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私は仏教徒の家に生まれ、
仏教に興味があるのですが、
釈尊の説いた法は莫大な量であるようです。

そこでお伺いしたいです。

(1)釈尊は華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃の順番で
経を説いたと教えられましたが、
それは真実なのでしょうか。
論拠、反証も大歓迎。

(2)特に法華経は釈尊の最晩年に説かれた経で、
法華経以後には涅槃経しかとかれなかったと教わりましたが、
それは正しいのでしょうか。
論拠、反証も大歓迎。

(3)日蓮は念仏宗を激しく批判していると聞いたのですが、
日蓮の依経と法然の依経は、それぞれなんなのでしょうか。
また、それぞれの依経はどちらが後に説かれたものなのでしょうか。
それぞれの論拠、大歓迎。

以上、(1)~(3)で少しでもご存知のことがあれば、
教えてください。

A 回答 (8件)

>>鋭い知性と深い教養を感じました。


そんなにほめても何も出ませんよ(笑)

>>私の生来の信仰では、
>>念仏無間と教えられました。
どうやら日蓮系の方のようですね。私は某日蓮系新興宗教の方々に折伏なるものを何度か経験したことがあり、しっかりと日蓮教学を学ぶ必要があると感じ日蓮聖人についてもずいぶん学ばせていただきました。
学んでみると日蓮聖人自身は非常に優れた宗教家であり、私は浄土真宗を信仰していますが法然上人や親鸞聖人とはまた違ったパワフルな魅力の持ち主であるとおもっています。

>>十八願の唯除五逆誹謗正法の句に、念仏宗がどう答えるのか、
疑問に思ってもいます。

 これについては先に少し述べましたが、浄土教側の意見としては「誹謗正法」などしてはいないと考えています。法然上人の立場はあくまで「仏説は全て百点満点」という立場をとります。「大原問答」という法然上人が天台宗、真言宗、南都六宗などの方々とが問答することになったときも、「教えはお釈迦様がお説きになっている以上、どちらが優れているとか優れていないとか決めることはできませんが、自分自身の機根を時代背景や心の中を見つめなおし考慮したとき自分自身は「凡夫」であって、凡夫が誰でも救われるという立場からなら浄土教の教えが最もあっているといえるでしょう。」とお説きになって、仏説はすべてがすばらしいものであって、甲乙付けることはできないとしています。しかし、自分は末法に住む凡夫であるからにはその機根に相応した教えを選択するのがベターであるとします。ですから、問題は経典のほうに存在しているのではなく、自分自身の中にあるとします。これって「誹謗正法」になりますかね?
 また『無量寿経』「唯除五逆誹謗正法」の言葉は、まだ作られていない悪に対してそれを制止させるためのものであるとも考えます。それを「抑止門(おくしもん)」とよびます。 これに対して、『観無量寿経』下品下生には「十悪五逆を犯したものも、仏教を誹謗したものであっても、そのことを改めて心から念仏すれば極楽に往生できる」と説かれています。これは、すでに作られてしまった悪をも救いとるためのものであると考えます。それを「摂取門(せっしゅもん)」と呼びます。仏様の思いはすべての者を救いとるということには違いないが、悪いことをすれば悲しみ、善い行いをすれば喜んでくれるのであれば、仏様が悲しむようなことはしてはならない。ということになりますかね。
 今まだはBの立場です。つぎにAの立場から言えば『無量寿経』の「唯除五逆誹謗正法」の文に関しては、東大の名誉教授である山崎正一氏の説によれば、この文は比較的古い経典には欠けていて、比較的新しい経典に多く書かれているという。したがって、この部分は後世になってから経典が増広や補筆されたときに書き加えられた部分であるようです。このように、阿弥陀仏の凡夫に対する救いに「唯除五逆誹謗正法」という制限を加えたのは後代の人間であって、阿弥陀仏の救いにはもともと制限は存在していないことになります。

>>反面、理屈ではなく、生命感覚として、念仏に魅かれるものも感じます。
 私自身屁理屈な人間なもので理屈を並べましたが、あなたのおっしゃるとおりであるかもしれません。質問者にとってのお題目はそうかもしれませんが、私個人は阿弥陀佛が十八願に定めてくださったお念仏をとなえるからこそ、今を安心して一生懸命生きることができるように思います。理屈ではないんですよね。
 
