという点での不備がある。論点を避けようとしているかのようで印象はよろしくない。
基本的に初級者向けということのようだ。
2.
菅井三実【格助詞にの統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ】
https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8221 …
に対する批判。
☞から
「(格助詞「に」は)主格 NP から与格 NP へのエネルギー伝達を前提とする」ようでは、まともな文法の論理とは考えがたい。それが認知言語学の限界である。(アスナロウ)
☜まで
122ページで菅井は次のような例文を挙げている。
(16) a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
(16) b .花子が先輩から携帯電話を借りた.
この場合「(格助詞「に」は)主格 花子 から与格 先輩 へのエネルギー伝達を前提とする」ということになるのだが、それは文法の論理とは考えがたい、とアスナロウさんは批判しているわけだ。
たしかに「エネルギー伝達」はわかりにくいかもしれない。
もう少し読んでいくと、菅井は次のように続けている。
(16a)のように先輩をニ格で標示したときは,主格 NP花子から先輩に借りることを求めたことが前提となっているのに対し(16b)のようにカラ格で標示したときは花子が先輩に借りることを求めるという働きかけの側面が背景化され,結果的に先輩から携帯電話が一時的に移動していることがることが前景化されているということになる。
つまり、(16a)の場合、「花子は借りるという動作を先輩に積極的に求めた」という認識が話者にはある、と言っているわけだ。
ここは今回読み直してみて気づいた新鮮な視点であった。
(16a)をアスナロウさんの定義に則って解釈するなら、
《この文における格助詞「に」は、「(花子が)借りるという動作」を「先輩」という地点に空間的に位置付けるという話者の認識を表している。》
となるだろう。
ところで、文中の「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。「展示物を正面に━」
という意味の他動詞である。
他動詞は他に働きかけるという機能を持つのだから、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩という地点に空間的に位置付ける』という話者の認識は、「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識が話者にあったことを示している。
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識があったからこそ、話者は『「(花子が)借りるという動作」を「先輩という地点」に空間的に位置付けた』のである。
無論、
(16) b .花子が先輩から携帯電話を借りた.
に、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』という認識はない。先輩は純粋な起点として認識されているだけである。
以上のように、
『「(花子が)借りるという動作」を先輩に積極的に求めた』ということが「(格助詞「に」は)主格 花子 から与格 先輩 へのエネルギー伝達を前提とする」という文の意味であり、『まともな文法の論理とは考えがたい』というアスナロウさんの認識は勘違いであることが明らかになったはずである。
また、この点に関して、
【イメージで教える日本語の格助詞】で杉村泰氏が述べている以下の内容も理解に役立つと思われる。
☞から
堀川(智也氏)(1988)はこうした「に」について、「相手としての意味役割を持ち、主語が、相手に対して何らかの働きかけをすることが意味される。ここでいう働きかけとは、相手の好意を求める気持ち、相手の意志を動かそうとする気持ちが相手に向かって働くことである」と説明している。
☜まで
3.
さて、ここで【着点】という概念について若干触れてみたい。
すでに述べてきたように、
(16) a .花子が先輩に携帯電話を借りた.
は、
「先輩」は、格助詞「に」(という主体的認識表現)によって『「(花子が)借りる」という動作の行われる場所』として空間的に位置付けられた。
という意味である。
「先輩」は「空間的に位置付けられた【先】」なのであるから、「先輩」=【着点】という認識は極めて妥当である、と言えるはずだ。
・この文で先輩は起点ではないか?
という疑問が生じるのもよくわかる。
ただ、格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。
「先輩(間接目的語)」は、「(花子が)借りる」という動作の空間的【着点】として位置付けられた結果、携帯電話(直接目的語)の移動する「起点」となり得たのである。
つまり「起点」であるのは「に」の意義によるものではなく、あくまで【着点】として位置付けられたものが「(花子が)借りる」という動作だったからだ、ということである。
長文を最後までお読みいただきありがとうございます。
以上のように考える次第ですが、諸賢のご見解・ご感想などいただければ幸いです。
A 回答 (83件中1~10件)
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No.1
- 回答日時:
そもそも、文法の論理、言葉の論理、だけで説明しようとすること自体が無理というより不可能なんです。
その場の状況を人はどう感じるか、受け止めるか、それをどんな言葉を使って表現するか、してきたか、先なんです、文法は後からそれに理屈をつけただけです。
「に」を使って表現するようになったのは、どんな感じなのか・・・・。
文法、や言葉の倫理では説明できません、生物学?生体反応学?、まったく異なる分野の話が必要です、それで何故・・・が判明して、初めて文法等の出番になります。
現に分野が異なる範囲の論争に引き出せば、オーム返ししかできませんでした。
※オーム返し、重度知的障碍者にみられる特徴の一つ、こちらが発した言葉をそのまま返す。
ご回答ありがとうございます。
>そもそも、文法の論理、言葉の論理、だけで説明しようとすること自体が無理というより不可能なんです。
:
無理というか難しい、ということは言えますね。
言語中枢で機能する無意識の仕組みを解明しようというのですから。
ただ、それゆえ面白いということでしょう。
ネイティブが何の理屈もなく日本語を習得しているのは、それぞれの言葉が、どのような場面で使われるのが妥当であるのか?
