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「心の必要性または役割」

何故に「心」が必要なのか分かりません。参考になる書物でも構いません。

ポール?ヴァレリー「心の仕事とは、将来を想像することである」。これには納得がいきます。が、この文から考えると、心の誕生には予期計画能力(苦悩)が必須になってします。そして、自分を知らぬ者にはやたらに迷いが生じてしまうと思うのですが、

自己思想では「全ては等価値」だと思います。ですが、「心」に関しては利点がいっこうに見えないのです。

人物不明「心とは、鹿の角のようなもので、それがなくとも問題ではないように思われる(曖昧な記憶から」

状況変化によって、情動が生じます。次に行動が生じます。その後に、心に感情が生じます。心は勘違いをします「意識的な判断で行動した」と。行動完了の後にやってきてはやたらに自己解釈です。

A 回答 (2件)

こんにちは。


我々動物にとって「心の役割」とは、それは「生後学習の結果を基に与えられた状況に応じた適切な行動を選択すること」です。

「心」といいますのは神経系の情報伝達です。ですから、それは「心の動き」として発生するものであり、我々の脳内で神経系の情報伝達といいますの以下のようなプロセスで行なわれます。
「入力―中枢処理―結果出力」
我々動物の「行動」や「身体反応」といいますのは環境からの入力に対して中枢処理された結果が運動系や自律系に出力されることによって表出されます。行動や身体反応といいますのは原因を基に目的を持って選択されるものです。従いまして、我々の脳内で行動選択や身体表出に関わる中枢機能の主な役割とは、それは「環境からの入力に対して生物学的な価値判断を行うこと」ということになります。これにより、我々動物は自分の身の回りに発生する様々な環境の変化に対処します。

我々高等動物の脳内には行動選択に携わる中枢系が以下のように三系統あります。

「生命中枢(脳幹以下脊髄まで):無条件反射:本能行動(無意識行動)」
「大脳辺縁系:情動反応:情動行動(学習行動:無意識行動)」
「大脳皮質:認知・思考:理性行動(学習行動:意識行動)」

これを「脳の三位一体説」といい、現在の脳科学ではこのような考えか方が主流となっています。
「生命中枢の反応規準」といいますのは予め遺伝的に決定されているものですから、本能行動の結果というのは全人類に共通です。これに対しまして、「情動反応の判定規準」といいますのは生後の体験結果を基に大脳辺縁系に学習獲得されるものであるため、そこには必ずや「個体差・個性」というものが反映します。
では、このように生命中枢や大脳辺縁系の判定規準といいますのは既に脳内に獲得されているものです。ですから、入力がありさえすれば直ちに反応を発生させることができるわけですが、その結果はどちらも「無意識行動」です。
これに対しまして、「大脳皮質の理性行動」といいますのは、今現在に与えられた状況だけに反応するのではなく、過去の学習体験を基に未来の結果を予測するという「計画行動」であります。
このためには、
「外部情報:環境からの入力」
「内部情報:学習記憶」
どうしてもこのような複数の情報を脳内で比較・分類しなければなりません。
これを「認知作業」といい、我々の脳内で「意識とは」、このような複数の情報を一時的に保持するために発生するものです。従いまして、大脳皮質の「理性行動(計画行動)」といいますのは、常に原因と結果の自覚された必ずや「意識行動」ということになります。

生命中枢の反応規準といいますのは我々動物がその生体活動を全うするためになくてはならないものですから、この結果を変更するということは生涯に渡ってできません。このため、本能行動では生後環境に発生する様々な変化に対応することはできません。では、学習行動とはこれを補佐するためにあります。
大脳皮質や大脳辺縁系の学習記憶は生まれたときには白紙状態です。ここにそれぞれの体験結果に基づく判定規準が積み重ねられてゆくことにより、我々は生後環境に発生する様々な変化に対処することができるようになります。この判定規準といいますのは本能行動では対応することのできない問題を解決するため、個体に与えられた生後環境から獲得されなければなりません。このように、学習行動とは産まれた個体がその生後環境に適応するためにあります。
では、本能行動とは違い、情動行動には生後の学習結果が反映するわけですが、この二つでは未来の結果を予測するということはできません。これに対しまして、大脳皮質の理性行動といいますのは「未来報酬」というものを想定し、より価値の高い行動を選択するために用いられます。