>>私は自分の信仰を選び取る年齢に来たと感じています。
>>それが自分自身の知性と感情の両面で納得できるのであれば、
>>仏法でもキリスト教でもイスラム教でも構わないのです。
私もそのように思います。その、感覚は忘れないようにしていただきたいなと思います。
また連絡は、メールお教えていただければこちらからメールさせていただきます。

また長々書き連ねまして申し訳ありません。あしからず。
合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

本当にありがとうございます。

ほめても何も出ませんが(笑)
感じたことを、ありのままに綴らせていただきました。
よろしくお願いいたします。

補足日時:2007/09/16 13:54
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ご質問の内容について明確にされたいのならば、どなたかが既に書かれていらっしゃいますが、私も「中村元・三枝充悳「バウッダ」(小学館)」をお勧めします。



・中国仏教、日本仏教がもとにしている天台大師智の「五時教判」は間違っていたことがかなり前に明確にされている点
・その結果、阿含経だけが釈尊の言葉を最も直接的に伝えるものであり、それ以外は後世数百年の間に創作された経典であることが判明している点
・さらにそれら創作経典群の作者達は、必ず「是の如く我れ聞きぬ(如是我聞)」という阿含経の出だしと全く同じ文言を入れ、如何にもこの経典の内容は直接仏陀釈尊から聞いたものである、という狡猾極まりない創り方をし、かの天台大師智でさえそれによって混乱され上記の通り「五時教判」という間違った解釈をされた点(法華経、華厳経、涅槃経などで仏陀釈尊が登場してあれこれおっしゃいますが、全て完全な作り事です)
・日本仏教はその作り事を信じてその上に成り立ち、長い年月が経過してしまった点

これらの事実から目をそらさずに真実を見据えれば、そして「仏教」を「仏陀釈尊の説いたもの」と定義するならば、勝手に仏陀釈尊を登場させて都合の良い内容を展開して作られた偽物の創作経典群を拠り所とする現在の大乗仏教と呼ばれるものが如何に仏陀釈尊の「仏教」とかけ離れたものか、議論の余地はありません。

それら大乗仏教は「仏教」という呼称ではなく、「法華教」「華厳教」あるいは「日蓮教」「法然教」などと呼ばれるべきでしょう。

日本には既に鎌倉時代の昔からそれらの大乗仏教を信仰されている方々がたくさんいらっしゃいます。上記の問題は、彼らの信仰の土台を根底から揺るがす問題のため、様々なところでまことしやかに「詭弁」が展開されているようです。

しかしながら、事実は事実です。
どのような「詭弁」も厳然たる事実の前では虚しいだけです。
質問者様は、せっかく仏教徒の家にお生まれになったのであれば、曇り無き眼で真実を見、真実の道を極められることをお勧めします(仏教ではなく「○○教」を極められるのであれば別ですが・・・)。
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 (1)(2)は「教相判釈(きょうそうはんじゃく)」についてのご質問のようですね。

教相判釈というのは広範囲な仏教思想を整理分類のしかたという意味です。詳しいことは、他の回答者にお答えを預けます。私は少し宗教的研究の立場についてお話したいと思います。
 この質問に限ったことではないでしょうが、宗教の研究方法は大きく分けて二つの立場があると思います。
A、客観的な立場。科学的研究。「宗教現象がいかにあったか?」
B、主体的な立場。規範的研究。「宗教信仰がいかにあるべきか?」
 Aの立場で言えば多くの回答者がおっしゃるとおり「大乗非仏説」という立場がとられます。私も興味深い研究であると思いますし、それを無視することはできません。ただ、あなたのおっしゃる天台大師智顗の「五時教判」が、科学的に違うから間違っているというのは私自身はとても淋しいことであると思います。
 そこで出てくるのがBの立場です。天台大師が全ての経典を読み漁って教相判釈をされたとしたら、教典的根拠があるわけです。「大乗非仏説」をとなえたとしても、当時の経典研究の最新結果であったものには、敬意を払うべきであると思います。少なくとも、全ての経典を読んだことのないものが、「大乗非仏説」を盾に天台大師は間違っているというのは横暴であると思います。
 私が言いたいのは、AとBの立場両方からのアプローチが必要であるということです。
>>釈尊は華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃の順番で経を説いたと教えられましたが、それは真実なのでしょうか。
という質問も、
>>特に法華経は釈尊の最晩年に説かれた経で、法華経以後には涅槃経しかとかれなかったと教わりましたが、それは正しいのでしょうか。
という質問も、Aの立場の研究であれば、真実でもなく正しくもないでしょう。しかし、Bの「天台大師はどのように仏教をいただいたか」を研究する立場から言えば、真実であり正しいことになるでしょう。
 このような宗教学研究の分類は詳しくは岸本英夫の『宗教学』という本の中になされています。この岸本英夫という人はAの立場で宗教学を研究した人でしたが、Bの立場を決して蔑ろにするかたではありませんでした。双方の立場があって、宗教研究は深まりと厚みをもつのだと思います。
 どうぞそのことをご配慮いただきたく思います。

