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ここで、彼がどのくらいエホバというものに接しているかというと。「聖書を勉強する」という程度です。よく表に出ている情報のように、個別に各家庭に訪問したりといったことはしてません。 長老という(神父のような存在ですが)その集会でいう一番上に人のところに週1で聖書を勉強しにいっています。(聖書はもちろんエホバの使っている聖書です)

あまりにも、悩みが漠然としていますので、まとめに。
・私自身、また両親とも彼の事はとてもいい人だとは認めているのですが、宗教に関してはあまり肯定的ではない。
・自分の考えているキリストの教えというものと彼らが考えているものとが違うのにとまどっている
・出来ることなら、エホバの証人というものから、脱会して欲しい(あくまで自分の感情です)
・明確なアドバイスでなくてもいいので、似たような心境、または、自分はエホバであった人の意見を聞きたい
カトリックの方からも意見を聞きたいのです。

本当に漠然としすぎていて申し訳ないのですが、みなさんがお持ちのエホバの証人に対する意見を聞かせてください。

*お互いの意見などで相手を傷つけるのが目的ではないので、感情穏やかに回答くださる方をお待ちしています。

最後に、今の自分としては、この彼との宗教の違いについて理解してあげられたらしたいし、この問題を解決して、しこりの残らないようなつきあいをしたいと思っているだけです。

A 回答 (16件中1~10件)

じゃ、4回目だけど(笑。


>ほんとうにこんなことを言ってしまってすみませんm(_ _)m
あやまらなくていいよ。なんであやまるんだろな?どんどんゆってくれ。おれもゆうけど(笑
「隣人を愛する」ってね、イエスの大きさ、やさしさ満開だと思うんな。
確かにどんな人間も愛するってことだ。でもそれは、隣人とあらわされてる。
俺らの手はそんなに長くない。隣の人に、触れれるか触れれないか、そんな短い腕でもできることを、神は最も喜ぶと、彼はゆってくれてる。そんなに力まなくても、大丈夫だよ、
 
 あといいたことは、
「異言よりも、信仰よりも、愛が優れている。」
パウロがゆってたかな、俺もそう思う。信仰が浅くても、愛がふかけりゃいい。だから、愛がある人のことは、キリスト教信仰じゃなくても神は喜ぶ。
 それとね、
「人の目のチリをのぞいてやろうという前に、自分の目にある梁を取り除きなさい」イエスの言葉。
梁って、建物立てる時の部材なんだってさ。兄さんとおもってる人に教えてもらったんだけどな、そんなものが目に入るわけ無いんだよ。入ってたら、何も見えない。何も見えてないのに、人の目のチリをのぞけるか?自分は何も見えてないって言う謙虚な姿勢が、自分を成長させる。自分の成長は、即、他人の助けになる。だから、ためらわずに、君は君の心配をすればいい。
 
エホ証の話な、無宗教でもいいひとはいるし、熱心な宗教家でもうざい奴はいる。
でもな、いいひと、悪い人って言うのは、ひとりの人間の中に両方存在してる。いいところばかり欲しがって、悪い所を否定したいのはわかるけど、いいところが一つも無くて、悪い所ばかり、でも、その人を受け止めるって姿勢が、君にはあってもいい頃だと思うな。
そういう愛もいいだろ?悪を正すには力が要る。力が無くてもできる愛が、受け止める姿勢。君の言う、みなの罪を認めるってこととおなじ姿勢だと思う。罪だけじゃなく、全部受け止めてあげて、。

