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金吾中納言秀秋が小早川家の家督を継いだ後は、毛利一門の立場から離れていたのでしょうか?

関が原の際も、秀秋は全く毛利本家と連絡・指示を受けていなかったのでしょうか。

A 回答 (5件)

小早川家に対しては、秀秋が養子に入る前に、毛利本家からの切り離し策がなされていた。

いわば、小早川独立策である。
隆景の功績を評して、九州に新領地を与えられたのはその一環である。

また、秀秋も体一つで来たわけでなく、養子に来る前段階、1589年段階で、丹波亀山で10万石を与えられており、それなりの家臣団を成立させていた。小早川家でも秀秋が養子になった段階で、それまでの養子秀包が、7万5千石で別家となっていた。
つまり、隆景の家臣団は、秀包に流れたもの、秀秋に流れたものがあり、秀秋のもとには、元々亀山時代の家臣団、養子に伴い秀吉からつけられた家臣団と大きく三つのグループがあった(はず)。
※ この時代、家臣団はかなり主替えが多く、流動的です。
実際に、秀秋の有力家臣としては、秀秋のWikipediaでは下記があげられていますが、
稲葉正成:秀吉からの付け家老
平岡頼勝:秀吉からの付け家老
杉原重治:秀吉からつけられる、詳細がわからないが、ねねの叔父に杉原家次がいるところを見ると、その親戚か?
松野重元:秀吉からの付け家老
稲葉通政:別検索では正成の別名とある

など、すべて、豊臣家からの出向組。小早川家の元々の有力家臣団はいなかったようです。

ここから考えられるのは、まったく毛利一門から離れたと考えるのが妥当かと考えます。
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この回答へのお礼

毛利本家側から切り離し策がとられていたのですね。
家老衆の大半が豊臣家からの出向組となると毛利一門とは言えないのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 12:41

小早川家は毛利家とは独立して決断のできる立場ではありましたが、


家康からの内容の誘いにあわせて、想像ですが吉川氏からの連絡ももちろんあったと思います。秀吉の恩顧を先とすべきか、実力者の家康につくべきか迷ったときに毛利本家の安堵のために東軍に味方すべし、との大義名分は決断の後押しをしたことでしょう。
ちなみに、北政所が家康に味方した、というような記述は小説やTV番組でそのような筋もありましたが、あくまで憶測であり事実は不明です。
三成の三女辰姫を北政所が養育していたことから、少なくとも三成と親密な間柄だったことは事実で、西軍敗北の報を聞いて狼狽し、略奪を恐れて財宝を隠させたとも言われています。しかし、関ヶ原後家康に厚く遇されたのは事実で、それはさすが家康一流の戦略だったといえるでしょう。
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この回答へのお礼

やはりあの時点では毛利とは独立して決断できる立場だったのですね。
北の政所が家康に組したというのは憶測で事実は不明なのですね。

関ヶ原のドラマも、宇喜多秀家と福島左衛門の酒のエピソードとかもっと各武将の人間模様にスポットを当てた視点で描いてくれると面白いように思います。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/20 16:48

関が原では、


吉川家の軍が全く動かなかったので後続が動けなくなった。
これが実情のようです。

最後尾には長曽我部がいましたが、
土佐の国の安堵はなりませんでした。

後続からは出陣せよと矢の催促。もちろん、毛利本隊もそうです。
つまり、吉川が独断で後続部隊を全て抑え込んだ。
こう見るべきです。

この事から、
吉川からは家康に付くように。
毛利本家からは豊臣につくように。
北の政所からは家康に付くように。

こう言われたのでしょうね。^^
小早川本陣に鉄砲や大筒を打ち込んだのは信憑性に欠けるそうです。

となると、形勢不利になりかかった徳川を助けに入ったか、または、
石田三成の命令に腹が立ったかです。^_^;

何せ、中納言ですから、20万石の小大名に命令はされたくはないでしょう。家臣もこれには憤激します。

北の政所は、三成では豊臣家を守れない。家康の力を借りるべきと考えていたようです。
案の定、三成の命令に従ったのは1/3程度の戦力でしかなく、
憤激して動かぬ武将が多発しました。

殺されはぐって家康に助けられたぐらいですから、
三成の才覚は一流だとは思いますが、家康はこれを凌駕すると見るべきです。

しかし、北の政所の思惑は大きく外れ、豊臣家は滅亡まで転げ落ちて行きます。
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この回答へのお礼

家康が小早川の陣に鉄砲を打ち込んだというのは信憑性がかけるのですね。

確かに20万石弱の中堅大名の上、石田治部は大将ですらなかったので諸侯も命令されて「はいそうですか。」と従う気にはならなかったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 12:45

確かに秀秋は小早川家とは縁もゆかりもない人物ですが、その家臣たちは、隆景の代からいる訳で、彼らは明らかに毛利とつながっているでしょう。

彼はいわば飾り物にすぎないので、秀秋一人で裏切りを決定したとは思えないのです。実際に毛利本家も、安国寺をのぞいて関ヶ原で戦闘をしていない訳ですから、やはり毛利本家あるいは吉川広家と繋がっていたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

本家あるいは吉川との繋がりですか。
そう考えると関が原の趨勢は一から十まで毛利で決したといえるかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 12:51

戦国時代他家に養子となった人物は徒ほどの器量人でなければ飾りにすぎませんでした。



廻りの近臣は引き連れてきた者としても、有力な部下の信頼、忠節を勝ち取るには大変な努力を要したはづです。

秀秋にはその器量も努力もありませんでした。
どちらかといえば太閤の偉を借りるだけの存在だったと思います。
太閤なき後孤立した彼に影響を持ったのは叔母のねねだったでしょう。

未亡人ねねは既に豊臣家を見限り家康に肩入れしていましたから秀秋にも家康側に付くように説得があったとおもわれます。
毛利本家も積極的に家康とあらそう程の決意もなくただ様子見の姿勢でしたから特に秀秋に特別の指示連絡はなかったとおもわれます。
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この回答へのお礼

>特に秀秋に特別の指示連絡はなかったとおもわれます。
この次点になると、小早川は毛利一門といっても名ばかりのことで、実質的には隆景時代と秀秋時代とでは別物になっていると見たほうが良いのかもしれないですね。
やはり「ねね」の影響力が大きかったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2006/11/19 12:54

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