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現在の演歌はいつ頃から演歌と呼ばれるようになったんでしょうか?その前は流行歌と呼んでいたんでしょうか?まだ演歌が流行歌と呼ばれた時代は子供や若者や誰でも幅広い世代が聴いていて、演歌が流行歌と呼ばれた時代は子供は学校の話題になって、家族が同じ歌を聴いていた時代が有ったみたいなんですが、昔は北島三郎も三橋美智也も村田英雄も水前寺清子の歌も平凡や明星の歌本にふつうに載っていて、小学校や中学校で友達同士で話題にしたり、演歌がまだ流行歌と呼ばれていた時代は演歌も各レコード会社にオーケストラが有って今のJ-POPのようにちゃんとした楽器演奏をしていて、今の時代のように子供が聴く歌、若者の歌や親世代が聴く歌と昔は分かれていなかったと聞いたんですが、昔は一家にテレビが1台しかなく、演歌がまだ流行歌と呼ばれた時代の懐メロが僕にもJ-POP感覚で楽しめるようになっている訳は、当時はファミリーで楽しめるように作られていた為なんでしょうか?分かる方は回答をお願いします。

A 回答 (3件)

昭和42-43年に狂乱的GSブームがありましたが、それをかき消す目的で「演歌」を強引に誕生させました。


演歌の騎手は森進一でした。
直後に藤圭子がデビューしましたが、五木寛之は藤圭子の歌こそが演歌(恨歌)だと絶賛しました。

これ以前は「歌謡曲」と呼ばれていました。
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この回答へのお礼

ありがとう

教えていただきありがとうございます。

お礼日時:2022/02/05 09:56

演歌の起源は明治10年代に起こった自由民権運動の「演説歌」で、当初は書生(現在の大学生)による政治や社会批判などがおもな内容でした。

やがて政治活動家が歌うようになったことから「壮士演歌」「壮士節」となり、『ダイナマイト節』や『オッペケペー節』などが流行ります。

日露戦争前後から庶民の心情がテーマとなり、政治性から流行歌の性格が強くなります。バイオリンなどの伴奏を付けて大衆歌謡の基礎が作られ、職業化した「演歌師」が登場します。

大正10年に発表された「船頭小唄」は日本固有のヨナ抜き音階で作曲され、
その後の昭和演歌の基礎となります。

そして昭和3年、日本ビクター、日本コロンビアといった外資系レコード産業の成立によりレコード歌謡が誕生します。

昭和20年の敗戦後、戦前から続く文化は封建的とみなされ、アメリカから流入したジャズ調のレコード歌謡が「都会調」となり主流になります。天才少女と言われた美空ひばりもこの頃、デビューしました。

やがてラジオが全国に普及すると、地方を舞台にした「田舎調」の楽曲が誕生し、春日八郎や島倉千代子の歌がヒットします。これにより「都会調」を代表する美空ひばりも「田舎調」に近い楽曲を発表し、後年、「演歌歌手」と呼ばれるきっかけを作りました。

昭和38年、コロンビアを退社したスタッフたちが演歌専門レーベル「日本
クラウン」を設立。これにより演歌と流行歌が分裂していきます。

昭和41年、作家の五木寛之が音楽ディレクター・馬淵玄三をモデルにした
小説「艶歌」を発表します。この小説は芸能化した「艶歌」を肯定的に捉え
音楽ジャンルとしての「演歌」の確立に大きく貢献しました。

その後、有線放送を通じて美川憲一の「柳ヶ瀬ブルース」が大ヒットし、ブルース歌謡にフォーク要素を取り入れた藤圭子がブームに。これにより演歌の知名度が上がり、若者の間にも演歌歌手の存在が広がりました。

美空ひばり/川の流れのように

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この回答へのお礼

助かりました

リンクを張っていただきありがとうございます。

お礼日時:2022/02/08 22:10
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この回答へのお礼

ありがとう

リンクを張っていただきありがとうございます。

お礼日時:2022/02/08 22:11

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