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どうでもいい質問ですが中大兄皇子と中臣鎌足は聖徳太子と一体どのような縁とゆかりがあるんだろうか?(知らない人、クレームをつける人は回答をお断り!!)

A 回答 (4件)

関係はありません。



そもそも大化の改新とは、蘇我本家とそれ以外の豪族との対決です。
聖徳太子(厩戸皇子)はそもそも蘇我本家と近い人でしたからね。
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聖徳太子と中大兄皇子は血縁関係です。


推古天皇の次の天皇は聖徳太子でしたが、推古天皇が長生きしたので、
機会を逸しました。
聖徳太子の息子の山背大兄皇子も天皇の候補でしたが、蘇我入鹿に
殺されました。
中臣鎌足は中大兄皇子の家来です。
「中大兄皇子と中臣鎌足は聖徳太子との関係性」の回答画像2
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中大兄皇子と聖徳太子は親戚ですね。

ただ、聖徳太子が本当にいたのかは、疑う学説も多い。

中大兄皇子は、蘇我に牛耳られた当時の天皇では非主流派でした。それが、テロで蘇我入鹿を殺したのが乙巳の変です。中臣鎌足は藤原の開祖ですが、いまや亡命中の百済王豊璋であることは常識。つまり、国を追われたラストエンペラーが、日本亡命中にいけてない天皇家のバカボン担いで、テロを起こしたのですね。

その後も天武天皇+蘇我家 VS 天智天皇+豊璋の争いは、100年続きます。

白村江の戦いで、わけのわからない海外遠征したのも、中臣鎌足が百済王だから。この戦い中、彼は日本の史実から消えます。

中臣鎌足の出生も、はっきりしないのも当然。

壬申の乱は日本の主流派の反乱。

日本書紀は、インチキで奪い取った百済王の傀儡政権の正当性をたかめるため、古代、大和朝廷のなりたち、物部、蘇我の貢献などを、神話+アルファに閉じ込め、天皇家を万世一系に仕立てるための偽書です。

だって、豊璋の息子の藤原不比等が編纂したのですから、当然そうなりますよね。欠史八代の矛盾も、邪馬台国の場所が不明なのも、大和朝廷が全国を統一した4~5世紀の経緯がよくわからないのも、みんなそれが原因です。

春すぎて 夏来きにけらし 白妙の、衣ほすてふ天の香具山という

という有名な持統天皇の歌がありますが、持統天皇は、天智天皇の娘で、天武の皇后です。この神の山に洗濯物を干すという、異様な歌は、天智VS天武の権力闘争の象徴とも言われています。

そもそも、乙巳の変に続く大化の改新のヒーローとされる、藤原鎌足(豊璋)。蘇我が律令制に反対したのを打ち破って、日本を律令制に導いたとされますがうそ。蘇我氏こそ、律令制にもっとも積極的な勢力でした。聖徳太子は、蘇我の貢献を鎮魂するために、象徴的に作られた人物または、厩戸皇子はいたが、さまざまな伝説は、複数の人の貢献を天才にみたてたとされています。

その後、奈良の都は天武系開くも100年続かず、京都に遷都した勢力は権力抗争に打ち勝った天智系。藤原の栄華も400年続きますが、これらは、関東の武士が勢力を取り返す1200年まで、百済の残党の傀儡政府だったということです。
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「どうでもいい質問」ならばどうでもいい回答をします。

と言っても嘘は書きません。
天智天皇と中臣家は君臣の関係でした。中臣と蘇我はライバル関係にありました。聖徳太子という人物との関係は一切不明です。
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