 (3)に関してはあまり詳しい説明がなされていませんので、少しだけお話させていただきます。
>>(3)日蓮は念仏宗を激しく批判していると聞いたのですが、日蓮の依経と法然の依経は、それぞれなんなのでしょうか。また、それぞれの依経はどちらが後に説かれたものなのでしょうか。
 この質問は要するに、『妙法蓮華教』等の「法華経」と、『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」の比較という質問かと思います。
 まずAの立場から説明させていただきますと、
・法華経
 「法華経」の成立は三段階に分けられています。(『妙法蓮華経』を基本にご説明します。)
 第一部は「序品」から「第九授学無学人品」まで。(ただ、序品は第二部と見られることも多い。)この第一部は方便品の「誰でも仏になれるという」思想が中心に説かれているようです。
 第二部は「第十法師品」から「第二十二嘱累品」までで、一部から遅れて成立し付け加えられたと考えられています。ここには久遠の釈迦をとくと同時に、釈迦滅後の菩薩の実践が語られています。
 第三部は第二十三薬王菩薩品以下で、薬王菩薩、妙音菩薩、観音菩薩などの具体的な菩薩が説かれています。この部分は、もともと独立して発展していた菩薩信仰が「法華経」のなかで統合したもので、成立過程から言えばもっとも遅れるといわれます。
 初期大乗経典に属して、紀元50年から紀元150年あたりにかけて、西北インドで成立したといわれています。 
・浄土三部経
 浄土三部経は三つが全てまとめて成立した経典ではありません。『無量寿経』と『阿弥陀経』は法華経と同じ初期大乗経典に含まれ紀元一世紀ごろに成立したといわれます。その二つの前後の関係では明快ではありませんが、『無量寿経』が先であるという説も『阿弥陀経』が先であるという説も存在したいます。初期大乗において浄土思想を完成したもっとも基本的な経典といわれます。
 ただ、『観無量寿経』は漢訳とウィグル語訳が断片的に残っているだけで、成立年代に関しても多くの異説があり、今は西北インドまたは中央アジアにて『無量寿経』『阿弥陀経』の影響を受けて紀元四世紀~紀元五世紀ごろに成立したという説が有力なようです。しかし、中国成立説も存在し定説をみません。

 Aの立場から見ると、「法華経」と「浄土三部経」のうち『無量寿経』と『阿弥陀経』の成立年代はほとんど変わらない。どちらかといえば、『無量寿経』『阿弥陀経』の成立より「法華経」の成立のほうがはばがあると言う説も存在します。『観無量寿経』は「法華経」『無量寿経』『阿弥陀経』より遅れて成立したというのが定説です。

つぎに、Bの立場からお話させていただきますと、
・法華経
 天台大師のおっしゃるとおり、最後に説かれたものと考える教典的論拠としては、「法華三部経」の開経である『無量義経』に「四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)」という言葉が、同じ霊鷲山で説かれている「法華経」の方便品に「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」と説かれていることと、法師品には「我が所説の諸経 而も此の経の中に於いて法華最も第一なり」と説かれていることから、「法華経」こそが『無量義経』に言われる「今まで明かされることのなかった真実」でとなるわけです。そういった、意味ではお釈迦様の真実を語った最高の経典ということになるでしょう。

