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(1)自殺や自殺未遂は処罰されませんが、自殺に関与すると自殺関与や同意殺人罪などで処罰されるのはなぜですか。 自殺は犯罪であるが、処罰されないだけなのですか。

(2)自殺志願者が、ビルの屋上から人通りの多い歩道に向かって身投げし、真下を通行中の人が直撃されて亡くなり、一方 身投げした本人は、頭部を強打して意識不明の重体となりました。 このとき、直撃されて亡くなった人とその家族への救済措置を教えてください。

(3)自殺の権利が、本人の自己決定権として認められるとすると、その幇助に関して 一定の条件を満たした尊厳死だけしか違法性が阻却されないのはなぜですか。

A 回答 (8件)

(1)


刑法的な通説には以下のように説明します。

まず大前提として、犯罪とは、違法かつ有責な行為と考えられます。(罪刑法定主義の下では、さらに、処罰をするためには、それが法律で定められている必要もあります。)違法とは客観的なもので、責任とは犯罪者の主観的なものです。

自殺は、客観的には違法な行為であるが、追い詰められて自殺するような人に刑罰を加えてもそれを防止できず、期待可能性が無いため、責任が阻却されると考え、これを処罰しません。

これに対し、自殺する本人以外は、期待可能性が無いとはいえないので、これを刑罰を持って処罰すべきと考えられます。

(2)
自殺しようとした人には刑事的には過失致死罪が成立するでしょう。また、自殺しようとした人に対して、民事上損害賠償を請求することも当然できます。仮に、自殺する権利を認めたとしても、他人に迷惑をかけて自殺することまでは正当化されないでしょう。

(3)
現在の刑法学の通説は、前述通り、自殺は原則として違法なものであるが、本人の責任は問えない(責任阻却)と考えています。その上で、尊厳死のような限定的な場合のみ、自己決定権の行使として、客観的に違法性が阻却されることになります。

したがって、尊厳死の条件を満たす違法でない自殺の幇助は違法でなく、尊厳死の条件を満たさない違法な自殺の幇助は違法という結論になります。

この回答への補足

回答 有り難うございます。

(1)
>自殺は、客観的には違法な行為であるが、追い詰められて自殺するような人に刑罰を加えてもそれを防止できず、期待可能性が無いため、責任が阻却されると考え、これを処罰しません。

憲法第13条後段では「すべて国民は、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」としており、個人が尊厳ある存在として尊重されるためには、自己決定権はなによりもまず保障されなければならない人権と考えます。

自己決定権は、個人が一定の私的事柄について、公的権力からの介入や干渉されることなく、自ら決定することができる権利と考えられます。

自殺が違法な行為とすると、すべての人に生存する義務を課すことになりますが、それは憲法の個人を尊重する価値観と矛盾すると考えます。

そもそも自殺の行為について、構成要件該当性や違法性が存在するのか疑問です。


(2)
>自殺しようとした人には刑事的には過失致死罪が成立するでしょう。
>また、自殺しようとした人に対して、民事上損害賠償を請求することも当然できます。

ビルの屋上から身投げする自殺志願者の場合、心神喪失状態であったことを主張し 非常に高い確率で認められます。 また、自殺志願者は無資産であることがほとんどで、仮に亡くなった場合でも 家族が相続放棄することが一般的である現状では、国家的救済措置が存在せず、被害者は泣き寝入りするしかないという理解でよろしいでしょうか。


>仮に、自殺する権利を認めたとしても、他人に迷惑をかけて自殺することまでは正当化されないでしょう。

様々な自殺予防策にもかかわらず 統計上、自殺者数が毎年3万人以上で、自殺の被害による人的 経済的損失が、莫大な金額に上っている現状を鑑みますと 社会情勢に合致した発想の転換による施策が必要であると思います。


(3)
>尊厳死のような限定的な場合のみ、自己決定権の行使として、客観的に違法性が阻却されることになります。
>したがって、尊厳死の条件を満たす違法でない自殺の幇助は違法でなく、尊厳死の条件を満たさない違法な自殺の幇助は違法という結論になります。

