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田沼意次の先進的な経済・財政政策は、なぜ当時の人々には受け入れられなかったのですか?封建社会は土地と米が基本だからですか?

A 回答 (5件)

「当時の人々」を、どのように捉えるのかが一番問題でしょう。


政敵というか、田沼を嫌う人々もいて、そういう人からは田沼は容認できないことをすると思われたでしょう。
ただ、経済政策や財政政策を政策論として論じ合ったり、忌避するようなことはそもそも希でしょう。 「当時の人々」はそのようなことに関心を持たないし、ほぼいつの時代でも似たようなものです。

幕府の中枢である老中や側用人の状況・情報をもてる人は、当時ごく少数です。 何がどうして、だれが、など、かなりの上層の武士でも知り得ないことです。 政策についても、どのような方針で何が行われているのかを知ることは、とても難しいことです。
ただ、人気・不人気とか、もてはやす・けなすなどは、内情や実態を知っていることとは無関係に起きます。 
田沼親子や田沼政治路線を担ってきた人の失脚は、そうした人気・不人気・非難・揶揄とは全く別のことによるものでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC …

> 封建社会は土地と米が基本だからですか?

ちょっとは関係があります。

財政逼迫にあえぐ大名の米手形・米切手を大量発行して大坂で資金調達するので米相場が下落を続け、米の現物で租税を徴収し侍の扶持に充てる制度では侍社会が破綻するという状況がもうきていたのです。 そのため、米価の下落を止める、米価を上げる必要もあって、田沼は大坂の米市場・相場安定に介入し、米相場下落を止める成果を得ます。 しかし、大名家は米切手の自由発行権を奪われ、こうした政策を進める田沼を政敵と見なし、排撃しようとするのです。 大名としては、老中や用人が各藩に対する貸付をコントロールできてしまう制度を作ろうとする者を許してはおけないという強い感情が高ぶったのです。 だからこそ、佐野事件を良いきっかけに田沼の追い落としをしたのです。 米相場の上昇を強く望むが、幕府の政策で藩の財政や藩領米の扱いに規制は受けたくはないということが、バックにありました。

この時期、天災・疫病、三原山・桜島・浅間山の大噴火、さらには天明の大飢饉と天災地変が多発したので、そうした状況で、政権が安定するのは難しいですね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2022/06/21 04:59

天災が多いのがマイナス。


せっかくの印旛沼開拓が、1回の水害でリセットされたり。。
あとは、次の松平定信の情報操作で悪く言われるようになった。庶民は、けっこう支持してたと思います。
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当時の人には受け入れられたけど周囲の旧態依然とする幕閣ににらまれて失脚したんじゃなかったっけ。

その旧態依然ってのは確かに米を基本とする単一経済の信奉者たちだけど、それは当時の人々の一部で庶民は歓迎していたのでは。だから失脚後には市井では田沼恋しきなんてうたわれたわけだし。
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東照大権現の御政道と中興の祖吉宗の政策が金科玉条正しいとされてしまっていたから。


それをなぞることが「改革」でそれを逸脱するのは悪政とされました。
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多くの大人は今まで生きた経験と価値観を大事にする。

そして多くの凡人は変化が起こらないというか、起こって欲しくないと思っている。

封建社会云々は関係ない。現代でも同じことだ。とにかく平凡な多くの大人は当たり前のことだが変化を嫌う。

変化の必要性を訴えた大人も少なくなかったとはいえ、現実に明治維新を起こした原動力は若者だった。暴走だったとはいえ、昭和が始まった頃に危機感を抱いて突っ走ったのも青年将校たちだった。
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