・浄土三部経
 天台大師の説にのっとれば浄土三部経は「方等時」に属するといわれます。意味としては、弟子たちを小乗から大乗へ導く「方(ひろく)等(ひとしい)教え」ということのようです。天台大師の五時説によれば「法華経」より程度の低い教えということになります。
 しかし、最高の教えであるが故に、全ての時代の全ての人が理解できるかは別問題です。少なくとも仏教の時代観でいえば現在は末法に当ります。末法とは、末世、末代とも呼ばれ、俗には末の世・世も末などという言葉も末法 がもとになっていて、経典に説かれる三時思想の最晩年が末法となります。三時思想とはお釈迦様が入滅されて後、時代が経過するにしたがって、仏教が衰退し、それにともない邪教・外道がはびこり、衆生の機根(能力・資質)が衰えて、悪人が跋扈して、ついには仏教が滅びてしまうという歴史観です。その仏教が衰退していく過程を三つに区分したのが三時思想です。その三時とは、正法・像法・末法をの三つの時代です。
 まず、正法という時代はお釈迦様がなくなってから五百年または千年の間で「教」えが正しく伝わり、それをすぐれた機根の持ち主達が正しく修「行」をする事により、正しい修行の「証」である悟りを得る者もいる時代を呼びます。この時代は「教」「行」「証」の三つが失われることなく伝わっている、いわゆる仏教の黄金期といえるでしょう。
 続いて像法とは、像法の「像」という字は、何かに「似ている」とか「象る」という意味を持つ字で、ここでは正法に似ている時代ということができます。この像法という時代は正法の後千年続くとされ、いわゆる形式化した仏教が行われる時代です。教えもあり、それを修行するものもいるが、人間の素質や能力が低下してきたために形式のみにとらわれ、実際に悟りを得る者は現れなくなってしまいます。この像法という時代では、「教」「行」「証」のうち「証」がなくなってしまった時代を言います。
 このように正法五百年または千年像法千年の後に末法が来ると、教えは残っているものの、出家者の資質・能力が落ち衆生は邪教に惑わされ本当の意味での修行できる者はいなくなり、そのため悟る者もないという時代です。「教」「行」「証」で言えば、「教」だけが残り「行」も「証」もなくなってしまい、それを過ぎると法滅をむかえるというのである。そして、この末法は一万年間続くとされ、末法一万年が過ぎると法滅を迎えて、ついに仏教は滅びてしまうという思想です。これを表にすると次ぎのようになります。
     正法 像法 末法
教(教え)○  ○  ○
行(修行)○  ○  ×
証(悟り)○  ×  ×
このような時代観をどう解釈し、悟れないはずの時代の者がどうやって悟りを目指すべきかというのが、鎌倉新仏教と呼ばれる仏教の根底にあります。
 このように機根の低いもの「凡夫」と呼んだりします。その凡夫に対して「法華経」な代表的な訳である『妙法蓮華経』譬喩品には
【本文】
舎利弗よ驕慢懈怠にして我見に計する者には、この経を説くことなかれ、凡夫は浅識にして五欲に著し、聞くも解することあたわじ、亦この経説くことなかれ
【訳文】
舎利弗よ、傲慢で修行を怠けて自身の勝手な解釈に執着しているものには、この法華経を説いてはなりません。凡夫は知識が浅く五欲に執着して、聞くということもできなければ理解するこのもできない。またこの経を説かずに捨ててしまうでしょう。
と説いて、凡夫は智慧浅く、五欲(財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲)に執着するものであるから、たとえ真実の法文たる『妙法蓮華経』の教えを聞いても、経文を誤解し思い込みによって判断し正しく理解できないとしています。そして「法華経」の教えを凡夫には説いてはならないとしています。けれどもそれは「法華経」が劣っているからではなく、最高の経典であるからこそです。それを理解したり信仰できない理由は経典ではなく、自分自身に問題があるとするのが「浄土三部経」を根本経典とする日本浄土教であり、そんな問題のある自分を極楽浄土で仏にまで仕立てようとするのが阿弥陀佛という仏ということになります。そうなると、問題は自分自身にあるのだから「法華経」をへの誹謗中傷ではありえないことになります。
 また、「浄土三部経」が方等時に説かれたからこそ全ての人が聞くことができるきょうてんであり、『無量寿経』には釈迦様はその仏力をもって念仏の教えだけを、末法が終わって法滅を迎えても残すとおっしゃっています。念仏の教えこそ末法や法滅後に住む機根の低いものために唯一お釈迦様がその仏力をもって保障してくださった教えということもできます。真実が明かされていなくとも、お釈迦様が私たちのために残そうとしてくださっているのです。

 Bの立場から見れば、「法華経」を処依の経典とする宗派と、「浄土三部経」を処依の経典とする立場とは、また意見が違います。確かに天台大師の「法華経」を最高の経典とすることに関しては揺るがないかもしれませんが、それが自分にあっているかどうかは別の問題です。あっていると思えば「法華経」を信仰するもよし、そうでなければ「浄土三部経」を信仰するもよしであると思います。教相判釈を同じ天台大師の「五時説」にあわせても、多くの健が存在しています。

