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江戸時代の言語教育について、司馬遼太郎が次のように言っています。
お侍は謡をやり、町人は浄瑠璃・義太夫、と。
質問は、何故、階級により謡/浄瑠璃・義太夫と別なのですか?

A 回答 (4件)

高校の日本史の中で、次のように説明されているものがあります。


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江戸時代に入っ能や狂言は、将軍や大名の前で演じられ続けたが、広範な人々に享受されることはなく、茶の湯と同様に支配層のまねをした一部の町人の鑑賞にとどまった。つまり、能・狂言はすでに古典芸能の仲間入りをしていたともいえる。これに対して歌舞伎と浄瑠璃は、町人生活のなかにとけ込み、支持されて発展した。歌舞伎は、江戸時代初期に風俗取締りのうえから女歌舞伎、ついで若衆歌舞伎が禁止され.男女すべての役を男優だけで演じる野郎歌舞伎だけが元禄時代以降には行われた。これは歌舞から演劇への転換ともなり、文学(脚本)とのかかわりも始まる。常設の芝居小屋も京都に3座大坂に4座江戸に4座おかれた。江戸では荒事と呼ばれる勇壮な演技で名をはせた初代市川団十郎(1660~1704)、上方では和事と呼ばれる恋愛劇を得意とする坂田藤十郎(1647~1709)や女形の代表とされる芳沢あやめ(1673~1729)らの名優が活躍した。
しかし近松の作品は、脚本が忠実に演じられる人形浄瑠璃にこそ、その味わいが生まれた。辰松八郎兵衛(?~1734)らの人形遇いと、竹本義太夫(1651~1714)らによって語られる浄瑠璃は、歌舞伎以上の共感を人々に与えた。また義太夫の語りは.義太夫節という独立した音曲に成長していった。
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町人というのは、江戸時代の消費文化の隆盛で、江戸や大坂などの中で財力を蓄えた人々を階層・身分として把握できるようになったときに生まれたものです。 新興の財力をもつ人々なので、楽しみのために遊郭や衣服、調度、芝居、音曲、舞踊、読み本なども多く求めたのです。 当然、新しい嗜好も高い技能を求めるので、次々と町人文化が生み出されます。
一方、江戸に住む侍の多くは一種の田舎者であり金もない人々です。そういう侍の多くは、遊興に金を使えません。せいぜい貸本を借りて宿舎で読む位のことと、とにかくヒマですることがないので、市中を散策するのですが、金がないので、ちょっと飯を食う、酒を呑む、たまに芝居見物出来ればいいという程度の生活です。 江戸中期には剣術の道場さえも冬の時代でした。 上級の金のある侍でも、逆に身分にあった生活費が大変でした。 要するに、能や謡に時間と金を掛けることが出来る人がいないのです。 能は廃れ、謡が一部の愛好家に賞揚されていた状態になります。
金がある町人にとっては、楽器演奏もある華やいだ浄瑠璃、人形芝居、盛り上がりの情感を演出する芝居が、より魅力的になったでしょう。 三味線や義太夫は自分が出来る達成感のある芸能だったでしょう。

司馬遼太郎は「江戸時代には武家階級は謡曲を、町人階級は浄瑠璃を素養としてたしなみました」「これは単なる娯楽とか教養を越えて、ある意味では生活のための必須事項でありました」といってる(書いてる?)そうです(読んでいないし、事実を確認していません)
そうであれば、もしかしたら、ビジネスマンがゴルフでも親交を深めていくように、町人も芝居・浄瑠璃などに関する話題や興味を共有することで親交を深めるということもあったのかも知れないです。町人も元は伊勢、近江、難波、越後、いろいろな地域から来ていて、文化背景が異なり、言語も違いがあったでしょうから、江戸の町人文化を形成する上で、大事なことだったのかも知れません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
謡/浄瑠璃・義太夫は、武士/町人の共通語の会得のために嗜んでいた、とも言われています。
<金がある町人にとっては、楽器演奏もある華やいだ浄瑠璃、人形芝居、盛り上がりの情感を演出する芝居が、より魅力的になったでしょう。>ですね。

お礼日時:2023/02/18 15:55

#2です。


娯楽や趣味をどの様にして楽しんでいたのかは私は解りません。
>司馬のどこが違っているのですか?
違ってはいません、武士も庶民も文字を覚えるにせよ、娯楽にせよ、
様々な事をしますし、地方に依っても形態や状況が違います。
それを、武士が云々・・町人は云々・・と決めつける処が問題なのです。

ここは、議論する場では無いと言う事でこの場から逃げます。
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この回答へのお礼

再度の御回答とありがとうございます。
ご尤も

お礼日時:2023/02/18 15:48

司馬遼太郎さんは小説を書くために歴史を調べたに過ぎず、歴史学者


ではありません。
江戸時代の言語教育と芸能だけで行っていたとは思えませんね。

歴史の実体はもっと深くて拡がりが有ります、上辺だけの知識での考えで
物を言うと底の浅い発言となり、質問者様の様な疑問が生じるのです。
「講釈師見てきたような嘘を言う」なので信頼出来るに足りないのです。
一歩引いてみるべきでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとございます。
それで、司馬のどこが違っているのですか?

お礼日時:2023/02/17 17:18

謡は能の「歌」の部分ですね。


ご存知とは思いますが、能は室町時代初期に猿楽から派生した芸能です。特に義満以降の歴代室町将軍は能が好きで、能を保護し度々能の講演会を開催しました。
その結果、幕閣や守護大名クラスの上級武士の間では、将軍とお付き合いするための必須教養となったのです。
その後も秀吉、家康も能が好きで保護したので、この伝統は受け継がれて大名家で能役者を召抱えるのは当たり前となり、大名家の上級武士も殿様の覚えめでたくなるための基本的な教養として必死に習ったのです。
それに対して浄瑠璃は、歌舞伎と同じく江戸時代初期に庶民向けの娯楽として発生しました。そのため、江戸時代を通じて下世話な庶民向けの芸能という地位を脱することができなかったのです。
ザックリいうと、能は江戸時代には身分ある武士の基本的な教養。浄瑠璃は庶民の娯楽です。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
能は、<歴代室町将軍は能が好き。>というかなり属人的な面から発生し継続してきたのですね。
浄瑠璃は<庶民向けの娯楽として発生しました。>の

お礼日時:2023/02/15 08:59

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