ということを経験し、それを記憶してきているから。
感覚として記憶しているように見えますが、実際には脳の言語野に一定の規則性をもって格納されているはずです。
その「格納のされ方」を明らかにするのが文法の役割だろうと思います。
たとえばですが、
格助詞「に」については、
動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。(学研国語大辞典)
という注釈などは、かなり、それに近いと思います。
以前、おっしゃっていた「収束」という要素にもつながるのではないでしょうか。
いずれにせよ、あれこれ視点や切り口を変えて、少しでも真理に近づこうとする営みが日本語を学ぶ本義ではないか、という気がしています。
No.2
- 回答日時:
>>ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。
(アスナロウ)という解釈自体を否定しているわけではありません。
であれば、
(ア-1)格助詞「に」は、(「に」の前の語に、「に」の後に続く)動作を空間的・時間的に位置付けるという認識を表わす。
などと言えないことが理解できていませんね。この点が根本的な誤り、欠陥です。
格助詞「に」の意義とは、話者による対象の捉え方である主観を直接的に表す語で、文に表現された結果としての語の動作(←これは客体的表現の語)を位置付けるという認識を表わすのではありません。
あくまで、個別の認識の対象の位置付けの認識を表すもので、表現された結果としての文という平面の中の語しか取り挙げられないところに致命的な欠陥があります。
対象→認識→表現という立体的表現過程的を捉えられないということで、これが、「日本語 文法 格助詞:解説 - 東京外国語大学」や
菅井三実【格助詞にの統一的分析に向けた認知言語学的アプローチ】や
【イメージで教える日本語の格助詞】
などの根本的な欠陥です。
こうした欠陥商品をいくら取り上げたところで、何ら当方への反論にはなりません。レベルが異なります。■
ご回答ありがとうございます。
(ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。
という文を
(ア-1)格助詞「に」は、(「に」の前の語に、「に」の後に続く)動作を空間的・時間的に位置付けるという認識を表わす。
と言い換えることはできない、ということですね。
では(ア)は、
(ア-2)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的に位置付ける認識を表わす。
という文に言い換えることはできますか?
ご教授ください。
No.3
- 回答日時:
くだらない批判を繰り返す前に、『日本語はどういう言語か』に展開されている論理をまず正しく理解して下さい。
上記の解説を書いている吉本隆明が「内容は、きわめて高度で、画期的なものであった。」(p270)と記している通りです。残念ながら質問者にはこの点の認識、理解ができていないようです。
と先に指摘の通りで、「内容は、きわめて高度で、画期的なもの」が何を言っているのかが理解できるレベルまでしっかり学習しない限りお話になりません。■
ご回答ありがとうございます。
>上記の解説を書いている吉本隆明が「内容は、きわめて高度で、画期的なものであった。」(p270)と記している通りです。残念ながら質問者にはこの点の認識、理解ができていないようです。
:
隆明が「内容は、きわめて高度で、画期的なものであった。」と記しているのは、
『表現された言葉は、向こう側にあるが、認識の動きは、その都度、こちら側にあるという三浦つとむの示唆は、わたしには啓示であった。』からでしょうね。
『読み手は、作品の言葉をたどりながら、同時に、作者の認識の動きを追っているのだ。また、言葉が紡ぎだされたとき、紡ぎだした作者は、いわば、言葉によって逆に自分の位置をはっきりと限定される。』
とも言ってますが、ここで言う「言葉」は、おそらく主体的認識を表わす助詞・助動詞の類を指すのでしょう。
重要なのは、アスナロウさんが批判の対象としている論文やサイトなどが、これと違うことを言っているとは思えない、という点です。
#2の投稿にも、そうした勘違いが如実に表われています。
《格助詞「に」の意義とは、話者による対象の捉え方である主観を直接的に表す語》における「対象」は「客体的表現の語」のはずです。
つまり、
《格助詞「に(という主体的表現の語)」は、「客体的表現の語」の捉え方である主観を直接的に表わす語》である、とおっしゃっている。
つまり、捉える対象が「客体的表現の語」であっても、「に(という主体的表現の語)」で「主観的に直截的に表わす」ことはできるのですよね?