 
 あくまで私の個人的な意見かもしれませんが、Aの立場もまた真実であれば、Bの立場もまた真実であって、どちらかが正しいということは一概には言えないように思います。このような、二つの立場を踏まえた上で質問者がどのようにお考えになるかが私は大切なのではないかともいます。質問の中には質問者の意見は含まれていません。質問するうえでは大切なことだと思いますが、どうでしょうか?私の個人的な興味ではありますが質問者のご意見もお聞かせ願いたく思います。

 長々生意気な書き連ねましたが、支離滅裂な稚文のため文意を読み取っていただきたく思います。ただ、少なくともご質問の回答になはっていませんね。すいません。
 合掌 南無阿弥陀佛

この回答への補足

丁重なお返事を本当にありがとうございます。
鋭い知性と深い教養を感じました。

私が自分の立場を明確にしなかったのは、
一つにはネット上でのことであり、立場を明確にすることで荒れることを恐れたため、
もう一つは自分自身の生来の信仰に迷いを持っていて、
立場を明確にできないという二点があるからです。

私の生来の信仰では、
念仏無間と教えられました。

十八願の唯除五逆誹謗正法

の句に、念仏宗がどう答えるのか、
疑問に思ってもいます。

反面、理屈ではなく、生命感覚として、念仏に魅かれるものも感じま
す。




私は自分の信仰を選び取る年齢に来たと感じています。
それが自分自身の知性と感情の両面で納得できるのであれば、
仏法でもキリスト教でもイスラム教でも構わないのです。

あなたと直接コンタクトを取り、
さまざま、教えていただいたり、意見の交換をすることはできないでしょうか。

コンタクトの方法としては、メール、もしくはミクシィが使えます。

メールアドレスは教えて頂いても、お教えしても構いませんし、
上記以外の方法でも構いませんし、
この場でも構いません。

よろしくご検討いただけないでしょうか。

補足日時:2007/09/09 21:26
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現在では、天台智覬の五時教判は、間違いであることが分かっています。



中村元・三枝充悳「バウッダ」(小学館)をお読みください。(下記URL参照)

日本において天台智覬の五時教判が正しいと信じられていたのは、江戸時代までです。明治以後、仏典の研究が進んで、阿含経(の大部分)以外の経典は、お釈迦様入滅後に、インドで創作されたものであることが分かりました。

参考URL:http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4094600809.h …
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後代の仏教では智慧において天台智覬(てんだいちぎ)を超えるものはないといわれてますから、天台智覬の分類はほぼ正しいと信じてよいでしょう。

叡山を開いた最澄は経典を持ち帰っただけで天台宗の継承者ではない。つまり最澄でも経典の内容まで理解できなかったと思いますよ。
対照的に、真言宗の空海は第7祖の恵果から第8祖を継承してますからね。
釈尊は30代から入滅の80歳までの約50年間法を説いてます。最初の段階で仲間や拝火教徒の約1000人を弟子にして説法をはじめますが、大学で1年生に教えるがごとくでしょうね。規律を守り・・・が教えでしょう。弟子のなかにも空が理解できるようなのが出てくるにはおそらく長い歳月が必要だったのでしょう。空が理解できるようになると次にあの世の構造に至るのですね。それが晩年(70後半)の 霊鷲山(りょうじゅせん)における説法ですね。これが法華経になってます。涅槃経は名前のとおり釈尊入滅の際の教えが基ですね。
このように時系列に分類されたのが天台智覬(てんだいちぎ)ですから正しいですね。
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No.1さんの書かれているとおりです。



お釈迦様の本来の仏教は、阿含経にのみ記されており、阿含経には仏陀になるための修行法(瞑想を中心とする修行法)が記されています。

参考までに、阿含経=根本経典に関するURLを記入しました。

お釈迦様入滅後、仏教は上座部(出家の僧)と大衆部(在家の信者の集団、大乗仏教の核となる)に分裂しました。南伝仏教(上座部仏教、スリランカなどの仏教)は阿含経に基づく修行を行っています。大衆部は、多神教で現世利益手的なヒンズー教の影響を受けて多数の仏と現世利益を強調する大乗仏教の経典も創作して、大乗仏教となりました。その大乗仏教だけが中国を経由して日本に伝わりました。

