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外国に行った際、不仲だったのでしょうか?
ぜひお教えくださいませ。

A 回答 (2件)

当時の日本は制度が不備だったので咸臨丸の船長(司令官か)は勝でなく木村という人(福沢はこちらの子分)。


年齢的に13歳年長の勝は具合が悪くて寝っころがっていて福沢はフテ寝と受け取ったようです。乗組員もダメで本来は付き添いのはずの外国人技官やジョン万次郎がいて台風乗り切ったといいます。
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/kanrin. …
福沢は大金持ちだった父(祖父だったか)が武士(旗本株)の権利買った下級、なりあがり者だから幕府高官の勝と気あうわけもないが。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/6663 …
福沢は身分差別感じたから幕府延命には手を貸さなかった。では勝がだめかというと帰国したときしつこく米国事情聞かれ「上に立つものは日本より賢い」と発言します。困った木村は勝は気が触れたようだと書きます(非難したともいえますが、かばったせいです)

勝と福沢不仲というのは10年余りのちです。福沢は勝に政府に誘われたが断り、大隈(早稲田)とともに学校(慶応)作ります(同時期、新島も京都に学校(同志社))
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福沢諭吉と勝海舟は安政6年威臨丸で一緒の使節団でアメリカに行きました。


諭吉は蘭学の医師の桂川に頼み、軍艦奉行の木村摂津守の従者としての乗船でした。
一方の海舟は後に西郷隆盛と江戸城を開城の談判して歴史に名を残すことになりますが、その時は咸臨丸の艦長を務めていました。
ところが海舟は、艦のことは奉行の木村より自分のほうが腕が上であるとして、上司である木村摂津守を余り立てなかったのです。
そのため木村の従者だった諭吉は海舟に良い印象を持たなかったのです。諭吉は木村摂津守には終生恩義を感じて
交際したようですが、海舟とは全くつき合っていません。

後に明治新政府の任官の要請を何度も断っています、譜代大名中津藩士、又幕府の翻訳方で幕臣となった諭吉は、新政府の高位高官となった海舟を許しがたかったのです。その為か海舟の進退に関して批判の書を発表しています。
同じ威臨丸で荒海を渡った二人も維新後は全く違った道を歩いたのです。
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