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調べたのですが、どうも分からなかったので教えてください。
質問が6点あります。わかる箇所だけでも構いませんの教えて下さい。お願いします。

1.
ルワンダの涙やホテルルワンダででてくるルワンダでの内戦についてですが、映画では1994となっていました。今現在のルワンダはどうなのでしょうか?パソコンでしらべたところ、十分注意してくださいと書いてありましたが、いまでもナタや銃をもってツチ族をみかけたら殺すというような現状もあるのでしょうか?イラクの武装集団のテロのほうが現状は深刻ですか?

2.
ツチ族はやられるがままで、反撃はしなかったのでしょうか?人数が少ないですが・・・

3.
コミニティーサイトでルワンダの人をみると白人が結構多いのも、彼らはドイツ?ベルギー?の軍の家族が残っているからでしょうか?

4.
キガリという場所で大虐殺がありましたが、それは主にフチ族がツチ族を虐殺したのですよね主には? ツチ族ばかりが大量に虐殺されたとするなら、今そこにすんでいるルワンダ人の多くがフチ族出身やフチ族の家系ということになるのですか?

5.
なぜ、ルワンダに駐在していたヨーロッパ軍は、ツチ族をもっと援護しなかったのですか?あそこにいたのがドイツ軍だとしたら、ほかの仲間や友好的な国から助けを呼んで、なんとかこれほどの大虐殺は免れたかもしれないとも思うのですが? それとももっと大惨劇になっていたでしょうか・・・

6.
ヨーロッパ人せい?で、この内戦が勃発したというのをよみましたが、そこの部分がよくわかりません。私の解釈で間違っている部分、足りない部分など指摘してください。かなり簡単な表現でかきますので、できるだけわかりやすい表現でご指摘お願いします。
昔は少数人口のツチ族がフツ族を奴隷にするほどだったけど、
その後はどちらがエライではなく、普通に友好的?に暮らしていたが、侵略してるヨーロッパ人がツチ族を有利に扱ったりしたために、フチ族が暴れだした。といういうことでしょうか?

A 回答 (3件)

1.ルワンダは現在平和です。

イラクの方がよほど深刻です。
現在、ルワンダの治安は安定しており、反政府勢力の武力闘争も国内では終息しました。
その為、最近、内戦で問題になっているスーダン西部のダルフール地方に、国連・アフリカ連合の一員として治安維持部隊を派遣しています。それだけ余裕ができたという事でしょう。
虐殺をおこした独裁政権からの解放を祝い、毎年7月4日は「解放の日」とされ、色々な催しが行われています。今年も歌や踊りやパレードが行われた模様です。
現政府は大虐殺を乗り越えようと、国民融和・和解の為の努力をしている模様です。
ルワンダは貧しい国で国民の三分の二が貧困に喘いでいるそうですが、政府は「貧困削減戦略」という政策を立て、国を豊かにしようと頑張っている模様です。
また、大虐殺で一時期下降していた就学率も回復してきているそうです。識字率も64%で世界176ヶ国中、143位とまだ低いですが、2020年には100%にしようと頑張っています。
2003年の選挙で現在のカガメ大統領は95%の得票率を得ており、国民の支持も厚い模様です。

2.ツチ族は反撃しました。そして勝利します。そしてできたのが現在の政府です。
当時は、政府(フツ族)と、反政府組織のルワンダ愛国戦線(ツチ族と反政府派のフツ族)が激しい戦いを繰り広げた末に停戦を結びました。そして、政府にツチ族の閣僚が入る事に合意がもたれました。
しかし、この後、タンザニアで開かれた近隣国首脳会議に出席し帰りの途上にあった、ルワンダ大統領の乗る飛行機が撃墜されます。ルワンダの大統領は死亡しました。
この事件にルワンダ軍や大統領警護隊は「ツチ族による暗殺だ」と非難の声をあげ、これにフツ族の民兵組織も同調し、内戦と大虐殺が始まりました。
この時、ルワンダの首都キガリには入閣予定のツチ族5人の護衛をする為に、ルワンダ愛国戦線の精鋭が600人ほど駐留していました。彼らは
政府軍に攻められ苦戦しながらも、頑張り、応援を本部に要請します。隣国ウガンダに本部のあったルワンダ愛国戦線は、急遽、キガリに救援部隊を派遣しました。派遣された部隊の指揮官は現在の大統領のカガメ氏で、当時は軍人で少将という地位にいました。
そして幾多の戦いの末に首都キガリを制圧し、後に全土を平定し、新政権を樹立しました。
虐殺に関わった者達は逮捕されるか、国外に逃亡しました。逮捕者は10万人以上にもなったそうです。
最初の頃は虐殺を行い裁判で有罪になった者は死刑になっていましたが、後にルワンダでは死刑が廃止された為、死刑は1998年に22人が公開処刑されたのが最後になりました。その為、他の有罪となった者は服役し労働の刑で罪を償っている模様です。