しかるに、
《(格助詞「に(という主体的表現の語)」は、)文に表現された結果としての語の動作(←これは客体的表現の語)を位置付けるという認識を(主観的に直截的に)表わすのではありません。》
という矛盾を同じ文中で平気で露呈しているのです。
おそらく難しいことは色々ご存じなのかもしれませんが、それを適用する場面を間違っている、という印象を受けます。
仮に、
格助詞「に」=動作・作用の着点
という認識が「ソシュールパラダイム下の形式主義、~~」ということなら、まったく同意できます。
しかし、そういう認識ではない相手に対して批判を繰り広げているので同意を得られないのです。
No.5
- 回答日時:
>>(ア-2)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的に位置付ける認識を表わす。
という文に言い換えることはできますか?ご教授ください。
できません。
当方の回答を良く読んで理解して下さい。
いい加減に、言葉遊びは止めましょう。■
ご回答ありがとうございます。
(ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。
(ア-2)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的に位置付ける認識を表わす。
この2文は別々の意味だ、ということですか。
「レベルが異なる」と言うより「次元が異なる」という印象を受けます。
「位置付けの認識」と「位置付ける認識」では意味が違う。
とおっしゃっていることになりますが、それで間違いありませんね?
念のための確認ですが、どのように違うのか教えていただけませんか?
No.8
- 回答日時:
>>この2文は別々の意味だ、ということですか。
「レベルが異なる」と言うより「次元が異なる」という印象を受けます。
「位置付けの認識」と「位置付ける認識」では意味が違う。
とおっしゃっていることになりますが、それで間違いありませんね?
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12189564.html
No.30で、
先に No.20 で記した通り、
この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表しているもので、格助詞「に」の意義は時間的・空間的な位置付けの認識を表すものです。
と回答している通りで、これを言葉遊びで、あれこれ弄り回しているため混乱しています。いい加減に言葉遊びは止めましょう。
まずは、これまでの指摘を真摯に受け止め正しく理解しましょう。
怪しげな、日本語紛いの言葉遊びは止めましょう。
何のメリットもありません。ただ、混乱、混迷するだけです。
こんなことをしていると、誰からも相手にされなくなりますよ。■
ご回答ありがとうございます。
>先に No.20 で記した通り、
この文における格助詞「に」は、会議の始まりを5時と時間的に位置付ける認識を表しているもので、格助詞「に」の意義は時間的・空間的な位置付けの認識を表すものです。
と回答している通りで、これを言葉遊びで、あれこれ弄り回しているため混乱しています。
:
言葉遊びでも弄繰り回しているわけでもありませんよ?
なぜここにこだわるかというと、#2での
《>ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)
という解釈自体を否定しているわけではありません。
であれば、
(ア-1)格助詞「に」は、(「に」の前の語に、「に」の後に続く)動作を空間的・時間的に位置付けるという認識を表わす。
などと言えないことが理解できていませんね。この点が根本的な誤り、欠陥です。》
というご回答に、アスナロウさんの勘違いが如実に表れているからです。
おそらく感づいておられないのでしょう。
なので、それをわかりやすく解説して差し上げようとして質問しているわけです。
非常に簡単な質問です。
もういちど問いますから、素直にイエスノーでお答えください。
それとも、ご自身の矛盾を暴かれるのが嫌さに、あれこれ屁理屈を捏ねて誤魔化そうとする姿勢を続けますか?
【再質問】
(ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。
と
(ア-2)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的に位置付ける認識を表わす。
では意味が違うということですね?