我々の脳内で「心の動き」を司る中枢は「大脳辺縁系」です。
大脳辺縁系の役割とは身体内外の感覚器官から入力される環境の変化に対して「生後学習の結果に基づく利益・不利益の判定」を下し、これによって「情動反応」を発生させることです。この反応が運動系や自律系などに出力されることにより、我々の身体には以下のような生体的変化が発生します。

「中枢神経系:神経伝達物質の広域投射による覚醒状態の亢進」
「自律神経系:情動性自律反応による生理状態の変更」
「運動神経系:情動行動の無意識な選択」

このようなものを纏めて「情動性身体反応」といいます。
「情動反応」といいますのは個体の生後体験によって大脳辺縁系に学習獲得された判定規準に基づいて発生するものです。では、これによって我々の身体に表出される「情動性身体反応」といいますのは環境からの情報入力に対応して選択される学習行動ということになります。
我々の脳内に発生する「心の動き」といいますのは大脳辺縁系の情動反応です。そして、それは学習結果を基に環境からの入力に対して適切な行動を選択するという重要な役割を担っています。従いまして、もしこの「心の動き」がなかったとしますならば、我々動物は自分の身の回りに発生する様々な変化に一切対処することができないということになります。これが、我々の脳内に発生する「心の役割」です。

>ポール?ヴァレリー「心の仕事とは、将来を想像することである」。これには納得がいきます。

これを「心の仕事」としますならば、どうしてもその存在価値に疑問が発生してしまいます。ですが、現在の科学ではこのような考え方は成されていません。「思考」「想像」といいますのは、これは「大脳皮質の仕事」であり、心の仕事ではありません。
只今申し上げました通り、「心の役割」とは学習結果を基に利益・不利益の判定を下し適切な結果を選択するということです。ですから、「心の仕事」といいますのは何を想像するかではありません。それは、想像した結果に対してどのような判定を下すかであり、これが即ち「心の動き」であります。
「想像」といいますのは環境にも記憶にも存在しない新たな結果を生み出すという大脳皮質に特有の優れた機能です。ですが、如何に高度な情報処理を行ったとしましても、思考だけでは何の価値も発生しません。何故かといいますと、我々の脳内では大脳皮質には結果選択の決定権というものが一切与えられていないからです。
例えば、
「この商品があればずいぶんと重宝だが、今これを購入すると月末まで生活費が厳しくなる」
大脳皮質に下せる判断はここまでです。
ではこの先の、
「無理をしてでも欲しい!」
「いや、涙を呑んで諦める」
このような判定を下し、実際の行動選択を決定するのは大脳皮質ではなく、大脳辺縁系の情動反応です。
このように、大脳皮質には結果を選択する機能、即ち入力情報に対して利益・不利益の判定を下すという機能がありません。では、大脳皮質が如何に魅力的な未来報酬を想定し、どんなに計画的な理性行動を立案したとしましても、大脳辺縁系がそれに対して価値判断を行わない限り「行動選択の動機」が成立することはありませんし、「嫌だ・怖い」といった情動が発生しなければ我々は回避行動を選択することもできません。「心の仕事」とはこちらのことを言います。
ですから、もしこの大脳辺縁系の情動機能が損傷し、知覚入力や認知結果に対して心の動きというものが発生しないとしますならば、我々は本能行動を除く一切の行動が選択できなくなります。
「嬉しい」「悲しい」「恐ろしい」、これが心の動きであり、これらはみな我々が与えられた環境の変化に適切に対処するために発生します。

