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仏教の宗派の中には、御本尊に釈迦ではなく阿弥陀如来をいだくものがあります。

私は別にそれに対して否定的な気持ちはないのですが、なぜ同じ仏教でありながら釈迦ではなく別の仏を御本尊にしなくてはいけなかったのか、その理由が知りたいのでどなたか教えてください。

A 回答 (11件中1~10件)

> 浄土宗、浄土真宗も、それ単体としては涙が出るほど衆生に即した美しい教えではありますが、果たしてこれが仏教の範疇にはいるのか? いろいろ疑問はございます。



> 仏教の宗派の中には、御本尊に釈迦ではなく阿弥陀如来をいだくものがあります。 なぜ同じ仏教でありながら

仏教という用語の使い方の是非が主題なのではないのでしょう。
マリア信仰や聖人や聖遺物を崇めるようなのは、キリスト教の範疇から外れる、聖書・福音書を聖なるものに扱うのはキリスト教とは認めがたいと言い出したら、通常のコミュニケーションがとれなくなるでしょう。

テーラワーダだけでなく、いろいろの密教、念仏宗、日蓮宗、もっぱら法事の曹洞宗寺院、とりまとめて仏教です。
大乗非仏説論は、大乗の教説は仏説ではないという主張であって、仏教と仏説とは同じ概念ではないと考えなければならないです。

"仏教"というのが最初にあって分派したり、新設されたものの仏教の範疇に組み入れられたり、様々でしょう。 むしろ、多様なものが一括されて"仏教"と呼ばれていると考えた方が良いです。 インドの仏教と、中国仏教とは関係があったにしても、あくまで中国仏教です。 日本の仏教の多くはその中国仏教の導入とその後の展開の過程で変異種がでただけのことです。 密教はもちろん、大乗も、チベット仏教でも、南伝、テラーワーダでも、(私は詳しく調べて書いているのではないですが) 仏説(スッタニバー)とは基本的に違うのだろうと思っています。
釈迦って、基本的に、在家で仏法僧に帰依し喜捨するような生活を推奨したのではなくて、出家して集団で修行し解脱に向かうことを求めているのだと思っています。 修行することを目指すものにのみ説いているように思います。 托鉢をすることは生きて行くためにも必要でしょうが、信者を増やして信者に効能を得させることを説くのは、仏説のようには思いません。(確証があるわけではないです) 仏説を教義として説いたのでは、一般在家のものには響かないし、スルーされてしまうでしょう。
菩提心なのか、とにかく、迷い、苦しみ、不安を抱く者を導こうという気になった僧(?)が、新しい教説を展開し、必要なら経本を造り、尊像や図像、マントラや祭儀、祈祷をはじめてもおかしくないです。 阿弥陀でも大日でも弥勒でも地蔵でも、ひたすら念仏でも、座禅や瞑想でも、荘厳華麗な本堂建設でも、その新しい教説を説くことが衆生を救える手段として有効であり、教説の中核思想と整合するものだと思えば、採用するでしょう。
「死後に荘厳な浄土に」を中核メッセージとしてアピールすることが衆情に訴え安心を与えることになると閃いた僧は阿弥陀経をメインに持ってくるし、阿弥陀仏を尊像にするでしょう。 死後のことなど説きたくないとか、不安の解消は別の方法でも出来ると考え、現世利益の祈祷・祈願をメインにする密教ならオールマイティの大日を創造する方法を思いつくのかもしれません。
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No9は別の質問への回答のつもりでかいたもので誤爆です。


お詫びして訂正させていただきます。
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>仏教からスピンアウトした別の宗教と考えるべきなのか…浄土宗、浄土真宗も、それ単体としては涙が出るほど衆生に即した美しい教えではありますが、果たしてこれが仏教の範疇にはいるのか?