No.9
- 回答日時:
もう一度、念を押しておきますが、
>>格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。
「先輩(間接目的語)」は、「(花子が)借りる」という動作の空間的【着点】として位置付けられた結果、携帯電話(直接目的語)の移動する「起点」となり得たのである。
つまり「起点」であるのは「に」の意義によるものではなく、あくまで【着点】として位置付けられたものが「(花子が)借りる」という動作だったからだ、ということである。//
これが、意味不明なことば遊びの結果に過ぎません。■
No.10
- 回答日時:
>>>>ここで言う「言葉」は、おそらく主体的認識を表わす助詞・助動詞の類を指すのでしょう。
いいえ。
これは「作品の言葉」、つまり文、文章で、規範としての語の意義ではありません。
吉本隆明『言語にとって美とは何か』を読まれたことはありますか?
こんな、頓珍漢なことを言っているようでは救いようがありませんということです。
物言えば唇寒し秋の風
【読み】, ものいえばくちびるさむしあきのかぜ.
【意味】, 物言えば唇寒し秋の風とは、人の悪口を言えば、なんとなく後味の悪い思いをするというたとえ。また、余計なことを言えば災いを招くというたとえ。
<故事ことわざ辞典kotowaza-allguide.com ›
>>《格助詞「に」の意義とは、話者による対象の捉え方である主観を直接的に表す語》における「対象」は「客体的表現の語」のはずです。
つまり、
《格助詞「に(という主体的表現の語)」は、「客体的表現の語」の捉え方である主観を直接的に表わす語》である、とおっしゃっている。
ここにも根本的な誤りがあります。
対象自体が語ではありません。
ここでも媒介ということが理解できていません。
なにせ、理解力も無いままに、思い付きであれこれ応答しても意味はありません。まずは、しっかり学習して出直してください。■
ご回答ありがとうございます。
>ここにも根本的な誤りがあります。
対象自体が語ではありません。
:
アスナロウさんは、#2で、
《格助詞「に」の意義とは、話者による対象の捉え方である主観を直接的に表す語で、文に表現された結果としての語の動作(←これは客体的表現の語)を位置付けるという認識を表わすのではありません。》
とおっしゃっています。
《格助詞「に」の意義とは、話者による対象の捉え方である主観を直接的に表す語》という文に出てくる「対象」は「客体的表現の語」ですよね?
つまり、
《格助詞「に(という主体的表現の語)」は、「客体的表現の語(=対象)」の捉え方である主観を直接的に表わす語》である、とおっしゃっていることになりますよね。
違うのですか???
失礼ですが「思い付き」と感じるは、おそらく読解能力の不足を意味していると思います。
必要に迫られて若干ややこしい記述になっているかもしれませんが、論理的な筋道は外していません。
この程度の内容を理解できずに、三浦や隆明を読解できたとは到底思われませんな。
そう思っておいでなら、それもおそらく勘違いという公算が大です。
初心に戻って、論理的に自らの主張を検証しなおしてみるがよろしいでしょう。
当方の批判も、その一助として真摯に受け止めるのがご自身のためです。
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(ア)格助詞「に」は、動作の空間的・時間的な位置付けの認識を表わす。(アスナロウ)
という解釈自体を否定しているわけではありません。
大辞林にも、
「動作・作用が行われ,また存在する,時間的・空間的な位置や範囲を示すのが本来の用法」
といった注釈がある。
ただ、本質的意義というのであれば、
( B-1 ) 格助詞「に」は動作・作用の着点(という認識)を表わす。(hakobulu)
とするほうがベターではないか、ということ。
このように解釈によって様々な勘違いや誤解を防ぐことができるだろう、という意味でもある。
因みに紙数の関係で端折りましたが、下記質問でも着点について述べています。
お時間のあるときにでも。
菅井氏や杉村氏の解釈とそれほど違ったことを言っているわけではなさそうで一安心しているところ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12201688.html
「位置付けの認識」と「位置付ける認識」では意味内容が違う。
と言うのは、
「慰めの気持ち」と「慰める認識」では意味内容が違う。
と言っているようなものであることは理解なさっておられますか?
hakobulu:
『読み手は、作品の言葉をたどりながら、同時に、作者の認識の動きを追っているのだ。また、言葉が紡ぎだされたとき、紡ぎだした作者は、いわば、言葉によって逆に自分の位置をはっきりと限定される。』
とも言ってますが、ここで言う「言葉」は、おそらく主体的認識を表わす助詞・助動詞の類を指すのでしょう。
アスナロウ:
いいえ。
これは「作品の言葉」、つまり文、文章で、規範としての語の意義ではありません。
hakobulu:
図らずも読解力の無さをさらけ出しておられますね。(笑)
実に読みが浅い。
「作品の言葉」であるのは当たり前だが、「(読み手は)作者の認識の動きを追っている」と書いてるでしょ?