PS:教義のことは追伸。ついでだ。(笑
俺は、いろんな宗派集めてな、集会やったことあったんだけど、もちろんエホ証も呼んだんだよ。預言者って言うのは、神の言葉を預かった者。とすると、イエスは預言者って言う認識は問題は無いよ。救世主って言う認識はエホ証にもあるだろ?
>彼らにとっての信仰の薄さというのは私たちから見たものさしでしか測っていないんだと思うのですが・・・。
 どういういみかな。彼らが神を天秤にかけてる(物差しで測る)と言いたいの?
神を測れる?それはできないよ。神を知るのに物差しは要りません。
神の手は、長きより長く、深きより深いところをあさり、
取り出される者は、古きより古く、新しきより新しい。
小さきより小さく、大より大だ。
だから、ものさしは使えないな(笑。
名前についてだけど、親近感が沸くからとゆってたな。ほんとは、史実的な由来だが。名前で呼ぶならヤハウェだと。他の神々と区別するためにもそうしてるのかもしれないな。でもほんとは、区別することが必要ない。神は、別れを必要としない。名前で呼ぶって、人間臭くてかわいいじゃないか。そんなに問題か?名札をつけてる、つけてない、そんなことよりも、ある者を目の前にして名前は必要ない。「君」「あなた」そんなとこでいい。祈る時に、神のことやいえすのこと、あなたって呼んでもさしつかえないだろ?だったら、名前で呼んでも差し支えないよ。
ようは、「心(神においては霊)に思う(よる)ことが大事」名前でそれがかなうなら、いいじゃないか。
たくさんゆっちゃったよ(笑。らしくないことしちまったかな。
ほんとのこと言うのに、多くの言葉は要らない。ってのを、思い出した。
じゃあな、ここらへんでもう寝るわ(笑 朝だよー!(泣だけどきもちいい。笑
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俺の口の荒さについて、ゆっとくわ。


俺は、家族や友達と話す時のように、みんなに話す。だから、あなたでなく、あんたでなく、「お前」と呼びたいんだよ。ほんとは。でも、それやっちゃうと誤解されそうだからな。管理人さんにも。
敬語、謝罪、諸々の処世術はな、純粋さを奪い、隔たりを生む。おれは、自分をできるだけ偽らないように、地で話す。処世術は捨てた。口調についての謝罪は一切しない。謝礼はよろこんでする。
俺の口の利き方、心配してくれてありがとな。
理由聞いて、気、そんなに悪くなってないだろ?もしかして悪くなった?(笑
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イエスは俺の中にいる。

どの様に言われたかよりも、何が言われたか、が大事。俺はあなたを心配してゆってる。だから、あなたは、あなたの心配をすればよい。
「子どもや娼婦が、真っ先に天の国に入る」
何故か?
もう一度、子どもの「純粋な心」を取り戻して、イエスの言葉を聞きなさい。俺の言葉の一部はイエスの言葉だから、俺の言うことを聞くこともいいことです。
「隣人を愛する」「神を愛する」この二つ、解釈は必要ないだろ?
 
 ちいさいころは 神様がいて 
 毎日愛を 届けてくれた
 心の奥に しまい忘れた大切な箱
 開ける時は今
 カーテンを開いて 静かな微笑を
 やさしさに 包まれたなら
 きっと
 目にうつる すべてのことは
 メッセージ
 
うろ覚えのユーミンの唄です。
純粋さを取り戻す方法。一つは苦しむこと。一つは子供心を取り戻す事。
 
:俺の言葉づかいは気にすんな。
信仰の薄い聖職者は、科学と衝突する。信仰の薄い聖職者は妥協を好む。
信仰あるものの障害は、障害にならん。
そのエホ証のおばさんは、信仰が薄い。蛇を嫌がったりするんだろう?
地動説にやられた当時の教会信奉者のようだ。
あと、解釈を議論する愚かな聖職者達は、当時の忌まわしいパリサイ人、律法学者のようだ。
子供心を取り戻してよ、。
祈ろう
メッセージがあなたの目に うつるよう
子どもの心 取り戻されよう 
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この回答へのお礼

3度もご意見を頂いてありがとうございます。

あなたが一時の感情だけで回答くださった訳ではないということは分かりました。
確かにあなたが言っていることは正しいと思います、純粋さを取り戻すというのもそうなのかもしれません。頭ではなく、心で見るということは自分でも分かっているつもりです。

