アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

明治時代初頭、明治維新によって四民平等の考え方は、当時の武士階級の者達にとってはあまり喜ばしい出来事ではなかったようです。
結果的には西南戦争により士族の反乱は終結しますが、一方で国民の多くを占めていた農・工・商人などの平民の生活は明治維新によってどのような恩恵があったのでしょうか?とかくこの時代、士族にスポットが当てられ、平民の生活をうかがい知ることが難しいように感じます。
当時の平民達は職業・金銭・生活面で士族と肩を並べるだけの選択の自由はあったのでしょうか?軍・警察・官吏への登用、幹部への道など。
ただでさえ失業士族の対策に追われる政府にとって果たしてどれほどの平民救済措置が行われていたのでしょうか?一部の突出した平民がという話は聞きますが、いわゆる現代のような士族・平民の差別がなくなったのはいつ頃なのでしょうか?教えて下さい。よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

四民平等とは、あくまで民を指します。


特権階級であるその他を除きます。

当時、戦争とは武士の物。
こう言う反対を押し切り、万民徴兵を行いましたが、
当時の軍隊の幹部や、警察幹部は特権階級の独占であったようです。

兵から幹部への道も開かれてはいましたが、
所詮、今で言う係長への出世であり、
課長、部長への昇進は、狭き門であったようです。

自由民権運動が良い例でしょう。

当時は学校でも、名前を書く前に、士族と書いたそうです。
明らかに由緒を重んじ、平民差別が残っています。

これは、子供をくすぐり、親を喜ばせ、反乱を起こさせない目的が大であったように思えます。
由緒、格式を貧乏の中に見出させる事で鎮圧したとも言えます。

明治政府は予算が全く無く、
目先の問題を解決させる事が急務であったように思えます。
ここで政府の方針を資金で支えれば、財閥のような将来が約束されたとも思えます。

>いわゆる現代のような士族・平民の差別がなくなったのはいつ頃なのでしょうか?
名目上は、戦後のGHQの墨塗り政策(民主主義の教育)からです。
財閥の解体、農地解放による資本の解体。

しかしこれでも戦後20~30年は染み付いた差別と言う個人の概念は消し去る事が出来ませんでした。
現代でもこれは地域別に確実にしこりとして残っています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

庶民が金を出してでも士族になりたかった、なぜ士族に憧れていたか分かりました。有り難う御座いました。

お礼日時:2007/01/13 19:53

田山花袋等の文学作品を読むと、明治中期~後期(おおむね明治30年以降)の地方の庶民の生活が極めて詳細に書かれています。



ざっとの感想ですが、平民については、すでに江戸末期から豪農、商家等平民でも十分に裕福な層が成長しており、平民と士族というよりも、平民層の中での格差の方が大きな問題になっていたようです。裕福な平民層の間では維新後比較的早い時期から自分たちの子供を東京に送り込んで高等教育を受けさせることが流行っており、教育と言う点では、既に明治30年ころには、優秀な人材が氏素性の壁を越えて形成されていく流れが成立していました。

一方、士族は、東京でも地方でも一般に平民よりも広い土地と立派な家屋を所有していたため、明治後期になってもそれなりに「士族様」呼ばわりされており、平民とは素性が違うと言う認識がありました。しかし落ちぶれる者も決して少なくなく、没落して見る影もなくなった士族の屋敷は市井の人々のからかいの対象ともなっていました。また、裕福な平民と下流士族(華族に入るほどでの身分ではなかった士族)との間では婚姻等もなんらタブーとはなっていなかったようです。

個人的感想ですが、明治30年頃(日露戦争前後)には既に身分制は一部の華族の扱い等を除いて実質的になくなっていたように見え、日本の近代化がきわめて早いスピードで進行したことがうかがわれます。ただ、逆に江戸末期には既に平民層の富裕化がかなり進行しており、下流士族と上流平民層間の身分格差はさほどのものでもなくなっていたのではないかと言う気もします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

江戸末期には既に平民でも格差社会が生まれていたのですね。今度、田山花袋さんの作品を読んでみます。よく分かりました、ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/13 19:50

こんにちは。


門外漢なのであまり厳密なことは申し上げられませんが、参考までに。

ご質問の意図は、明治初期に「四民平等」が名目として唱えられるようになったが、江戸時代の差別がなくなり、実質的に「四民平等」といえたのかどうか、もしいえるようになったのならそれはいつ頃か、ということですね


まず、ご指摘の通り、その時代は士族の存在がまだまだ大きかったといえます。職業・住居選択や婚姻等において、平民が本当に自由に行動できていたとはいえません。

ただ、官吏への道など職業に関するものは、若干状況が違います。まずそこでは、ある程度の能力主義が確認できます。また経済力の差も大きくものを言います。
無論、士族が優遇されていたのは事実です。ただこれは、士族であれば最低限の能力(識字、計算能力、職業倫理など)があることは当然であったためともいえます。

よって、平民とはいっても、高い水準の教育を受けることができた人物や、家の財産に自信のある人物などが、一定の選択権をもてるようになったことは事実です。
そして相変わらず、それらを受けることが出来ない階層もいます。江戸時代の影響が色濃くあった時代ですから、元農民で大した教育も受けておらず経済力の無い人物などは、結局のところ名目的な自由しかなかったでしょう。


結局のところ、江戸時代の呪縛から抜け出るのは相当の時を経てからです。私は特に教育が与えた影響を重く見ていますから、士族・平民の差がいつ頃からなくなったかということに関しても、一般的家庭の子供が一定水準の教育をうけられるようになった明治後期以降と考えます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

教育の重要性は私もそう思います。現代の教育が過去へ逆戻りしないことをせつに願うばかりです。ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/13 19:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!