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中学歴史

氏姓制度により、豪族たちはヤマト大王をも凌ぐ力を持っていましたよね。
そしてそんな豪族達の争いを無くし、中央集権の国を作ろうとしたのが聖徳太子です。

そこで疑問です。
聖徳太子は蘇我馬子と推古天皇と共に日本を他国と対等な国にすることも目的としていたと聞きました。
でも蘇我馬子って他の豪族と争って中央の財政を握った張本人(財政を握ったのが馬子では無いのはわかっています。でも同じ一族で目的は同じでは?)ですよね?
どうして聖徳太子は馬子と協力できたんですか?血縁だから?ということは聖徳太子も蘇我氏が政治の実権を握るのに賛成していたんですか?

この辺りが理解出来ておらず、大変読みにくい文章だと思いますが読んでいただきありがとうございます。わかる方がいましたらぜひ教えてください。

A 回答 (1件)

その辺の歴史は、記紀の編纂過程で、藤原不比等による歴史改竄が行われた可能性が強く、特に蘇我馬子と聖徳太子の事績については記紀そのままの歴史ではないと考える専門家が多い。



いずれにしても、当時最大の勢力を誇っていた蘇我馬子が血縁関係の深い推古天皇を強引に即位させたが、推古は史上初めての女性天皇で本来は即位ははあり得なかった。それを成立させたのだから、馬子の政治的・軍事的権力が非常に強かったことはあきらかだ。
要するに馬子は、自分に言いなりになる推古を天皇にし、これまた自分の言いなりになる推古の甥の馬子よりも20歳以上も年下の聖徳太子を摂政にした。それが実態だろう。

推古が即位したのは、大陸で中国で久々に隋という統一王朝が出現したすぐ後で、隋は初代皇帝文帝が朝鮮半島に出兵を計画するなど東アジア情勢が緊迫していた時代だ。実際に2代目の煬帝の時代には3度の高句麗遠征をおこなっている。

聖徳太子がどうのという話ではなく、馬子の権力が非常に大きく、内政外交ともに馬子が最大の実力者で、聖徳太子には記紀に書いてあるような強い権力・権限はなかったと考えるのが妥当だろう。

大陸情勢の変化に対応すべく、隋の思惑を探りに遣隋使を送ったのも馬子、隋が日本に攻め寄せてきた場合に備えて、朝鮮半島南部の権益を守ることや、万一隋が日本まで攻め込んできた場合に備えて国内の防衛態勢強化を整備するとともに、国を挙げて軍事態勢に迅速に移行するための指揮命令系統を明らかにするためにも冠位十二階を定めたのも馬子、そう考えるのも妥当だろう。

以上は、中学レベルの歴史教育では求めていないだろうから、テストは教科書と先生の言う通りで頑張ってください。

ただ、ここ40~50年くらいの間で、歴史の教科書はずいぶん変わっている。数十年先には、私の回答がほぼそのまま中学の歴史教科書に載っているかもしれない。
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この回答へのお礼

分かりやすい回答ありがとうございます。
やはりいまの教科書は矛盾していますよね。その理由は藤原不比等による歴史改竄だったのですね。受験用の便器として教科書内容も頭に入れておきますが、詳しく教えていただいたおかげで自分の中で納得解を得られた気がします。本当にありがとうございました。

お礼日時:2022/11/19 23:33

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