輸血をして手術を受ければ 十分回復の可能性があるが、宗教上の信念から、輸血を伴う医療行為を拒否する意思表示をしたにもかかわらず、同意を得ずに輸血した事件で 最高裁は、「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない」と判断して患者側の主張を認めています。

これは、自己決定権に基づき、末期状態かつ尊厳死の一定の条件を満たした患者でなくとも 尊厳的死を選択することのできる自由と権利、生命のあり方を決めることができるのは本人だけであるという「生命の自己決定権」を認めたことにはならないでしょうか。

補足日時:2007/03/04 18:59
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カテゴリーは見ていませんでした。

専門家のクリックを間違って
したようです。
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人は誰も気づいたら生きていた。

という事に間違いなく当てはまり、
多種とは違い死を唯一しる存在であり、また、何気なく生きている
完全性に見えてしまう社会も、誰かが『ちゃんとした』デザインで保障があって作ったわけでもなく、
全ての存在が実験的に作っていたものであり、全てが用意されている状態ではありません。

どこの誰にも、全く明日の事がはっきりと分かりません。その世界ですから、究極的に
その人が何をしようと勝手です。

まーこれが尊厳死の意味でしょうか?苦

関与すると処罰されるのは、倫理的に考えて、自殺したいという人に、してもいいよ
と教える事は、単純に人道に反す物であると、多くの良識的な考えを持つ人が感じる事であり、
民主主義の人道的視点から見て、単純にそのようになっていると考えられます。

精神論ですがね

この回答への補足

法律カテゴリーですので、法律専門家としての法理論的見解を よろしければ ご教示お願いします。

補足日時:2007/03/17 06:21
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この回答へのお礼

法律カテゴリーの専門家としての法的知識や、実務家としての総合的判断力をあえて封印しての「精神論」的アドバイス 有り難うございます。

お礼日時:2007/03/17 06:21

>尊厳死の要件を満たした場合でも 行為者(同意殺人の実行者)の違法性が阻却されないことになると思います。



医療行為(緊急医療を除く)を行うには、本人の承諾が必要なのですから、尊厳死の要件を満たした場合医療行為を停止しても違法とされることはないのではありませんか。患者が生きる権利を有していても、非可逆的で回復が絶望的病状と認められる患者に対する本人の承諾のない医療行為はすることが出来ないにすぎません。
したがって、延命治療を停止すると死亡することが予測できたとしても生きる権利の侵害にはあたりません。緊急医療にもあたりません。

なんか陳述書の出し合いをやっている感じで議論になると削除対象になりそうですね。

この回答への補足

アドバイス 有り難うございます。

[ANo.4][ANo.5][ANo.6]の問答の展開は、
「どの様な状況の人間であっても(生きる権利を放棄する決心した人を含む)憲法に保障された生きる権利を侵害することは出来ません。」(ANo.5)
が前提 出発点となっております。

この前提から、
「生きる権利を放棄した人にも生きる権利がある。」
「(主観的相対的に)生きる権利を放棄した人にも(客観的、絶対的、生来的に)生きる権利がある。」
よって、どの様な状況の人間であっても 他人の生命に関与して、生命を侵害する行為それ自体が違法となる。
と解釈したのですが、この解釈に間違いがありますでしょうか。


>患者が生きる権利を有していても、非可逆的で回復が絶望的病状と認められる患者に対する本人の承諾のない医療行為はすることが出来ないにすぎません。

意味が理解できないのですが、主語はどれで 「生きる権利を有していても」はどの文節にかかるのですか。

「非可逆的で回復が絶望的病状と認められる患者」であっても、尊厳死の要件(医師が治療を中止して患者が亡くなっても医師が責任を問われない6要件)を満たしていなければ、医療行為を中止することはできません。 中止すると同意殺人罪に問われる可能性があります。

「本人の承諾のない医療行為はすることが出来ない」は、人の生死が関わらない(医療行為を中止しても患者が死亡しない)場合の一般論です。

よって、「非可逆的で回復が絶望的病状と認められる患者に対する本人の承諾のない医療行為はすることが出来ないにすぎません。」ではなく、「尊厳死の6要件を満たして初めて医療行為を中止することができる。」 となると思います。