では、私は私だけの心配をしていればいいのでしょうか?
彼やその母親にもイエスがいるのなら、それはどうなのでしょう?
あなたや私だけにキリストはいるわけではないのではないのでしょうか?
こんなことまで聞いてしまって悪いと思いますが、気になったので質問してみました。
それと、信仰の薄い者ということには若干捉え方が違うと思います。
何に対して信仰が薄いのか、それをきちんと定義してやらないと
彼らの信仰する「キリストは神の子ではない、預言者である」という事。
「唯一の神はヤーウェである」という、そもそも神というものに対して
対象がずれているんですよ。彼らにとっての信仰の薄さというのは私たちから見た
ものさしでしか測っていないんだと思うのですが・・・。

私自身、信仰の無さや薄さや、これで本当に良いのだろうかと考えることはたくさんありますよ。 でも、貴方も言っているように「隣人を愛する」ということは、つまり、貴方が思っている愚かで、信仰の薄い者という人たちをも愛することなんじゃないんですか? 彼らに目を向け、自分自身を顧み自分の罪を認め、また彼らの罪も認め、愛することだと私は考えてきました。
私はちゃんと勉強したわけでもありませんし、しっかりとした信仰を持っているとは自分は思っていません。
ただ、感じたことは「愛」というものはそういうものではないだろうか?ということです。偽善に聞こえるかも知れないし、あまりにも理想すぎるという方もいらっしゃると思います。それを実行できるかどうか、なんじゃないでしょうか?

ほんとうにこんなことを言ってしまってすみませんm(_ _)m
ただ、私の一言に目を触れ、よかれと思って言ってくださった事は
感謝しています、ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/30 02:54

僕が非科学的と悪く言う理由は、


そのおばちゃんが「人は猿から進化したのではない」って言い張るので、
生物は詳しいほうなので僕は生命発祥の有力な説を丁寧に説明したのですが、頭ごなしに否定されてしまいました。

そーいういきさつと輸血禁止っていうので僕は非科学的だと偏見を持っている状態です。

 その方が言うには、エホバっていうのは常に「考えて」て考えながら学んでいくらしいですよ。集会とかあって話合うのが主らしいですよ。

で、僕は真理を追究する人だから来て欲しい、って言われました。まー僕は無神論者だから行っても場をつぶすだけだし、だいいち、全部嘘でなんか他の思惑あったら怖いので行かなかったです。

 でも聞く限りじゃ、特に決まりごとは無く人によって考え方が違うみたいですよ。あくまで聞く限りじゃ…

 いい人は多いんでしょうね。でもいくら困った人を助けるパワーが強くても、そんなんより今の時代、パワーの向き(ベクトル)の方が重要だと思いますよ。間違った考え方を頑固に信じ続ける人は、僕は怖いです。

 このまま関係を続けていくとしたら、多分問題は、時々の儀式や輸血の時でしかおこらないでしょうね。輸血の時は大問題ですね。命にかかわりますから。輸血はするって約束しとけばいいんじゃないんですか?そーもいかないんですか?

 でも考え方が違っても愛し合えるのは、はっきりいってとっても素敵だと思いますよ。がんばってください。でも脱会は普通促すべきじゃないですか_?エホはちょっと… 周りの偏見もいっぱいあるしアウトでしょう、多分。本来うまく生きてくための知恵である宗教が、逆に苦しい生活をするのは、宗教作った人も悲しいですよねー。

 彼に、エホバは好ましくないってはっきり言って、ゆっくり優しく、彼自身が生活環境を変えてくれるよう見守ってあげるのがいいかと思います。

 あと、全部に無理してお礼を言うより、独りよがりな言葉のキツイ発言は無視すべきですよ。頑張ってくださいね☆ほんと。
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この回答へのお礼

2度目の投稿ありがとうございます

ベクトルの向きが重要っていうこともなるほど、と思いました。
エホバの人たちの中でも、どの程度の輸血必要かによっては、輸血を承諾する親もいると聞いて、はたまた疑問に思いました。なんでだろう??
一緒じゃないんですかねぇ?

