質問

どなたか教えて下さい。
「南無妙法蓮華経」と「般若心経」を一緒に唱えるのは良くないでしょうか?何か問題があるでしょうか?
知っている方がいたら教えて下さい。
よろしくお願いします。

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回答 (20件中1~10件)

最初に、どうして《一緒に唱えるな》と言われているのか、実際の法華経の文証により検証していきましょう。これは方便品第二に、《不須復説》と言う言葉があるからです。

漢文のままだと、何が書いてあるのか判らないでしょうから現代文に直してみましょう。



 お釈迦様は、無量義三昧から起きられると、知恵第一の舎利弗様にこうおっしゃいました。
「多くの仏様がいらっしゃいますが、その知恵は深く広いものです。
どのような学者も、また悟りを開いたと言う人でさえも、その知恵をうかがい知る事など出来ないのです。
どうしてかと言いますと、
《仏》とは百千万億と言う限りない数の仏様方に習い、仏様の修行を重ね、
勇猛精進して、その名をあげ、限りない数の法の成就を成し遂げてきた者なのです。
このため、その時々の状況に応じて説く教えの真の意味は簡単には分からないのです。
 舎利弗よ。わたしも今まで、人々の状態に応じて、数々の因縁や比喩を以て仮の教えを示し、
人々を導いてきました。仮の教えと言っても、そこに全て奥義が入っているのですよ。
舎利弗よ。わたしは、これほどの法を学び、それらの法を成就してきたのです。
舎利弗よ。わたしは人々の機根に合わせ、人々の求める所に合わせ、それらを説いていたのです。
 でも、本当の奥義は、ただ仏から、仏にのみに与えられる法なのです。
全ての教えには、その、見た目や、性質や、体もあり、力も、作用も、原因も、縁も、結果も、報いも・・・・・・全てのものが備わっていますが、人の境地を、ある場所から次の所に導く・・・・・その最初の境地と、目的の境地との間で、その全てが働いてしまうのです。
仏から仏に与えられる法は、そこには入りようがありません。
だから舎利弗よ、今までの教えは仮の教えとして、それを絶対の法であるとしてはならないのです。」


このままだと、まだ意味が分かりづらいと思いますので、少し解説を加えますと、

法華経では、人の境地を10の段階に分類します。

地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界、声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界の十段階です。