>なんか陳述書の出し合いをやっている感じで議論になると削除対象になりそうですね。

私は、議論しているつもりは微塵もありません。
理解していないのに 理解し納得しているふりをして終わりにするのは、回答やアドバイスして下さった方に大変失礼であると考えています。

補足日時:2007/03/07 20:58
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>「他者の生きる権利の侵害」とは、「生命は本人だけが左右しうるのであって、他人の死に干渉し、原因を与えること」という意味でしょうか。



生きる権利の侵害は、殺人、過失致死が代表でしょう。どの様な状況の人間であっても(生きる権利を放棄する決心した人を含む)憲法に保障された生きる権利を侵害することは出来ません。
自殺の幇助は、故意犯、確信犯であり、当然に生きる権利の侵害に相当します。

「生命は本人だけが左右しうる」かどうかは、法律の課題ではなく哲学の範疇ではないでしょうか。
憲法は、生きている人間に生きる権利の放棄を考えていないと言えるので首を吊ったとしても心臓が動いていれば(法的に生きていれば)、生きる権利を有しています。
で、死によって権利が単純に消失するということではないでしょうか。

この回答への補足

アドバイス 有り難うございます。

>どの様な状況の人間であっても(生きる権利を放棄する決心した人を含む)憲法に保障された生きる権利を侵害することは出来ません。

「生きる権利を放棄した人にも生きる権利がある。」
禅問答のようですね。

「権利の上に眠る者は法の保護に値しない」という法格言がありますが、積極的に生きる権利を放棄しても なお生きる権利がある。
「(主観的相対的に)生きる権利を放棄した人にも(客観的、絶対的、生来的に)生きる権利がある。」
よって、どの様な状況の人間であっても 他人の生命に関与して、生命を侵害する行為それ自体が違法となる という理解でよろしいでしょうか。


>尊厳死は、絶望的病状において過剰な医療行為を停止し、自然死を迎えるのであるから生きる権利の侵害とはならないので違法性が阻却され(る)[ない=文脈から削除]と考えるのでしょうね。(ANo.4)

尊厳死は、「過剰な医療行為を停止=(人為的、消極的)同意殺人(尊厳死の要件を満たしたとき違法性阻却)」による死であって、自然死ではありません。 

よって、上記論法(どの様な状況の人間であっても 他人の生命に関与して、生命を侵害する行為それ自体が違法となる)ですと、尊厳死の要件を満たした場合でも 行為者(同意殺人の実行者)の違法性が阻却されないことになると思います。

補足日時:2007/03/06 23:02
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財産を強制的に受け取らせる法律がないのと類似して、自ら死を選ぶことが権利なのか違法行為なのか法律がないのではありませんか。


自ら死を選ぶことを権利とするのではなく生きる権利の放棄と考える方が自然で死によって確実にその人の権利が消失します。
で、自殺幇助は、他者の生きる権利の侵害だから違法となってしまうでしょう。
尊厳死は、絶望的病状において過剰な医療行為を停止し、自然死を迎えるのであるから生きる権利の侵害とはならないので違法性が阻却されないと考えるのでしょうね。
安楽死は、・・・生きる権利を侵害してますね。

この回答への補足

アドバイス 有り難うございます。

>自殺幇助は、他者の生きる権利の侵害だから違法となってしまうでしょう。

自殺幇助は、自殺を決心している人(生きる権利を放棄した他者)に、自殺を容易にする援助を行うと自殺幇助罪となる としています。

「他者の生きる権利の侵害」とは、「生命は本人だけが左右しうるのであって、他人の死に干渉し、原因を与えること」という意味でしょうか。

補足日時:2007/03/05 08:11
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 条文に書いていないので、学者によって見解が分かれます。

ANo.2は自殺を違法だが責任のない行為としているようですが、それ以前に可罰的違法性がないと説明するのが多数説ではないでしょうかね。他にも、適法説というのがあります。
 少し私の見解を書きます。日本ではキリスト教社会と違い、自殺を違法と見る社会通念は形成されていません。むしろ切腹など、責任を取るための自殺が美徳とされてきたくらいです。ですから自殺を違法とするのには、無理があると思いますね。行為無価値説に立ったところで。