あと、結構みなさんエホバの方と会ったことのある人って何気にいるみたいですねー。

あーーーーーもう、わかんないことが多すぎて何から手を着けていいやら
なんとか頑張っていきます(^-^)学生のほうも頑張らないとなー(汗)

お礼日時:2002/03/30 00:11

妥協と柔軟はえらい違いだよな。

(笑 エゴイストばっかか?このgooは?
>その信じ方、解釈の仕方があなたが思っているより複雑なんです。
解釈は忘れろ。頭で考えたってダメだよ。イエスの言葉を信じたらいいんだよ。
ぐだぐだいい訳ばかり、。
あんたは、自分を守るために人(彼)を否定すんのか?
あんたがエホ証にいったらいいじゃないか。
イエスがあんなにわかりやすく説いてるのに、なんであんたの耳には届かないんだろうな、。
  
「神は万人の中にいる」
 
宗教、宗派、国、自他、かんけぇねぇよ。エゴを捨てろ。
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この回答へのお礼

はっきりといいますね(笑)
頭で考えるな、ですか
それもそうですね。

私の耳にイエスの教えが届いていないなら、
私には、あなたも同じように感じますけどね。

あんたが、どんな環境でどんな風にそう思うのか知りませんし、どんなに素晴らしい人であったとしてもせめて、言葉使いには気を付けた方がいいと思いますよ。

お礼日時:2002/03/29 23:53

僕は一応は仏教ですが、100%無宗教の生活をしているというものです。


でも周囲の人からは「哲学者に向いてる」ってよく言われている、ま、そんなやつです。

 深い話が大好きで、誰とでもよく討論します。

 そんで、この前いつも行ってるラーメン屋でそのキャラをバリバリ発揮したら、えらく気に入ってもらえて店の人の、いい人のおばちゃんから勧誘を受けました。そう、「エホバの証人」だったのです。

 その人はすごく「いい人」です。しかしながら対話を進めるうちに僕はその人の中に「強い頑固さ」と「反社会性」、そして根拠の無いことを強く信じているのを見出してしまいました。

 その後、4人くらいに相談したのですが、相談した人全員が「もうその店には行かないほうがいい」でした。中には偏見に基づいて言っている人もいましたが… まぁそれはうちの母なんですが… 結局もうそれから行ってません。母に言われたら、やっぱ母を信じるしかないのです。あとカトリックの人にも言ったら、エホバは良くないって言われました。

エホバにはもはや世間から偏見がつきとっています。それにどうやら、エホバは反科学的なようです。頑固です。(宗教ってそんなもんかもしれませんが)

僕は科学は万人に平等で一番信憑性が高く信じれると思っているので、おばちゃんが科学を馬鹿にしてたのは残念でした。

って、話はずれてますが、、、 僕はキリストがなんたるかを何にも知らないのに、ずっと聖書の細かい話を必死になって語っていました。
そして偏見とも戦っているようでした。そんな無駄な戦いは、脱会すれば避けられるのに。

なんか柔軟さを欠いているようですね、エホバの方って
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

私自身彼とその母親以外での接点はないので、はっきりと信者と言える方々の
話を聞いたことがありません。狭い世界での自分の考えなので、richanさんのような体験談は参考になります。
おそらく、非科学的なものとは輸血の問題などなのでしょうか?

