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 理解できない映画、意味がわからない映画という感想がある一方で、泣ける映画、やりきれない映画という感想も聞きます。しかし、私はどちらとも異なる感想を持っています。以下に私の感想を述べますので、私の感想への皆さんのご意見をお聞かせください。

 結論から言うと、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は神話なのだと、私は理解しています。悲劇性はありますが、必ずしも悲劇ではなく、むしろサクセス・ストーリーに思えます。

 たしかに、主人公セルマの行動は自己犠牲的に見えます。でも、自己犠牲そのものが目的となっているのではなく、他の目的を達成することを優先した結果の自己犠牲です。その意味では、利己的な人物です。

 この「他の目的」を母性愛と解釈する感想も多く聞きましたが、母性愛だけでは、セルマがビルとの約束を守り通そうとする理由を説明することができないように思います。セルマは、法廷でもビルとの秘密を守り通します。ビルの行動は、法的にも道徳的にも批判されうるものですから、法廷でビルとの約束を明かした方が、息子ジーンを守る早道となるはずです。しかしセルマはそれをしません。

 セルマのこのような行動を、私は、アガペー(神の愛)によるのだと解釈しました。母親として息子ジーンは守るべき存在ですが、息子ジーンのみが守る全てでないのです。セルマは、セルマ自身の内にあるアガペーをも守っているのだと思いました。しかし、人間は神にはなれません。セルマが自身の神の愛を守ろうとすればするほど、現実社会との間で矛盾が生じ、セルマは死に近づいていきます。人間だからこそ、間近の死にも怯えます。しかし、死を避けることよりも、愛を守ることをセルマは選んだわけです。母親としての愛は、ジーンに手術を受けさせることを意味しており、その念願はかないました。ですから、悲劇性こそあれ、セルマは救われたのだなと、私は、感じます。

A 回答 (2件)

ラース・フォン・トリアーの映画は「メタ・ムービー」だと、私は思っています。

だから、映画的知識に乏しいと「理解できない映画、意味がわからない映画」だという感想が出てきます。事実、彼は「映画は形式が全てだ」と言っています。
そしてトリアーという人は、物凄い狸親父だと、私は思っています。だから「泣ける映画、やりきれない映画」という感想こそ彼の術中にはまっており、恐らく彼は今ごろほくそえんでいるだろうと思います。
トリアーは「奇跡の海」「イディオッツ」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を3部作扱いにしていますが、恐らく「イデオッツ」をご覧になると、この監督の本質が見えてくると思います。
そして、「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」で感動された方は「イディオッツ」を見て憤慨される、逆に「奇跡の海」「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に偽善を感じた方は「イディオッツ」を見て爆笑することでしょう。
「イデオッツ(=白痴)」は「市民の前で白痴を装ってさまざまな嫌がらせを試み、相手が“障害者じゃ怒れないし…”と困った顔をするのを見ては世の中の偽善をあざ笑ってる若者グループの話」です。
トリアーの凄さは、作品1本1本が物凄いアイロニーとして造られていながら、それなりにエンターテインメント性と、映像的な革新性を両立させてしまうところだと思います。
fuchikomaさんのリクエスト通りの答ではなく、かつ分かりやすい答ではなく申し訳ありません。何か分からない部分で興味を感じられた所がありましたら補足要求して下さい。
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この回答へのお礼

 ursid21さん、CUE009さん、ありがとうございます。『ダンサー・イン・ザ・ダーク』単独よりも、トリアー監督の一連の作品と絡めて理解したほうが適切なのだと感じました。そういうタイプの監督なのですね。

 私は映画は劇場に限ると思っていますから、名画以外、あまりビデオは借りません。『奇跡の海』などは、公開を見逃してしまい、いまだ未見です。その姿勢があだになったようです。

お礼日時:2002/01/24 01:10

質問の内容を「この映画についてのfuchikomaさんの感想に対して,共感できるか否か」という解釈で書いてみます.



実は私はこの映画のビデオをレンタルし,昨日観たばかりです.
結論からいうとfuchikomaさんの感想に近いものを持ちましたし,
一方でやりきれない気持ちにもなりました.

セルマに対して極めて第三者的な見方をすれば,やりきれない重い映画として受け取れるでしょう.しかしセルマの側に立てば,ビルの裏切りや法の裁きという邪魔が入りはしたもののセルマは自分の目的を手段を選ばずに成し遂げようとし,それを成功させたということに過ぎません.極論ですが物事の真の良し悪しの判断は主体にしか委ねられてないことであって,第三者がどう「感じる」かはそれぞれですが,どのように「決定」しても意味の無いことだと思います.

やりきれなく感じたのは,セルマを失うジーンやリンダ,そしてジェフの気持ちを思ったからでしょう.

この映画のカギのひとつは絞首刑の間際のセルマが怯えていたのはなぜだったんだろうというところだと思います.もちろん死に対する人間の本能的恐怖心はあったにせよ,残る最後の目的,すなわちジーンの目の手術の成功を永久に確認できなくなってしまうことに気付いたためもあるのではないでしょうか.
ジーンのいらなくなったメガネを手にして母親としての目的をまっとうできたと確信したときの満足で安らかな表情から,そう考えさせられました.

同じくラース・フォン・トリアー監督の撮った作品「奇跡の海」を観たことがあります.精神的な障害を持つ女性主人公が自分の恋人を失い,その後周囲の人間には理解されない行動をとり命を失っていくという物語だったと思うのですが,この映画と共通している点は,障害(精神的・身体的)を持った女性が彼女自身の中にかたくなに持ち続けている信念を貫こうとするところです.両者ともに自分の哲学に反することはせず,その哲学の中において正しいことを成し遂げようとする,法や道徳以前の人間の純粋性が描かれているのだと思います.そしてもっとも共通しているのは第三者的には悲劇でしかないということです.
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