(1)

 自殺自体は可罰的違法性がないが、自殺関与や同意殺人は、社会的法益を侵害したもの(社会秩序に対する犯罪)として殺人とは全く違った理由で処罰されているものと考えます。殺人との間には、大変大きな刑の差があることも、これを裏付けています。

(2)

 主観により、殺意があれば殺人罪、殺意がなくても人を傷害する故意があれば傷害致死罪、いずれの故意もなければ過失致死罪または重過失致死罪が成立すると考えます。もちろん、民事訴訟で不法行為として損害賠償を請求することが可能です。

(3)

 自殺が一般に可罰的違法性を欠くからといって、憲法上自殺する権利が保障されているとは限りません。人権とまで認めるのにはいささかの抵抗を感じます。
 自殺はそもそも可罰的違法性がない行為ですが、他人の関与は社会的法益を一般に犯すところ、一定の要件を満たした他人関与尊厳死には行為の社会的相当性があるため、違法性が阻却されることになります。

この回答への補足

回答 有り難うございます。

(1)
>自殺自体は可罰的違法性がないが、自殺関与や同意殺人は、社会的法益を侵害したもの(社会秩序に対する犯罪)として殺人とは全く違った理由で処罰されているものと考えます。

一般に、正犯行為に比べると 共犯行為は違法性が低いと考えることができると思います。
(自殺の)共犯者(自殺関与や同意殺人に関わった人)が「社会的法益を侵害したもの(社会秩序に対する犯罪)として殺人とは全く違った理由で処罰され」るのであれば、正犯である自殺者(未遂者)についても「社会秩序に対する犯罪(性)」を問い より重く処罰されてしかるべきであると考えます。

「可罰的違法性のない」正犯行為(自殺)に対する共犯行為(自殺関与や同意殺人)が、「可罰的」であること自体 受け入れ難い疑問があります。
自殺関与や同意殺人が可罰的であるためには、自殺が「可罰的違法性」のある行為と考えた方がしっくりいきますが どうでしょうか。


(2)
>民事訴訟で不法行為として損害賠償を請求することが可能です。

自殺志願者は無資産であることがほとんどで、仮に亡くなった場合でも 家族が相続放棄することが一般的である現状では、国家的救済措置が存在せず、被害者は泣き寝入りするしかないということでしょうか。


(3)
>自殺が一般に可罰的違法性を欠くからといって、憲法上自殺する権利が保障されているとは限りません。人権とまで認めるのにはいささかの抵抗を感じます。
>一定の要件を満たした他人関与尊厳死には行為の社会的相当性があるため、違法性が阻却されることになります。

輸血をして手術を受ければ 十分回復の可能性があるが、宗教上の信念から、輸血を伴う医療行為を拒否する意思表示をしたにもかかわらず、同意を得ずに輸血した事件で 最高裁は、「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否するとの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない」と判断して患者側の主張を認めています。

この判断は、結果として死に至ったとしても、信念に基づいて治療を拒否することは違法ではない と考えることができ、よって、末期状態の一定の要件を満たした患者でなくとも 自己決定権に基づき、信念や信条による尊厳的死を選択することのできる自由と権利を認めたものと考えることはできないでしょうか。

補足日時:2007/03/05 07:44
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>自殺は、犯罪ですか。

 それとも、固有の権利ですか。
キリスト教世界では犯罪。
日本では固有の権利。
法哲学そのものが西洋からの輸入品であるわけで、東洋の
人間にはしっくり来ない点があって当然。日本人は両義的に
生死の権利や死生観において生きるしかない。

この回答への補足

アドバイス 有り難うございます。

>日本では固有の権利。
>日本人は両義的に
>生死の権利や死生観において生きるしかない。

日本において、自殺は固有の権利であるが、「生死の権利や死生観」を超越して 一部の例外を除いて、いかなる状況でも生き続けるのが人道である という理解でよろしいでしょうか。

補足日時:2007/03/04 18:46
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