この問題の解決にひとつ重要なのが「彼の母親」という存在です。
決してマザコンとかそういうことではないんですが(笑)
自分の親がそうである場合、その影響というものが他人が考えるものよりはるかに大きいですねー。特に男性のほうが母親が考えるものに対して、やはり大きいものがあると聞きます。
少なからず、母親という問題では自信はないです・・・。
しかも、もともとプロテスタントであったという事実。

私の聞きいた話では、キリスト教と呼ばれる主な2つの宗派「カトリック」と「プロテスタント」ですが、そこから、エホバの証人に変わるというケースは、「プロテスタント」が圧倒的に多いそうです。確かにいままでカトリックという世界で生きてきて、「エホバの証人」に変わった人って知りませんし・・・、存在すら知らない位でしたから。
その違いは、どちらかというとプロテスタントの方がカトリックより遙かに聖書の細部にわたっての知識はあると言われました。つまり、プロテスタントの出来た理由のひとつに「カトリック」をプロテストしていく。カトリックでいう「ミサ」や教会といった礼拝、形式を重んじるのを抗議することから始まったと言われます。
よって、キーワードは「聖書」になるわけです。たしかに、聖書を重んじることは共通のことですが、より力を注いでいるのはプロテスタントというわけです。
よって、プロテスタントの教会で満たされない人がよく「エホバの証人」になるそうです。確かに言われてみるとプロテスタントの教会のホームページには「エホ証」に対する対策のページを目にすることも多く、書籍も多いようです。
(決してカトリックが聖書の勉強を怠っているというわけではないですよ~
^^;)

長くなりました・・・。
エホバの人たちはいい人が多いのは事実ですね、だから偽善ではない助けたいという気持ちが生まれてしまうんですね、う~ん。(悩)

お礼日時:2002/03/29 20:28

エホ証も、その他宗派もろもろも、イエスを信じてる事には変わりはない。


人を裂くのがイエスの教えか?イエスの二大教えを言ってやろう。
「隣人を愛する。」「神を愛する。」
この二つの教えにクリアできない問題はない。
POBBITさんの問題も解決できる。俺はそう信じてる。
なんでかってな、この二つの教えは、隔たりを除くからだ。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

エホ証もその他の宗派もイエスを信じていることは変わりない。
といいますが、そんなに甘いものでは到底ありません。
確かにそういってしまえばそうなのかもしれませんが、
その信じ方、解釈の仕方があなたが思っているより複雑なんです。
「隣人を愛する」「神を愛する」
たしかに素晴らしい教えですけど、それに至るまでの過程
どういった事に対してそういっているのか、考えの根本が彼らと違うと
自ずと解釈が曲がっていきます。

是非私もこの問題を解決したいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/29 20:01

 


  参考URLに、「エホバの証人」について、少しまとまったことを記しています。彼らが、自分たちに都合のよいように、「聖書原文」を改竄している事実なども書いています。また、参考URLのわたしの回答文書は、彼らに対し、かなり「好意的な」表現になっています。この理由は、多くのエホバの証人は、(と言って、そんなに大勢知りませんが。せいぜい数人です)、「良心的な人」で、「真面目」で、そして困ったことに「視野が狭く」、「性格が硬直ぎみ」かつ「潔癖性」であるので、一旦信仰に入ると、それを撤回するのをよしとしないと言う頑迷な性格を持つことです。
 
  「潔癖性」であるので、矛盾した教義であっても、一旦信徒になると、教義が矛盾しているのではなく、「矛盾を感じる自分が未熟なのだ」と考えます。自分自身で疑問を持っても、自分の未熟さや信仰の足りなさで答えにするのですから、一旦、信徒になると、他人の批判など、何とも思いません。というより、批判され、否定されると、逆に、本当に「憐れみの心」で「神に救い」を祈ったりしています。つまり、正しい信仰が分からないで、エホバの証人を否定している人たちが、救われないことは、悲しいことなのです。
 
