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加賀国はよく「百姓持ちの国」と表現されています。また大和国は過去に質問させていただいた時には「寺社持ちの国」であるとの回答が多かったです。
では紀伊国はどうなのでしょうか?名目的支配は畠山氏が代々占めてきていますが、秀吉による紀州征伐以前は特定の強力な大名支配(ここでは1国支配とします)が居ない状態ではないかと思っています。
1・やはり大名等が支配していた
2・雑賀衆
3・根来寺などの宗教勢力
4・複数国人支配(詳しく挙げていただいたら幸いです)
5・1から4まで以外(自由都市?)
それともやはり全域支配はなかったのでしょうか?

A 回答 (4件)

紀州は敬語が存在しない国です。


和歌山のサラリーマンは課長クラスなら平気でタメ口です。
大阪人などが来ると驚くらしいですね。

戦国時代の南紀州を支配していたのは、堀内氏です。
海岸の漁師町を支配していたのは熊野水軍(九鬼)などのですが、漁師町というのは村単位でまとまるので、九鬼氏が熊野水軍を掌握してはいなかったでしょう。

雑賀衆と一言にいっても、有名なのは鈴木氏(雑賀孫一など)ですが、太田氏(太田孫一)など7つの勢力があり、その頭領が孫一を名乗っていたそうです。

根来寺は紀州のちょこっと領有していましたが、和泉を領有している部分の方が多いですよ。

有田は神保氏が治めていました。
湯浅氏は田辺周辺ですね。
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この回答へのお礼

具体的に名前があがり驚いています。堀内氏、神保氏(あの越中の一族でしょうか?)、湯浅氏など初めて知りました。
雑賀衆で有名な孫一(孫市とも)は、代々鈴木氏がつける頭目の名前だと思っていました。が、太田氏など7つの勢力にも孫一がいたのですね。驚きです。
また九鬼氏と熊野水軍の関係は支配、被支配の関係ではなかったのですか?熊野水軍の一部(もしくは最大勢力)が九鬼氏と考えてもよいのでしょうか?
(脱線すみません)

北部と南部では様々な支配者がいる。逆に言えば統一支配者はいなかったということがわかりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/20 20:39

紀州は南北に長く、山地の多い国で陸上交通が難しい国でした。


この為各地に小規模の支配者が乱立し統一的支配は江戸時代に紀州徳川家が封じられてからにすぎません。

従って国を代表するような呼称も江戸時代に入って「紀州は木の国」とか、「蜜柑の国」とかの表現が生まれ位です。

各地にその土地に適合した支配者が統治の責任を持ちましたから複数国人とするにも難があり、自由都市とするにも規模が小さい。
宗教的結合も特定の地域に過ぎませんでした。
秀吉の紀州征伐も武力団結の結集していた紀州北部に対するものでした。

他の国のように1国規模の、特色のある自治組織が確立出来る国ではありませんでした。

紀州南部の支配者として有名なのは熊野水軍ないし熊野海賊でしょう。これは後に伊勢に移り九鬼水軍の母体になりました。
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この回答へのお礼

komes様毎度ありがとうございます。
紀州は国人支配も土着の武士団も聞きません。自由都市も私自身?をつけるぐらいですから(もしかしたらという期待はありましたが・・・)
やはり1国レベルの支配層はいなかったのですね。

確かに雑賀衆、根来衆など北部勢力が最大の支配層だったのかもしれません。対して南部は陸上交通が不便なこともあり、水軍が発達していたのでしょう。
あえてつけるのなら「海民持ちの国」ぐらいでしょうか?