本来のお釈迦様の仏教は、上座部仏教に最も近いといえますが、現在の上座部仏教では、阿含経における在家の修行法が指導されていないので(大衆部が欠落したからです)、本来の仏教における(阿含経に記されている)在家信者の修行法が実践されていないように思われます。
といって、大乗仏教は全く仏教ではありません(仏陀になるための修行法がありません)。

参考URL:http://www.j-theravada.net/kogi/index.html,http: …
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(1)華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃というのは、天台宗の教相判釈で、「五時教判」というものです。

正確には、
華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時
となり、法華と涅槃は一つになります。
先の回答者さまもおっしゃっておられますが、仏教経典のほとんどは、釈尊の直接の教えではありません。仏教が広まるにつれ、拡大解釈されて編纂されたものです。そして、自分が信仰する経典が一番だということを示すために、各宗派が「教相判釈」を立てたのです。
天台宗の場合、「法華経」が一番大事な経典であるということを示すために、「釈尊が最後に説いたお経だから、これが一番だ」という意味で、最後に持ってきているのです。
その他の「教相判釈」で比較的有名なものでは、法相宗の「三時教」があります。これは、
第一時有教=阿含経など。
第二時空教=般若経など。
第三時中道教=解深密経、華厳経など。
となっています。「五時教判」と違って、「解深密経」「華厳経」が最後になっています。これは、この二つの経典が、法相宗にとって重要な経典であるからです。
ですから、このような「教相判釈」は、自分の宗派の都合のいいように作ったもので、歴史的な流れ、経典の成立の順番とは、全く関係がありません。

(2)も、歴史的事実と意味で言うと、「阿含経」以外の経典はありませんから、「法華経」が最晩年のお経であるということはできません。

ちなみに、経典というものは、お釈迦さまの言葉を、お釈迦さまの死後に仏弟子がまとめたものですから、お釈迦さまご自身は、経典自体を書いたわけでもなく、正しいことが書かれていると認証されたわけでもありません。

(3)日蓮宗は、鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」を所依の経典としています。「法華経」には、「正法華経」という異訳の経典もありますが、「妙法華」の方を拠り所にしています。
また、念仏宗(浄土宗、浄土真宗他)は、「阿弥陀経」「無量寿経」「観無量寿経」などを所依の経典としています。こちらの方は、浄土宗や浄土真宗、その他の細かな宗派によって、拠り所とする経典、その中でも重きを置く経典が違っていますので、一概に、これだと言うことはできないように思います。
で、「法華経」や「阿弥陀経」など、どちらが先かというご質問に関しても、やはり、歴史的にはなんとも言えないと思います。また、歴史的にどちらが先に成立したかによって、より釈尊の教えに近いというようなことも言えません。
大部分の経典は、釈尊の教えのエッセンスを、拡大解釈して、それぞれの信仰に基づいて成立し、さらに後代の人間が、自分の信仰心に照らし合わせて優劣を決めているものです。

ですから、もしお釈迦さまご自身の教えに近いものを求めていらっしゃるのでしたら、「阿含経」の中の、「法句経」あたりから読み進めていかれたらよいのではないかと思います。

とはいえ、最終的には、「法華経」も「阿弥陀経」も「華厳経」も、みな同じことを説いていると、私は思います(それぞれの宗派を信仰されている方からすれば、怒られてしまうのかもしれませんが)ので、「法華経」でも「阿弥陀経」でも、どれから読んでも構わないように思います。解説書もたくさん出ていますが、なるべく特定の宗派に偏りすぎていないものを選べば、より、釈尊のエッセンスを得られるのではないかと思います。

長々と失礼しました。
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釈尊は阿含経以外お説きになっていません。

釈尊がお説きになったのはこの阿含経(南伝ニカーヤ)と律蔵だけです。法句経とかも入るので原始経典類といった方が良いかもしれません。それ以外はすべて創作経典です。これは仏教系の大学に行けば一般教養として習います。ただその阿含経もすべてが仏説ではありません。現在私たちが手にすることができるものは、部派仏教時代、説一切有部が編纂したものではないかといわれています。三国志を例にすると、陳寿の「三国志」が阿含経にあたり、それ以外の経典は「三国志演義」のようなものです。歴史書として通用しないということです。酷いのになると最近の漫画やアニメレベルの経典もあります。日蓮上人が念仏宗を批判するのは知りません。当時の時代背景が原因ではないでしょうか。仏教界が腐敗していたとか。
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