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江戸時代、時代劇にみられるような仇討は武家の習いとして行われていたのでしょうか?

仇討は希望すれば許可されるといったものだったのでしょうか。それとも当主を不法に討った仇を残された家族が討つのは半ば義務的だったのでしょうか。

A 回答 (2件)

江戸時代には私闘は禁止されていましたので、仇討ちには主君の許可が必要でした。


仇討ちは親や兄、主君など目上が殺された場合に限られ、息子や娘の仇討ちは許可されませんでした。そういう場合は奉行所などに下手人の吟味を願い出る必要がありました。
仇討ちが許可されれば、主君より三奉行(寺社奉行、町奉行、勘定奉行)に届け出て町奉行所の帳面に記録され、その写しが仇討ちの証明としました。
仇討ちで返り討ちにされると、そのものの敵討ちはもう認められず、仇討ちは1回限りでした。
ただ、実際には幕府や各藩は仇討ちをなかなか許可しませんでしたが、それで仇討ちをあきらめたりすると武士間の世論が許さず腰抜けだのとののしられるという場合も多く、脱藩して逃亡した相手を探すこともよくありましたが、なんとか本懐を遂げても辻番所や自身番に抑留され、大目付に通知されて、大目付から藩に連絡が行って引き取られました。
この場合は、帰参がかなうこともありましたが、藩の移項にそむいたということで処罰されることもありました。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
武士の面目、なかなか大変だったのですね。
許しが無ければ本懐を遂げても勾留されるというのは何とも受難な事です。その上処罰されるのは何とも可哀想な事ですね。

お礼日時:2005/11/29 16:45

こんにちは


>仇討は武家の習いとして行われていたのでしょうか?
仇討という行為は習いとして行われていました。
しかし成功したかどうかというとほぼ失敗したと思われますので
「行われていたか」というと答えは微妙になってしまうのです。
逃げる方も必死ですから当たり前なんですが、探す方もいざとなれば返り討ちも覚悟する必要があるわけで、実際には行き会うことすらなく、しかも短期間で諦めて違う土地で暮らしてほとぼりの冷めた頃に近親者を呼び寄せるという例が多かったようです。
小説や映画などの仇討ちは決して「有名な人」だからではなく、
「成功した希有の例」だから小説や映画になったと考えるのが普通です。
つまり体裁上義務ではあったが、あんまりやる気なし、といったところでしょうか。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございます。
成功した稀有な例だから有名になっているのですね。
武士も大変な家業だったのですね。

お礼日時:2005/11/29 16:47

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