4.キガリは首都です。大虐殺があった時、逃げて生き延びたツチ族の人もいますし、後にはルワンダ愛国戦線が勝利し制圧しました。その為、逃げた人が戻ってきたり、新しく移り住んだツチ族の人もいます。
ただ、フツ族の方がとても人口が多いので、住んでいる人という点ではフツ族の方が多いと思います。

5.当時、ルワンダには国連の「国連ルワンダ支援団」がいました。これはルワンダ政府とルワンダ愛国戦線の停戦を監視し平和を維持する為の部隊です。
しかし、カナダやベルギー等、各国から派遣された人数は2500人でしかなく、とても内戦を止めれるような戦力ではありませんでした。
政府側だけでも政府軍と民兵を合わせ、3万人以上の兵力を有していたのです。
派遣されていた各国の軍は自国民の安全を守るだけで精一杯でした。
政府内での数少ないツチ族の血を引く、女性のユウイリジンマナ首相は、度々、大統領批判を行い、軍に嫌われていました。彼女は「国連ルワンダ支援軍」のベルギー軍に守られ、国連の事務所に避難しようとしますが、政府軍に捕らえられ処刑されます。この時、護衛に当たっていたベルギー軍兵士10人も殺害されています。
「国連ルワンダ支援軍」は、どうにかキガリ国際空港を確保します。そしてフランス空挺部隊やベルギー空挺部隊が到着し、「国連ルワンダ支援軍」と協力し、外国人の脱出に全力をあげました。
外国人を脱出させた後は、フランス、ベルギー両空挺部隊も引き上げ、また、「国連ルワンダ支援軍」も縮小されました。ベルギーなどはこれ以上、犠牲者をだしたくない為に、独断で「国連ルワンダ支援軍」に派遣していた400人の部隊を引き上げています。

国連やアメリカの動きは鈍いものでした。これは前年にソマリアで平和維持活動に失敗している為、再び失敗し、威信を傷つけるような事にはなりたくなかったからだと言われています。
結局、6月22日にフランスが人道的支援から独自の軍事介入案を国連に提示し、承認され、軍を派遣する事になります。

現実案として、大規模な軍をルワンダに直ぐに展開させるような準備は、どこの国も持っておらず、大虐殺を止めるのは難しかったでしょう。
アメリカのような大国にしても他国に介入するにはかなりの準備期間が必要です。しかし、ルワンダの虐殺は、あまりにも早く短い期間に起こりました。そして、自国の経済的権益の無い国で、不必要な犠牲は出したくないという思惑が各国にあったものと思われます。

6.ルワンダがベルギー領だった時代、ベルギーが最も恐れていたのは、ツチ族とフツ族が手を結び、ベルギーに敵対する事でした。その為、一方の部族を優遇する事により、部族同士を反目させ協力させないような政策をとりました。
その結果、ツチ族とフツ族の対立は激しくなりました。
それは独立を達成してからもかわらず、何度も衝突を繰り返します。

ルワンダの内戦の理由はフツ族とツチ族の民族対立であり、歴史的に見れば、ヨーロッパ人が対立の原因を作る方向にもっていったとは言えるでしょう。
ただ、ルワンダが独立を達成したのは1962年です。1994年の大虐殺の時までには既に30年以上の年月が経っています。ヨーロッパ人の支配から脱して30年以上も経っているのに、この内戦の原因の全てをヨーロッパ人のせいにするには無理があるように思えます。まあ一因くらいはあるかもしれませんが。もはやヨーロッパ人が一部の部族を有利・不利に扱っているという時代ではないのです。
そもそも30年の間にはツチ族とフツ族の間で休戦状態が保たれた平和の時代もあったのです。