  「潔癖性」と「自分自身への正直さ」や「視野の狭さ」「人間的な正直さ」が輻輳すると、横から見ると、「欺瞞・虚飾・支離滅裂・利己主義・ご都合主義」としか、見えないことが、少しもおかしいことに見えなく、思えなくなって来ます。エホバの証人の人たちは、非常に哀れな人たちだとも云えます。貴重な人生を、「妄想」で無駄にしていると極論しても差し支えありません。しかし、彼らがそれで納得しているなら問題はないのですが、参考URLのなかて記したのですが、近所迷惑なのは、まだ大人として色々な人がいるのですから、それはましとして、子どもとか、判断能力がない状態の人について、その人の個人の尊厳を蹂躙する行動があるということです。
 
  こういうことは、実は、他の宗教でもあるのです。例えば、カトリック信者の人は、普通、自分の子どもを「幼児洗礼」させますが、「洗礼」というのは、わたしにしてみれば、もの凄く重要な意味を持ちます。本来、子どもが受けるものではないのです。判断力ができて、自分で信仰を選べる時になって、初めて、この信仰を受け入れるかどうか、決定し、そして「洗礼」とするべきなのですが、慣習的に、幼児洗礼が行われています(キリスト教国では一般にそうです)。
 
  しかし、カトリックは、「信仰の自己による選択」ということを、確認するため、相応の年齢になると、「堅信」を行います。幼児洗礼の場合、プロテスタントも同様です。
 
  エホバの証人の場合、子どもに対する「洗脳」は普通の宗教の比でないので、大体、エホバの証人になりますが、しかし、やはり大勢、おかしいと思う子どもがいて、離教するようです。だから、問題は、まだ、信仰を自己判断し、自己決定で選んでいない未成年について、親が生殺与奪件など持ってはならないということです。幼児洗礼によって、子どもは別に死ぬことはありませんし、死亡の危険性もありません。
 
  「エホバの証人の宗教」は、端的に言って「カルト」に当たります。彼ら個人個人は、上に言ったような、善良な視野の狭い、潔癖性の極端に強い人たちなのですが、それ故、一度、妄信・狂信に陥ると、カルトからの脱洗脳の困難さという問題になります。
 
  質問されている「彼」については、現在の段階は、「学習中」ということで、信徒でも何でもありません。また、学習期間が終わっても、彼の考え方や性格によりますが、カルト宗教の典型である、強引な勧誘や入信の極度に大げさな称賛などの誘惑状態を乗り越えて、入信しない場合は、別に問題はありません。
 
  闘う相手は、彼が学んでいるエホバの証人と、その背後の王国会館の人々です。エホバの証人の集会というのは、信徒にとっては、非常に快いものになっています。そして、人間は、そう極端におかしいことを信じ、それに従って生活していて、矛盾が出てこない訳はありませんから、それを乗り越えている信徒たちは、みな、或る意味で、矛盾した、ご都合主義の塊のような人たちなのですが、彼らの教えの世界のヴィジョンのなかでは、非常に善良な人で、実際に、上でも述べたように、善良な人が、エホバの証人になってしまうのです。本当に狡猾で、ご都合主義な人は、エホバの証人などにはならないのです。全然、得なところがない宗教ではないかと、大抵の世間的に狡猾な人は感じてしまうのです。
 
  彼が、証人になるとすると、彼が潔癖性でナイーヴで、性格が硬直して、正義や真実や美を、文字通り信じようとし、信じたいと切実に願っているからです。こういう場合、信徒になるのを引き留めるのは、もの凄く難しいです。また、エホバの証人と結婚して、エホバの証人に自分もならない場合、破綻します。あまりにおかしいので、破綻せざるを得なくなります。(例えば、5歳ぐらいの子どもが、王国会館に通っているうちに、信徒でない親に向かい、「貴方は間違っている」などと説教します)。
 