さて、人はいろいろな外部の状況によって、この十界のいろいろな段階をめぐります。

この外部からの刺激を《諸法》と呼びます。

たとえば、《何々するな》と言う法があります。

この言葉を聞くと、大抵の人はこの言葉を守る状況と破る状況の二者択一をすることとなります。

この言葉を守る状況は十界で言えば修羅界、この言葉を守らない状況は三悪道となります。

つまり、破っても、守ってもこの法は三悪道と修羅界に人の境地を固定する法となるのです。

この様にすべての法は、十界の異なる二つの境地を結ぶと言う働きを持つのですが、

方便品では、仏界と、他の境地を結ぶ法は存在出来ないと言っているのです。

だから、人の縁により説いたすべての法を一旦置きなさいと語っているのです。



これは仏界と言う一つの境地に対して語られている言葉であり、

《何々すれば仏界に至る》と言う事は何一つないのです。

たとえば、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えれば仏界に至るのならば、

今の世は仏世となり、金剛不壊となっていなければおかしいですよね。

でも、実際にはそのようにはなっていない。

これは、法華経を諸法の一つのごとく考えるから意味が分からなくなっているのです。


次に般若心経をみてみましょう。

般若心とは、智慧と言う意味です。

そして、この般若心は六波羅蜜の第一となっています。

六波羅蜜とは、天界・人界と菩薩界を結ぶ法を意味し、その中の最上のものを般若心としているのです。

そして、法華経には《説妙法蓮華経。教菩薩法。仏所護念。》の文字があります。


つまり、この言葉を、《法華経を習う為には、まず菩薩となるべし》と解けば、

先に、般若心経を読み、後に法華経を読むと言う教えが出てきます。



まとめれば、仏界と言う一つの境地に至るためには、般若心に囚われてはならない。

しかし、修行の途中で菩薩界にまず至ることを目的とするならば、これは有効となります。


法華経では、これを《一切法即空》と説きます。

善い、悪いの判断の外にあることと言う意味です。

つまり、良いと言うのも間違いならば、悪いと言うのも間違いなのです。


これは、あなた自身の状況にかかわってきます。

あなたにとって、どちらが善法として働くのか見極めなくてはなりません。

禁止した方があなたがよくなるならば、これは禁止すべきです。

逆に、勧めた方があなたにとって善法として働くならば、推奨すべきなのです。


この人の状況により法を選ぶ境地が仏界なのです。

人の心の状態も観ずに、闇雲に勧めるのも、禁止するのも正しい事ではありません。

私は、妙法蓮華経を勉強させて頂いている者です。以前私も、あなたと同じ疑問を持った事がありました。
まず、法華経が、諸経の中で1番優れているという事は、法華三部経の中の無量義経 説法品第二の中で説かれているとおり、「四十余年 未顕真実」と、お釈迦様が、おっしゃるように、お釈迦様が三十歳で悟りを開かれてから(成道)、四十余年には、いまだ真実を顕さず という事でこれから、お話になる、法華経二十八品が、真実の教えである事がわかります。「而於此経中 法華最第一 」(而もこの経の中において、法華最も第一なり 妙法蓮華経 法師品 第十より)にも説かれています。
そして、末法の法華経の行者 日蓮大聖人の御遺文である昭和定本の中の兄弟鈔には、「四十余年の経々を捨てて法華経に入らざらん人々は、第一の不幸なるべし 法華経をそしらずとも、うつり付ざらむ人々の不幸の失 疑いなかるべし」とあります。
法華経一本にして、南無妙法蓮華経と唱えて皆で佛になりましょう。いつも、法華経を頼りとして下さい。(心の中で、お釈迦様や日蓮大聖人に不安なときは、お尋ねしてみるのもいいですよ)

南無妙法蓮華経は日蓮大聖人が鎌倉時代にはじめて唱えだされました。立宗の理由は、当時流行していた阿弥陀仏信仰の疑問。極楽往生すると説くのに信仰者の臨終が色黒く悪相…。もうひとつは真言密教で祈祷した天皇が承久の乱で島流し(たしか、平清盛も真言祈祷後に熱病にかかり平家滅亡)。
それで大聖人が20年かけて何千何百ものお経や論文、訳書を全て調べわかった事が末法(釈迦滅後二千年以降の時代)には南無妙法蓮華経のみが利益ある仏法で他の仏教は力を失うどころか毒に変わる事を悟られました。
理由は釈迦滅後二千以降に生まれてくる人間は、怒りや欲や理性の弱い動物的性質が強くなり、世界戦争にまで及ぶ(世も末になるから末法という)。
末法の人間は病気で喩えると重症で、釈迦仏法では効かない…。
釈迦仏は未来を見据えて、法華経の中で末法の大衆救済の仏法と、その法を弘める者を予言します。その法が南無妙法蓮華経であり、人が日蓮大聖人です。
なので、唱えるならば他の仏教やお経は用いず南無妙法蓮華経のみを唱えるべきです。
ちなみに僕の家は熱心に長年真言を信仰し、結果は家庭崩壊に多病、不和、霊現象と最悪でした。南無妙法蓮華経を唱えだしてからは大分問題は無くなりましたよ(^ ^)
ただ真言で悪業を積み過ぎているので、悪業(不幸に導く悪い原因)を消滅させるまでまだまだ解決しない問題もありますケド(T_T)

全く問題ないと思います。質問者の方は日蓮宗、日蓮正宗、創価学会等日蓮系のどれかに属してる方なんでしょうね。他の人の回答も見させていただいて、色んな回答があるもんだなぁと思いました。質問者を思っての回答。重複した宗教は自分を苦しめる・・・といった回答。または、凝り固まった宗教的な回答などなどww
では、ちょっと違う角度からこの「南無妙法蓮華経」と「般若心経」を見てみたらどうでしょうか・・・・
南無妙法蓮華経=日蓮宗、日蓮正宗、創価学会等日蓮系
般若心経=天台宗、真言宗、禅宗系等々。このように分類したとします。
女性は嫁に行きますよね。で、実家が日蓮宗だとします。
そして嫁いだ先が天台宗だとします。こんなケースは多々あると思います。当然嫁にいけば嫁ぎ先のお経、般若心経を唱えます。実家のお墓に行けば南無妙法蓮華経を唱えるのは当然だと思います。
質問者さんの「良くない」の意味がわからないのですが、でもお経を唱えるのに「悪い」なんてことないと思います。
四国八十八箇所巡り・・・弘法大師の足跡を辿る巡業ですが、お経は般若心経です。では、四国八十八箇所巡りをされてる方全てが天台宗、真言宗でしょうか?私は日蓮宗ですが、巡業にも行きます。
そして南無妙法蓮華経で先祖を大事に思う気持ち、弔う。般若心経で自分を戒め、精進させる。私は、そうしています。
これが、浄土宗、浄土真宗が絡んでも一緒と思います。
そもそも、日本の文化が生んだ様々な宗教・・・元々1つのものが分裂したものが多いですね。
この分裂には利権が絡んだものも多々あります。それぞれに正当化されてるけれどね。利権以外にも弟子たちの考えの違い、捕らえ方の違いから分裂したものもたくさんあります。
今の時代で、これがよかったこととか議論しても仕方ないと思います。
問題はお経を唱える者の気持ちであり、その気持ち為のお経・宗教であると思うのです。