なかなか難しいご指摘ですね。
ご存じのとおり、もともとはすべて仏教の経典から生じています。
仏教が伝わってからは経典はすべて釈迦の言葉を記録したものと信じられていました。
ですから「どの教典が釈迦の真意なのか」なんて無駄な法論が起こったのですね。

各宗派の人たちが自分達は「仏教を信じている」ということなのですから、ひとくくりにして「仏教」といっても良いと思います。
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この回答へのお礼

もちろん、そういう考え方も成り立つと言うことは理解しています。ありがとうございます。

お礼日時:2021/12/26 13:22

基本的に仏が数多くでてくるのは大乗仏教になってからですね。


それまではせいぜい釈迦をいれても過去七仏といわれていました。

ところが釈迦死後数百年たつと大乗仏教が発展し、仏がたくさんうまれてきます。阿弥陀如来、薬師如来、多宝如来、弥勒如来、定光如来、大日如来、阿閦如来、もう仏のインフレーションですね。それぞれの仏が仏国土とよばれるところにいるのです。

これらはすべて根拠となる大乗経典があります。たとえば阿弥陀如来には阿弥陀経や大無量寿経、薬師如来には薬師瑠璃光如来本願功徳経(薬師経)、大日如来には大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)などです。

仏教の各宗派にはそれぞれもっとも大事とする経典があります。日蓮宗などでは妙法蓮華経(法華経)、華厳宗では大方広仏華厳経(華厳経)ですね。浄土宗及び浄土真宗では「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の浄土三部経を重んじています。

阿弥陀如来がいる仏国土は浄土世界といわれ、この世で「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えらその仏国土に生まれ変わることができるというのが浄土宗、浄土真宗の教えです。ですので阿弥陀如来を信仰しているのです。

ただ他の方の回答で気になったことですがいくつか申し上げます。

・釈迦は法華経を説いてはいません。法華経や阿弥陀経をはじめとする大乗経典は釈迦入滅後数百年たって成立したものです。

・源信の『往生要集』は法華経を説いたものではありません。法華経の中の一節を引用しているだけです。それに比較し「浄土」との言葉はたくさん出てきます。
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この回答へのお礼

納得のいくご回答ありがとうございます。そう、法華経は釈迦が説いたものではないし、釈迦の考えとはかなりかけ離れた部分があります。

もちろん優れたところはたくさんありますし、傾聴すべき理論体系です。

かといって、それを仏教と言っていいのか、仏教からスピンアウトした別の宗教と考えるべきなのか…浄土宗、浄土真宗も、それ単体としては涙が出るほど衆生に即した美しい教えではありますが、果たしてこれが仏教の範疇にはいるのか?

いろいろ疑問はございます。

お礼日時:2021/12/26 11:08

仏も菩薩もごまんといるから


その宗派により千差万別ですよ

否定的な気持ちはない,
それは質問者さんが仏教が分からないためですね
ざっくり言うと
釈迦は実在した仏です、最高の経典によると
天国も地獄もこの世に存在する、
死んだら生前の業を背負い、再びこの世に生まれる

阿弥陀如来は架空の仏です
この世は地獄、天国(極楽)は西の彼方にある、死んでから行く
特徴は悪人でも行けるんだって

ちなみに(阿弥陀如来いる極楽)なんて、俺は否定的だよ

ちなみに極楽とは、こういう所、参考に
園児なら信じるかな
http://rokusann.sakura.ne.jp/contact.html#raberu8
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この回答へのお礼

私はテーラワーダ仏教の信者です。あなたにそんな間違いだらけの幼稚な説を聞かせてほしいとは思いません。
お釈迦様は天国や地獄、生まれかわりなどについて説いてはいませんよ。それらは大乗仏教以降の思想です。もっとも、「悪いことをしたら地獄に落ちる、良いことをしたらまた人間に生まれ変わる」というのは衆生に対するわかりやすい方便として使われるのは理解できます。
どうやらあなたは学会の考え方に則っているようですが、私が言っているのはそんなことではありません。