>が、この文から考えると、心の誕生には予期計画能力(苦悩)が必須になってします。
>そして、自分を知らぬ者にはやたらに迷いが生じてしまうと思うのですが、

「迷い」といいますのは欲求が自覚されることによって発生するものです。
本能行動や情動行動といいますのは入力に対応する無意識行動でありますから、阻止されれば「苦痛」は発生しますが、「苦悩」というものが発生することはありません。
これに対しまして、理性行動といいますのは未来の結果を予測することによってより価値の高い結果を選択するための計画行動です。では、より価値の高い結果を選択するためには、今現在自分にどのような欲求が発生しているがきちんと自覚されなければなりません。
これにより、
「どのような選択をすべきか分からない」
「未来報酬を獲得するためには今現在の欲求を抑制しなければならない」
このような迷いが発生します。
ならば、「行動選択の動機」というものがそこに存在し、これが自覚されるということは、脳内では既に何らかの価値判断が下され、そこに心の動きは発生しているということです。従いまして、心の動きを発生させるために苦悩が必要なのではなく、心の動きがあるために苦悩が発生するというのが正しい順番ということになります。

我々の脳内で行動選択に関わる三系統の中枢系は「並列回路」として構成されています。このため、同一の入力に対して異なる結果が出力されるならばそれは必然的に対立することになります。
学習行動の判定規準といえども基本的には本能行動に定められた「生物学的利益の獲得」という大原則に従って獲得されるものです。ですが、与えられた環境によっては必ずや個体差が発生するわけですし、我々人間の場合にはここに知的判断や社会的道徳観といった極めて複雑な判定規準の獲得を要求されます。
学習行動といいますのは環境の変化に対応することによって本能行動の実現をより効率的に行なうためにあります。ですが、その目的が純粋に子孫繁栄であったとしましても、我々は白昼堂々人前でHをするわけにはゆきません。我々人間は生後の自然環境に適応して本能行動を実現する前に、まず自分たちに与えられたたいへん複雑な社会環境に適応しなければならないわけです。このため、同じ学習行動ではありますが、我々人間の場合は情動行動に対する理性行動の比率が極めて高くなります。
このようにして、意識行動と無意識行動の間に発生する矛盾を、大脳皮質を発達させてしまった人類の苦悩、即ち「悩み」といいます。

>自己思想では「全ては等価値」だと思います。ですが、「心」に関しては利点がいっこうに見えないのです。
>人物不明「心とは、鹿の角のようなもので、それがなくとも問題ではないように思われる(曖昧な記憶から」

これまで申し上げました通り、行動とは目的を達成するために選択されるものです。では、思考や想像は行動選択の動機は成立しませんので、これだけでは何の価値も発生しません。ですから、これを「心の仕事」としてしまいますならば、その存在価値は無いに等しいということになります。
このようなものは我々人間の脳に発達した優れた能力ではありますが、動物が生きてゆくために必ずや必要であるわけではありません。ならば、それが「鹿の角と同じ飾りである」というのは、先ほどの「心の仕事が想像である」という論説に比べるならば、こちらは人間至上主義というものを排除した生物学的にも冷静な解釈であると思われます。そして、このような考え方は、これまでご説明致しました「心の機能」というものは必ずや必要ではなく、我々動物は本能行動だけで十分に生きてゆかれるという範囲にまで適用されます。

大脳皮質・大脳辺縁系といいますのは、我々哺乳動物と鳥類が爬虫類から進化をする過程で発達させた新皮質です。ですから、爬虫類以下の動物には本能行動を司る生命中枢しかなく、動物界といいますのはこの脳の構造を以って高等動物と下等動物にすっぱりと二分されます。
この大脳皮質・大脳辺縁系という新皮質の特徴といいますのは「学習機能」です。これにより我々は、行動選択に学習結果を反映させるという「心の機能」を使うことができるようになりました。ですが、脳内にこのような新皮質を持たない下等動物は本能行動だけで立派に繁栄しています。ですから、「心の機能」というものが動物にとって必ずや必要なものでないというのは間違いのないことだと思います。ならば、飽くまでそれは我々高等動物が本能行動の実現をより有利にするために獲得した「補助機能」ということになります。
では、現在では爬虫類以下の下等動物、果たして昆虫類に至っても何らかの学習機能を有することは広く受け入れられています。ですから、彼らも我々と同様に「心の動き」というものを持っており、生後学習の成果を行動選択に反映させ、環境の変化に対応することによって自分たちの繁栄を有利にしているというのもまた見落とさざる事実です。