これが「間違い」「よくない」と思う人は、私は宗教に、またはお経に携わる資格がないと思いますよ。

その他色々ご質問多々おありだと思いますので、ライブドア、ブログにて、「すがすがしい心の充実と快適生活の追及」と言う自身のブログを開設しております。私は仏道を志しておりますので、貴殿のご質問、疑問に少しでもお答えできたらと思います。世の中には、宗教、哲学の名を騙って、ずるがしこく、金儲けする、喰法餓鬼なる、悪鬼がうじゃうじゃしておりますので、充分のご用心をなされてください。

南無妙法蓮華経を唱える行を唱題行と言いますが、唱題行は、末法と云う時代背景においての、行としては一番理に適っている、時に適した行である事が云えます。では一体、具体的に南無妙法蓮華経とは何か?成仏とは何ぞや?と言った疑問に突き当たります。成仏とは、(優れた覚知の積み重ねから確定される、外的要因に左右されない、究極の快適)と定義されます。   本覚の都、涅槃、寂光土、等と表現されます。良く、巷には「心の持ち様」 等と安易に平易にその様な言葉を使う者がいますが、仏を愚弄している、仏の智恵を冒涜している者の言葉です。 

釈尊の唱えた一切経を全て文底から(仏の意を正確に汲み取って)すべて理解する行(修行)は今の様な騒がしい時代背景(末法時代)では、不可能に近いでしょう。また理に適っておりません(つまり無意味)。釈尊は法華経の中で、自身が入滅して後、1000年ごとに区切り、正法時代、像法時代、と名付け、その後を末法時代として、末法に入ると自身の劫力(くりき)は効力を失うと述べられております。そして、「しかし心配する事は無いと」、本仏の出現と、地涌の菩薩の出現を御予言成され、宝塔品の中で、法華経の付属(誓託)をなさっております。つまり末法によりて本仏は世代交代する事を明言されておるのです。ここで一切経の中での法華経の位置付けですが、法華経は大学院(もしくは大学)でありその他全ての経は、幼稚園から、高校までの経と言えるでしょう。法華経以外の経は釈尊が弟子たちの個々成仏を願い、個々の気根に応じて説く法なので、仮の法(権経)其の前の経(爾前経)と等と呼びます。釈尊が何故、様様な方便を駆使してまで、その様な法を説いたか、それは、衆生を須く成仏に導く、眼目たる、法(妙法蓮華経)に到達させる為だったのです。ですから般若心経は、成仏した、仏身を、一応に表現した経に過ぎない。と捉えて間違いは無いでしょう。妙法蓮華経は、成仏、其の物の経と捉えるべきです。末法時代において成仏の法を得度するのは、創価学会に入会するのが一番近道です。本仏である大聖人の血脈を正統に受け継いでいるのは、創価学会だけです。質問の答えを言いますと末法の世において般若心経を唱える事は、全くの無意味であり、一切功徳はありません。それどころか、正法誹謗の罪業を積む形になり。余計な苦労を積み重ねるだけなので、わざわざ苦労する道を歩むのは、お勧め出来ません。  

私は全然違うものだと思います。仏教約3000経典は、殆どが編纂された時期、作者等正確に分かりません。それというのも世界最古と言われるヒンドゥ教の教えの中に、何時誰が創ったかは関係ない、その経典が在ることのみが大切であるというものがあります。ですから、作者も名のりなどしない。ただ無量義という経典の中に、今までは準備の出来てない人の為の方便の教えだった、今から真実の妙法蓮華経(真っ黒な泥の中でも真っ白な花を咲かせる蓮の花に例えて、どんな悪世でも変わらない究極の真理という意味)を語るとあります。それで考えるなら、般若心経は、心を落ち着かせるものであり、究極の真理とは違うものです。南無妙法蓮華経は、南無はインド語のナームで、身命をかけて信じるという意味があり、ですから、妙法蓮華経を身命をかけて信じるという意味ですが、例えば法華経で有名な日蓮は、生命の極理を一念三千といい、妙法蓮華経は、理の一念三千で、末法(今の世のこと)では、様々な思い込みが植えつけられ、理では抜け出せないといい、曼荼羅といわれる御本仏を一心に信じ、妙法蓮華経の唱題行を実践することで、宇宙法界と合致するといいます。これを事の一念三千といいます。終わりそうも無いので終わりますが、般若心経と南無妙法蓮華経は、全然違うと思います。

↓「阿含教」は「阿含経」の誤りです。
何度もすみません。

↓「阿含教」は「阿含教」の誤記です。
すみません。

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