お礼日時:2021/12/26 10:22

身分精度の厳しい時代に、


これはいい方法があると語ってた人が、ブッタ君で
その後、悟りを開く、あの世を見つける。
弟子が文書化し発案された
仏教スタート数百年後に阿含経へ
解釈の違いによって新種解釈軍団の登場
その一派へ中国の方が書き写し日本でブレイク!
解釈の違いで団体が判れました。

ブッタさんの
聖地なんてだれもしらないで、拝んでる。訳だ

ちなみに我が仏壇には
観音様です。
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この回答へのお礼

誤解があるようですが、お釈迦様はあの世なんて説いていませんよ。

お礼日時:2021/12/26 10:00

神社仏閣を調べての結論です。


生者の世界は神社であり、死者の世界は仏教が支配しているのですが、
ここにお布施や勾玉料と言う上納金が発生します。

これもなく神社や寺院がボランティアとして活動していれば、納得するところもあるが、京都はどこのお寺に入っても拝観料と呼んで金を取りますね。

そして、神社に祀るのは、同じ神ではありません、もちろん仏教の本尊も同じで様々の本尊がある事で、見えてくる矛盾の先には、それぞれがトップで君臨する事です。

もしも死者の世界があって、そこの使者と言うなら、神や仏は同一人でなければいけません。あえて違うところに、商行為を感じますね。

神社仏閣の台頭は、古事記の編纂された745年前後からです。狛犬や常夜灯を調べた結果の結論です。
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この回答へのお礼

それ、たかだか日本ローカルの話であり、また仏教の教義とは関係ない話話ですね。

お礼日時:2021/12/26 09:45

「阿弥陀様は、人は死ぬと極楽浄土に行けると言われた」とされて


いるのが、阿弥陀如来を信仰する浄土系の宗派の考え方です。

浄土とは天国ような場所であり、様々な浄土があるとされているの
ですが、阿弥陀様だけが自分のいる場所を”極楽浄土”として示して
いるのです。

”極楽”という言葉は世の中に広まったのですが、本来は阿弥陀如来
のいる場所なのです。
その為、一般庶民の間に阿弥陀信仰が広まったのでしょう。
また、浄土真宗などは難しいお経を読まなくても「南無阿弥陀仏」
とさへ唱えれば良いとされているので、こうした簡易的な教えも
阿弥陀信仰が広まった理由でしょう。
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基本的に、『阿弥陀仏』を本尊とする宗派というのは、法然の開いた『浄土宗』、及び法然の弟子である親鸞の『浄土真宗』がそれです。


『阿弥陀仏』は、釈尊の説いた『法華経(妙法蓮華経)』にも登場しますが、西方極楽浄土に住む仏で、“人は称名念仏(南無阿弥陀仏と唱える)事で、亡くなってから西方極楽浄土に往生できる”としたのがその教えです。
法然が浄土宗を開く以前に、その基となる書籍が源信(慧心僧都)の著した『往生要集』であるが、本来、源信の『往生要集』というものは、『法華経(妙法蓮華経)』に導く為の教えを説いたもので、法然はこれを見誤り『阿弥陀仏』を本尊として建てた。

その他にも、空海(弘法大師)の開いた真言宗等では『大日如来』を本尊としています。その本尊は宗派によって様々に解釈され、定められているのが現状です。

仏教というものは、釈尊が説いた教えでありますから、教主釈尊を本尊として建てたいところですが、釈尊は『法華経(妙法蓮華経)』の中で、自らが成道した因となる『法』を明かしております。それこそが究極の『法』である『南無妙法蓮華経』であり、日蓮はこれを本尊としたのです。
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同じようなトークバラエティー番組でも、


各局少しは違いがある。
司会者が違うとか・・・。

みたいなモンでしょ?
まるっきり同じだと、
独自性・オリジナリティが分からないから
埋没してしまう。
御本尊が「鰯の頭」ってのも
ありますからねッ!
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この回答へのお礼

そんな回答を期待してるんじゃない、ってのは質問読めばわかりますよね?

お礼日時:2021/12/26 09:27

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