プロが教えるわが家の防犯対策術!

 詳しい内容をおしえてください。単純に捉えていましたが 注意しなければならない意味があるのかも知れません。
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 もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。
 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。

   「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、
    新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。

   「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、
    エジプトの地から導き出した日に、
    彼らと結んだ契約のようなものではない。
    彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、
    わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。

   「それらの日の後、わたしが
    イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。

   「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、
    彼らの心にそれを書きつけよう。
    わたしは彼らの神となり、
    彼らはわたしの民となる。
    彼らはそれぞれ自分の同胞に、
    それぞれ自分の兄弟に、
    『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。
    小さな者から大きな者に至るまで
    彼らはすべて、わたしを知るようになり、
    わたしは、彼らの不義を赦し、
    もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」
     (エレミア書 31:31-34)

 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
  (ヘブル 書8:7-13)
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A 回答 (12件中11~12件)

>教団の必要がないということでしたらもう《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていくと言ってよいように思うのですがいかがでしょう。



人に教えるほど勉強していませんが、こう考えます。
1.《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていく
その通りだと思っています。その意味でもルターの万人祭司主義であり、信仰によってのみ救われるということだと理解しています。

2.教団の必要がない
教団の必要はありませんが、教会(エクレシア)は必要です。キリストはその頭であり、体なる教会全部を統制し、指揮し、命令します。
キリスト教はキリスト抜きでは成り立たちません。キリストの贖罪があり、復活があって、我々の罪は許され、神の子として新しい生命に生きることができます。
キリストの苦難の道を我々が体験し、キリストの僕として、友人として、キリストの教会の教会員として、初めて天国に入れます。神と直結の関係ですが、その直結の関係はキリストの支えがあって直結の関係です。キリストなくして直結の関係はあり得ません。
この世の教会が、それをサポートする役目を担っているのであるとしたら、それもあって良しです。あってはならない理由はないと考えます。
カトリックのように、あるいはプロテスタントでもそれ(自分たちの教会)がなくてはならないというのであれば、私はそれを間違いだと思っています。
この世の教会があろうがなかろうが、その教会員であろうがなかろうが、救いに関係なしです。
どこの(この世の)教会に属していようといまいと、キリストを介した神と直結の関係には無関係ということです。
その意味で、先のエレミア書は、現在のこの世の教会を否定も肯定もしていません。次元の違う話をしています。

教会とはなにか、ということにこの問題の鍵があります。
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この回答へのお礼

 stonepilloさん ご回答をありがとうございます。

 いまは鏡をとおして謎において見ている(でしたか)ということですから たしかに 《問題の鍵》という言い方で おしえてくださったのだというふうに理解したのですが 気が短いのではなく 早いのだと思っています。ので ずばり お尋ねいたします。
 もし 《万人祭司主義》ということでしたら 一人ひとりが たとえば場としては その家が エクレシアであると考えては いかかでしょうか。だれでも 自由に行き来できるというふうに了解しているというかたちです。
 あるいは さらに 信仰は 内面の問題ですから 一般の生活においては ただちに信仰の話しをするということではないわけです。だとすれば 日常生活としては 《自分の同胞・自分の兄弟・小さな者から大きな者に至るまで》の社会一般の人びとが 一定の地域としてのまとまりにおいて エクレシアであると考えてはいかがでしょうか。
 信仰内面の思いとしては 国といった単位体が 主の家(チャーチ・キルへ・キュリアコン)だという考え方で いいのではないでしょうか。いかがお考えになるでしょう。

お礼日時:2008/02/25 20:49

名指しされたものではありませんが、基本的なことをいくつか。



まず、ヘブル書はパウロ書簡ではありません。読み人知らずです。
それから旧約の考え方ですが、古びて消えうせるのではなく、成就したということです。消えうせるのではなく完成して基礎となったということです。
われわれは全く新しい契約に生きるのではなく、古い約束を土台とした新しい約束に生きます。新約は単独ではおそらく違う宗教になっていたと思います。天地創造からキリストそして最後の審判のストーリーには、古びて消えうせるものはありません。

以上が一般的なプロテスタントでの考えと思っていますが(カトリックのことは知りません)、質問された方の考えはちょっと違うようなので、宗派によっては解釈に違いがあることをここで明記しておきます。宗派による解釈の違いを論じようとは思っていません。

題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。
その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。
 いえいえ みなさんのご見解もお伺いしたいです。ありがとうございます。

(1)パウロの書いたものではないという点につきましては 仕方ありません。エレミア書の内容として取り上げることにします。

(2)旧約は 《古びて消えうせるのではなく、成就したということ》の中身として このヘブル書も たしかに《年を経て古びたものは、間もなく消えうせます》などと字面で言っていますが エレミア書からの《わたしの律法を〔モーセの時のように 石の板にではなく〕彼らの思いに置き、/ 彼らの心にそれを書きつけよう》という文句を引用しているわけですから それほど逸れてはいないようです。
 (たしかにパウロが 律法規範主義のような行き方を批難していますが 律法じたいは 聖であり霊ですから その同じ律法が 成就するという内容を ヘブル書も含んでいると言っていいでしょう)。

(3)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 題目のエレミヤ書ですが、書いてある通り、新約の訪れを予言しています。
 その新約の世界では旧約の世界とは一転して、王や祭司等が神の言葉を代理するのではなく、神と民が直結の関係となり、新約の最大の特徴である罪の許しもここで予言されています。
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☆ おおむね おっしゃるとおりだと思うのですが 《罪の赦し》にかんして もう少し詳しくおしえていただけると有り難いです。
 つまり 《わたしは、彼らの不義を赦し、/ もはや彼らの罪を思い出しはしないからである》という文句をどう解釈するかです。もし《〈主を知れ〉と言って教える必要はなくなる》ということが――《宣教という愚かな手段》を 歴史的に介しつつですが―― 教団の必要がないということでしたら もう《神と民が直結の関係とな》る個人の信仰のみで生きていくと言ってよいように思うのですが いかがでしょう。

補足日時:2008/02/25 13:31
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