>状況変化によって、情動が生じます。次に行動が生じます。その後に、心に感情が生じます。

はい、正にその通りですね。

>心は勘違いをします「意識的な判断で行動した」と。行動完了の後にやってきてはやたらに自己解釈です。

ですが、これはちょっと逆さまです。
勘違いをしているのは心ではなく、大脳皮質の方です。
我々の日常生活といいますのは、そのほとんどが情動行動という無意識行動によって賄われており、大脳皮質の判断によって行われる意識行動の比率といいますのはほんの僅かでしかありません。にも拘らず、あとからそれが意識行動だったと主張するのは、これは大脳皮質の勘違いです。
我々の日常生活が無意識行動でも滞りなく成立するのは、それはあれこれ考えなくても大概のことはできてしまうからです。この判断は大脳辺縁系に学習された過去の体験結果に基づく心の動きによって下されています。
例えば、テーブルの上に置かれたマグカップに手を伸ばしてコーヒーを一口飲む、この程度の作業でしたら無意識行動で十分可能です。ですが、大脳皮質といいますのはこの行動選択の結果を基に、
「マグカップを取ったのはコーヒーを飲みたかったからだ」
などとあとからあれこれと理由付けを行ないます。この意識が記憶に残りますので、我々は自分の行動は自分の意志によってコントロールしているという錯覚を持つわけですが、実際にはほとんどが無意識行動であり、ドアを開けるときに「ノブは右に回す」などと意識しているひとはまずいません。このようなものを大脳皮質における「情動の原因帰結」といいます。

「原因帰結」が必要であるのは、意識を発生させる大脳皮質と情動反応を発生させる大脳辺縁系が別々の回路で働いているからです。
作業の手が空いたらコーヒーを一口飲む、このようなものは習慣行動として既に何度も学習されています。ですから、これに必要な行動選択の動機といいますのは情動反応だけで十分であり、大脳皮質がそれを意識する必要は全くありません。まして、果たして情動反応といいますのは発生するまで知覚することはできないのですから、大脳皮質がその動機の成立を事前に自覚しているということは絶対にあり得ないわけです。これが、無意識行動が無意識である理由ですね。
では、我々は情動の発生をどのように自覚するのかといいますと、大脳皮質は情動の発生に伴って自分の身体に表出された情動性身体反応の結果を体性感覚として知覚します。つまり、大脳皮質は選択された行動や反応の結果を基に自分にどのような情動が発生しているのかを過去の学習体験に基づいて推測するわけです。そして、今現在自分に与えられている状況の判断を行なうことによって、「自分今は何に対してその情動を発生させている」といったい原因帰結を行います。これにより、ここで初めて結果を予測した理性行動の選択が可能となり、それを学習記憶として保管することができるようになります。
このように、我々の脳内では大脳皮質での認知よりも情動反応の発生の方が必ず先になります。これが、我々が自分の意志によって情動をコントロールすることのできない理由です。
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心は身体にとっては必要ないものだと思います。

心がなくてもほかの生物はちゃんと生きています。なぜか分からないけれど人間だけがこころをもつようになった(おそらく脳が異常に大きくなったことが主な理由だと思います。他にも理由があると思います)これは堂々めぐりになってしまうことですが、心の存在理由がないと考えるのは心なのですから、逆に言えばほかの生物はそういうことを考えないので彼らにとっても心の存在理由はないということになります。まだ先があると思いますが暗闇の正体を見極めようとして明かりをつけるようなところがあります。
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