  もし、そういう性格や人格でない場合は、信徒になるかどうか、迷います。多くの人は、信徒になりません。子どもでない場合、世間を少しでも知っていると、エホバの証人のシステムは、正気と思えなくなります。中世のカトリック教会は、信徒が信仰のあまり、極端なことをし、庶民生活、家庭生活をないがしろにしないように教えました。聖フランシスコは、世俗信徒が、信仰熱心のあまり、日常生活が破綻しないよう考慮して、「第三会」を承認し設立しました。第三会員となり、修道士に準じて戒律を受け、その戒律には、日常生活をおろそかにしないと言う規定が入っていたはずです。
 
  エホバの証人は、世俗信徒でありながら、日常生活を破綻させるようなことを勧め、そういう信徒を称賛しています。
 
  彼らにとっては、新しい信徒を目覚めさせることが、地上の王国での榮光に繋がるので、極端に熱心に伝道し、現在の「彼」のような人は、容易に、信徒からこぼれないよう、入信させるため、色々なことを行うはずです。
 
  だから、いま勉強中なら、貴方のカトリック信徒としての考えを大いに述べ、「視野」を広くするよう説得し、「完全は神にはあるが」、「人間には完全はない」ことを、大いに訴えねばならないでしょう。カトリックの教皇でさえ、おそらく信仰を疑う時があり、その試練を受けて、あらためて、考え直し、自分は人間であって、真理を知ってなどいないという「限界性」を痛感するはずです。
 
  教皇ヨハネスXXIII世は、そのような寛容な広い心を持っていたからこそ、第二ヴァティカン公会議を開くことができたのでしょうし、カトリック教会は、二十世紀を乗り越え、二十一世紀へと、進んで来たのでしょう。
 
  信仰とは、疑いがあり、試練があり、反省があり、学習があっての信仰だと思います。エホバの証人の場合、一旦、信徒になると、協会の発行物しか読まなくなり、それが純粋な信仰だということになります。しかし、外部の違った意見や、違った知識を知り、その上で、自己の信仰を問いかけて、信徒であることを続けるというのが、現代では、健全な宗教のありようです。
 
  地上の楽園があるとか、最終解脱があるとか、誰がそんなことを知っているのでしょうか。ダンテの『神曲』のなかでは、当時有名であって、逝去した教皇の霊が、煉獄にあって苦しんでいるという描写があったはずです。
 
  エホバの証人というか、ものみの塔協会は、それに向いた性格の人を信者にして取り込み、その人の人生を台無しにしてしまうカルト宗教だというのが、その姿でしょう。簡単に信徒をやめるような人は、元々信徒にならないとも云えます。また、信徒を続けて、疲労困憊して離教した頃には、被った被害があまりに大きく、何と時間や色々なものを無駄にしてしまったのかという後悔しか残らないでしょう。カトリックを離教しても、信徒であった期間は、それなりに有意義なときであったと評価できますし、信者であることをやめても、中世ではなく現在は、信者に留まっている人と交際しても別に問題はありませんし、教会も、離教した人が、礼拝に来ても、これをとがめることはしないはずです。しかし、エホバの証人は違うところがあります。
 
  「人間には、究極的な真理を知ることはできないのだ」という、常識で説得して、駄目なら、或る程度、同じ説得を行ってもよいでしょうが、信徒になってしまって、やめることがないのでしたら、もう人間の力では、難しいということになると思います。
  
  >No.154249 質問:エホバの証人について-白内障手術ー
  >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=154249
  

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=154249
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この回答へのお礼

お返事送れまして、すみません。

一度、参考URLは覗かせていただきました。
そこまで、深く読んではいなかったのですが、思うことありまして
ちゃんとした時間がとれれば、またお礼をしたいと思います。

まずはご意見ありがとうございました。

お礼日時:2002/03/29 19:53

身近にいくつか事例を見てきましたが、現代文明をかなり否定しているようです。


(1)せっかくの休日に勧誘にこられますが、断ると「なんとかわいそうな人」という扱いのようですね。
(2)輸血禁止問題。
(3)スポーツとしての格闘技は認めない。
(4)正業につく事も好ましくない。
(5)その他