つまり、主体的認識を表わす語が絡んでいる言葉を指しているわけ。
たとえば「読み手」ではない、「読み手は」という主題提示の認識を伴う言葉のこと。
ブーメランお上手。(笑)
>もう一度、自身の質問の内容を真摯に見直して下さい。顔から火が出ると思うのですが?
:
どういった理由で『顔から火が出ると思う』と思うのですか?
その箇所を指摘して批判してくれば良いものを、そんな論議の基本すら実行できないでいるところをみると、おそらく、その理由さえ分からないのでしょう。
まあ、自己投影の典型例として拝聴しておきましょうかな。(笑)
しかし、勘違いは誰にもありますから、そう悲観しなくてもよろしいです。
知らざるを知らざると言う、これ知るなり。
過ちて改めざる、これを過ちと言う。
てな諺があったと思いますが、そゆことです。(笑)
#16お礼欄からの続き。
>6.
>>堀川(智也氏)(1988)はこうした「に」について、~~と説明している。
この説明が根本的に誤り。話者の認識の世界と客体の世界を混同している。
:
その辺りについては興味深い。
いずれ改めて伺いましょう。
とりあえず今はお互いの発言内容に対して責任ある解説を加えていかないと前に進むことはできないでしょう。
7.
>>ただ、格助詞「に」(という主体的認識表現)は、「(花子が)借りる」という【動作】を「先輩」という空間的地点に位置付ける認識なのだ。
意味不明の日本語。
以上のように批判というには程遠い奴シロウトの言葉のお遊びに過ぎない。
:
気持ちはわかります。
これも
>5時に位置付ける。
5時を位置付ける。
どちらですか?
の質問に答えることで解決につながるかもです。
繰り返しますが、逃げずに必ずお答えください。
ご自身のためにも。
いずれにせよ、読解力がほとんどなく、論理性の欠片もないことが明らかになったわけだ。
すばらしい書物は読んでいるのかもしれないが、あなたは、その内容を曲解している公算が大きい。
つまり、ダイヤを拾ってはきたかもしれんが、それを包丁研ぎに使って自慢しているようなものだな。(笑)
まあ、それなりに頑張れば良いが、他人を批判するタマじゃないことぐらいは、そろそろ自覚したほうがいいぞ?(笑)
そのたびに自らの論理性の無さ、読解力の無さを曝け出していることに気づくべき時だよ。
今までのよしみで忠告しおくから、拳拳服膺するがよろしかろう。(笑)
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12183747.html?isSho …
上記#38の質問にも逃げずに答えていただけますか?
まさか、こちらも分からない???
ひょっとして記憶にありません、とか?(笑)
>「先生からいただく」「先生に指導していただく」という文は能動文で、「指導する」という行為について見ているのであり、「指導を受ける」という側から見れば受身の文にならなければなりません。これを勝手に受身文と解釈するのは誤りです。(アスナロウ)
:
ご教授いただきたいのですが、
「先生に指導していただく」というのは、『「指導を受ける」という側から』見ている文ではない、とおっしゃっていますか?
4.
>どこで言っているのか具体的に提示してみて下さい。
:
他動詞には「他に働きかける」という機能を持つので、「花子は借りるという動作を先輩に積極的に求めた」という認識が話者にはあることになる。
「他動詞」
その動詞の表す動作や作用が直接他に働きかけたり、他をつくり出したりする働きとして成り立つもの。(大辞泉)
5.
格助詞「に」自体が表すのは、空間的・時間的な位置付けの認識です。(アスナロウ)
「位置付け」という転成名詞の元である「位置付ける」は、
物の占める場所をある地点に定める。配置する。「展示物を正面に位置付ける」
という意味の他動詞です。
上記定義文、
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
わからなければ、そのようにおっしゃってください。
ご自分の勘違いを知りたくはないのですか?
端くれとは言え、あなたも真理の徒でしょう。
>どこが勘違いですか!
だから、それを分かるようにしてあげるから、
「(時間的・空間的に)位置付ける」の場合
何を?
どこに?
位置付けるのですか?
という質問に答えてください、と申し上げている。
なぜ答えない?????
勘違いの原因がそこにある、と言っているのに。
答えられない、ということ自体が勘違いであることを証明している、とは思いませんか?
自分自身でも。