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隋書倭国伝に
「開皇二十(=推古天皇の八=600)年、倭王あり、姓は阿毎、
字は多利思比孤、阿輩雞彌と號す。・・・・・
倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、
アグラして坐し、日出ずれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと」という。
・・・・・
王の妻は雞彌と號す。後宮に女六・七百
人あり。太子を名付けて利歌彌多弗利と號す」

と出てくる「多利思比孤」(タリシヒコ)は男性を表す名称なので、推古天皇の御世に出て来る
となれば、推古天皇ではなく、
誰かほかの人物を当てるべきであると、
当時の人物の中から誰か妥当な男性探しをする学者が
いるが、そういう解釈は正しいですか。
倭王が推古天皇(女性天皇)になってしまうとレズになってしまうからおかしい。????

利歌彌多弗利は太子ということで聖徳太子に当て、利を和の誤として
ワカミタフリ=ワカミトホリ=若き御世嗣と解釈されています。

ただ、阿輩雞彌=大君(おほきみ)は天皇になってしまうので、
やはり推古天皇になるのか?????

以上の見解について、どなたか正しき答えを与えてくださる方はご教授お願いします。

A 回答 (1件)

専門家でも学説多様な問題に正しき答えなど出せる由もありませんが。


①阿毎多利思比孤は用明天皇。(在位585年-587年)
その後、崇峻天皇(在位587年-592年)、推古天皇(在位593年-628年)ですが、当時の交通手段から直近の情報でも正確な情報でもないことは十分考えられます。誤字脱字も多いようです。
②利歌彌多弗利は聖徳太子(生574年没622年)か蘇我馬子(生551年没626年)。
この頃の資料は、古事記・日本書紀にも矛盾のある記述がたくさんあり、実在性も疑わしいですから、無理につじつまを合わせても意味がありません。
古代物語の創作であれば、自由につじつまを合わせて良いと思います。韓国の「チャングム」など、すごい創造力です。
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この回答へのお礼

ありがとう

①の阿毎多利思比孤は岩波文庫の
「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」では
天皇のイミナに足彦(たらしひこ)がおおいから、一般天皇の尊称という説あり。」ということは中国では一般的に王は男性と決まっているので、
日本でもそうではないかという論理で、多くの妃と后を持つであろうという推測で誇張して6~700人くらいいたであろうという見方をする学者も
いたのかなと、時は推古天皇の御代という女性天皇の治める時であったが、
時の随には、それは例外的な臨時の治政の時の事にしか
映らなかったという見方をしていたのかなとも想像できますでしょうか。

➁は聖徳太子のほうが妥当かもしれません。岩波も同様。
蘇我馬子は推古34年5月廿日に薨去とあり、
聖徳太子は推古29年2月5日に薨去ということで
皇太子はどちらも推古天皇在世中に亡くなったので
推古天皇の後、後継決まらずで大臣・重臣協議の結果、舒明天皇の
許に裁定が下ったのかもしれませんね。

中国史は、こういう時代的流れまで見ず、
一般的に王は男なりで天皇が女性なのはあくまで臨時という見方で
「アメタリシヒコ」という形で、書いたのかなあとも想像してみました。

ここではほかの見解もないかと
広く皆様に意見を募集した次第です。

トモクンアヤチャン様のご教授深く感謝申し上げます。

お礼日時:2021/10/01 10:40

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