>これは後に伊勢に移り九鬼水軍の母体になりました

それも九鬼水軍で思い出したのですが、熊野の鬼ヶ城という名所を訪ねたときに、水軍の舟隠しらしきものがありました。ここから伊勢までそう遠くないので何か繋がりがあったのではと思っていました。いかにも海賊の城らしい奇岩の連続でした。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/20 20:28

 紀伊国(きのくに)=木の国ということで、地形は南北に長く樹木の生い茂った山地が大半です。


 わずかに大河(紀ノ川など)の流域に小さな平野があり、米が取れます。
 ですから、紀州の人は古来より、海岸っペリで半農半漁の人が多かったわけです。
 交通も崖っぷちの海岸沿いの道や山道は細い難路で、大変不便なものです。
 したがって、徳川時代になるまでは、誰かが全域を支配するということはなく、宗教勢力と結びついた武装集団(仰せの雑賀、根来、高野、熊野、湯浅、その他いろいろ・・・時代によって伸長あり)が割拠していました。これらの武装集団は、僧兵であったり、海賊であったり、地侍であったり、それらの混合であったりしました。
 とにかく、耕作農地がすくないですから、おとなしく田畑を耕しているだけでは食べて行けません。漁に出ます。漁師というものは荒っぽいもので、現在でも海岸沿いに住んでいる人と米作地帯の人では、言葉遣いが違います(NO.1さんのおっしゃる「敬語がない」は、海岸沿いの人の言葉です、丁寧語はわずかにあります)。
 紀州人の気性について、よく言えば「進取」という言葉があてはまります。恐れずに生地を飛び出していくところがあります。NO.1さんのおっしゃる房州との関係がそうです。醤油は紀州が原産地ですし、白浜や勝浦など同じ地名があるのも面白いです。
 海岸部にアメリカ村と呼ばれる集落があります。昔アメリカへ渡った人が、老後を養うために帰って来た人が多かったことから、こういう名前が付きました。
 さあて、何の国でしょうね。守護大名にとっては「難治の国」であったでしょうね。まあ、『暴れ者の国』というところかな。
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この回答へのお礼

かなり核心を突いた回答だと思います。和歌山の御坊出身の方と知り合いになる機会があったのですが、その方もよく「進取」とおっしゃっておられたのを思い出します。確かに鉄砲自体、進取以外の何者でもありませんものね。
さておき、oboeteGoo様回答は私の質問の2や3の混合とも取れますね。紀ノ川流域以外に平野と呼べる地域は少なく石高は少なそうです。
有名な寺社も多く、中でも根来寺の僧兵は有名ですね。荒くれ者が割拠していたのでしょう。

紀州では、この時代にとても重宝された味噌、醤油、梅干なども有名ですね。

また白浜や勝浦が安房国にあるのをかねがね不思議に思っていたのですが、そのあたりの謎も解けたといっていいでしょう。

余談ながらアメリカ村は訪れたことがあります。(名前と違ってカナダ移民の帰国者村らしいのですが、独特の家屋も減り、寂しくなっていますね)

紀州征伐後も守護職は苦労したことでしょうね。荒くれ者持ちの国、面白く拝見しました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/20 20:17

2・と思います。


敬語のない土地として有名でした。
司馬遼太郎の解釈では海賊の国です。
それぞれが港毎に、本拠を置き、それぞれ同格なので敬語が要らなかった。
半農半漁時々海賊。
信長に協力したが、秀吉の刀狩りに徹底抗戦したので(鉄砲が彼らの誇りでした)
征伐されました。
 その時の生き残りが房総半島に避難し、その当時の最先端漁業を伝えました。それより前にも移住していました。
海洋の国とも言えるのかも知れません。
後に家康が佃島に紀州の漁師を最先端技術者として江戸に招いたのは有名な話です。
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この回答へのお礼

目からうろこです!
>その時の生き残りが房総半島に避難し、その当時の最先端漁業を伝えました。それより前にも移住していました
>佃島に紀州の漁師を最先端技術者として江戸に招いた
そうなんですか。以前種子島銃について質問させていただいた時も、鉄砲の硝石のルートとして、薩摩~雑賀ルートが挙がりました。海の民族であるとのことでした。彼らなら房総半島もありえますね。

半農半漁時々海賊(笑)。納得ですね。
ただし一国支配ではなかったでしょうね。
他に紀伊国南部の支配者とか分かるとなお嬉しいです。
興味深い回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/20 07:19

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