また、1994年の内戦の始まりで言えば、大統領機をツチ族が撃墜したと政府軍が判断した事から始まりました。それまでは政府とルワンダ愛国戦線との間で、停戦が合意されていたのです。ここにヨーロッパ人の介在する余地はありません。少なくとも1994年の内戦・大虐殺の勃発の原因をヨーロッパ人のせいにするには無理があるでしょう。
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 回答ではありませんが・・・



 実は、独立間もないルワンダで、1960年から6年間、日本銀行出身の服部正也氏がルワンダ中央銀行総裁として、経済改革に取り組んでおられました。

 氏の努力の多くが、水泡に帰してしまったような内戦ですが、彼が在任中も、その兆しは常にあったようです。

 内戦についての直接の言及はありませんが、ルワンダ社会の状況を鋭く捉えたその手記が、

『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也 中公新書290

 として出版されており、毎日出版文化賞を受賞しています。一読をお勧めします。 
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1.現在のルワンダでは公共の場で民族の違いを論じる事も違法とするなど民族対立を煽る行為を取り締まっている為、表向きは小康状態にあります。


勿論、虐殺の恨みが残っていないはずもなく、将来の事は分かりません。

2.虐殺以前からツチ族を中心としたRPF(ルワンダ愛国戦線)がフツ族主体の政権に反抗し、内戦を引き起こしていました。
なおRPFはツチ族が中心であったのは事実ですが、ハビャリマナ政権に不満を持つフツ族も多数参加しており、決してこの内戦は「フツ族VSツチ族」というわけではありません。
しかしハビャリマナ政権はRPFを「ツチ族のゴキブリ共」などとレッテルを貼り「政府VS反政府」を「フツ族VSツチ族」にすり替え、これが後々の虐殺につながる一つの要因となりました。

3.アフリカの旧植民地にいた白人は独立時に残った人間も少なくありません。
例えばジンバブエではそのような白人の財産を接収したので、現在欧米諸国から経済制裁されています。

4.ルワンダの虐殺については未だ全容は解明されていませんが、内戦終結後に急速に人口が回復していることから、難民になって周辺国に逃げ出した人間も当初は「虐殺」に含まれていたものと思われます。
キガリについては細かい事はよく知りませんが、戻っているツチ族の方も少なからずいるのではないでしょうか。
何にせよこの手の虐殺の話はとかく大げさになるもので、例えば99年の東ティモール暴動では「数万人が虐殺された」などと日本でも大きく報じられましたが、実際の犠牲者は52人でした。

5.虐殺時のルワンダには別に他国の軍隊は駐屯していませんでしたよ。
国際社会の介入が遅れたのは当時、ルワンダが国連安保理事国であったことや、ソマリアの内戦介入に失敗した事から国連やアメリカが消極的であったこと、フランスがフツ族側を支援していた事などの理由があります。

6.ルワンダの歴史はアフリカの大部分同様、文書ではなく口伝で伝えられた為、近代以前については分からない事だらけです。
(例えば植民地化される前のルワンダ王朝の初代国王の即位がいつだったのかですら、研究者によって100年単位のズレが生じてます)
しかし農耕に適さない土地の為、遊牧民族のツチ族が農耕民族のフツ族より豊かであり、ツチ族の王族がフツ族を支配する構図が存在した事は判明しています。
そして第一次大戦後、ドイツからルワンダを得たベルギーは、分割統治の為「先住民族であったフツ族を白人の血を引くツチ族が支配した」というでっち上げた歴史を宣伝し、白人>ツチ族>フツ族という図式を造り出したのです。
なおこの時、ルワンダの原住民は多数派のフツ族、少数派のツチ族、ごく少数のピグミー族に分けられましたが、当然戸籍などがありませんし混血も進んでおり、農耕と遊牧を両方行っている部族もあったため「身長何センチ以上ならツチ族、それ以下はフツ族」「家畜何頭以上ならツチ族、それ以下はフツ族」という具合に、統一すらされていない、ずさんな基準で決められました。
その後、ベルギーからルワンダが独立すると、多数派のフツ族がベルギーの流した虚構の歴史を逆手に取り「先住民族であるフツ族こそが真性のルワンダ人である」とした宣伝を行ったのです。
そしてアフリカではよくあることですが、政権の腐敗を少数派になすりつけ敵意を煽る事で不満をそらす手口が使われ、そしてそれを煽ったハビャリマナ大統領の死亡(事故死と暗殺の両方の説があります)がきっかけとなって、虐殺が起きたのです。
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