義妹、甥,姪が信者ですが、仏教とことごとく相入れません。

実の親の葬式でも、出席はするのですが、焼香はもちろん、祭壇に手を合わせる事もしないのです。

その上、絶対に自分の論理が正しいと回りにおしつけてきます。自信満々ですね。
話し合いをしようという気が全く感じられません。
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この回答へのお礼

なるほど。
ご意見ありがとうございます。

私の周りには、彼とその母親しかいません。
その他の信者と接するということはありません。
彼は、日曜の集会?には参加しておらず、週1の勉強です。(それでも、私はあまり快くは思ってはいませんが)

たぶん、義妹、甥,姪さんは熱心な信者さんなのでしょうか?
私はカトリックですが、焼香も手を合わせることもします。(他の宗教を崇拝することになるとはとても思えません。)その人の事を考えれば、そのスタイルを望んでいればします。気持ちが重要であって、形式では無いんですから。

細かいことになりますが、彼らは年賀状という事に関しても否定的だそうです。
なぜなんでしょう?他の宗教を拝むことになるからですか??
年賀状って、「これから始まる新しい年を、みな幸せに過ごして欲しい」という気持ちなんじゃないですか?挨拶というか。

なんというか、あれも駄目、これも駄目。という考え方はよく新興宗教にありがちな傾向だと思います。それも、行き過ぎた考え方の。
彼らのいう聖書の言葉を研究している姿には驚かされるばかりですが、
やはり、解釈を曲げすぎだと思いますね。

彼らの言い分も聞いてみたいです・・・。

お礼日時:2002/03/27 03:32

firevalkyriesです。

丁寧な返答を頂きましたので再投稿させて頂きます。
私は娘2人の父親で、どっちかというと「落第パパ」ではないかと自分で一人悩む「ふつうのおじさん」ですが、もし自分の娘が交通事故などに遭った時に妻が輸血を拒否したら、私なら妻を殺してでも娘の命を守ります。親にとって子供というのはそれくらいかけがえのないものです。
多分pobbitさんは親になったことがないでしょうから、どうか自分の親に「こういう投稿があった」と質問してみてください。私が気楽に「殺す」などという言葉を使っていないことが理解できるかと思います。

pobbitさんが、その彼と一緒になって親になったとき、もし万が一子供がそのような事態になったら、その彼とそれからも一緒にやっていく自信はありますか?

私が言いたかったのは「人間というものをどうとらえるか」について残念ながら「エホバの証人」という宗教を信用できない。どんなにすばらしいものであったとしても一人の落第パパとしての自分と「エホバの証人」は、私の中では両立しない ということです。

一度この問題で彼と大激論してみても意外と楽しいかもしれませんよ。
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この回答へのお礼

再投稿ありがとうございます。m(_ _)m

まだまだ社会に出たこともなく、世間の荒波なんて感じもしない、あまあまな大学生活を送っている、私です(笑)
自分が親の立場にたったとき、まったくの未知の世界で、なんと答えていいのか・・・。

きっぱりと彼とやっていける自信があるかどうかといわれれば、
無いでしょう。率直に言えば、「無い」です。
とても、悪い例えになってしまいますが、自分の夫、妻は、なんらかの事情で変わる事はあります、でも自分の子供、私の場合ならおなかを痛めた子供(ということになります)は、どんな事情があろうとも、私の子供には変わらないんです。「元子供」なんていう事は絶対あり得ないし。
そう思うと、無いですねぇ(汗)
しかし、そこで彼をそのままにしておくことも、出来ないと思います。

firevalkyriesさんの仕事柄、「エホバの証人」と接する機会があり、どんな思いをお持ちなのか、私なんかにはとても想像できるものではないと思っています。
大切な意見として、生かしていきたいと思います。

いつか、近いうちに大激論する日が来ると思います(^^;)えぇ、必ず。

お礼日時:2002/03/27 02:06

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