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第三者に「ありのままの自分でいなさい」と言われました。
このありのままの自分と言うのはどういう意味なのかちょっと
分かりません。成人して長い年月を経っていながら恥ずかしい
話です(苦笑)

自分自身としては、気が合わない身内関係で黙っている部分が
ありますし、逆に注意、指摘すると嫌な言葉が返ってくるのが
分かるので黙っています。
本当は何もかも言いたくなるんですが。(その身内の行動、考えがすごく大嫌い)

詳しい方の回答をお待ちしています。

A 回答 (2件)

有りのままとは「喜怒哀楽」をそのまま出すと言うことでもありますけれども、それに溺れないことをいいます。

溺れてしまうのは「執着」や「拘り」になります。
丁度柳の枝が、風になびかせて逆らわないようなのを、ありのままというべきでしょうか。
ですが「悲しかったら悲しい」といい、「腹が立ったら腹が立つ」といい、「苦しければ苦しい」といえばよいのであって、その後はその事を引きずらないことです。
よく言われている「いじめ」、「いじめ」られたからといって、それをいつまでも気にしているのは有りのままではありません。「いじめ」られたのは一時のこととして前向きになるのが、有りのままの姿と言えるでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/31 12:25

悲観的な思考、感情にある時はそれはその人の意志がさせているのではなく自然がさせて予感するのが人間だからしょうがないもののようです。



心理に詳しい方ではない変なだけの通りすがりのものだったりしますが。
アラン定義集による説明です。

◇悲観主義◇
  自然的なもので、それを証するものは一杯ある。
  なぜなら誰も皆悲しみ、苦悩、病気、死を免れないから。
  悲観主義を厳密に言えば、現在は不幸ではないが、
  これらのことを予見している人間の判断である。
  悲観主義は自然と体系のかたちで表現されて
 (そういってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企て、
  あらゆる感情の悪い結果を予言する。
  悲観主義の本質は意志を信じないことである。
  楽観主義はまったく意志的である。

◇楽観主義◇
  それによって自然的な悲観主義を退けるような意志的判断。
  オプティミスム(楽観主義)はしばしば苦しみに打ち負かされる。
  しかし、悲観主義が人間についての判断において
  勝っていると信じようとするその瞬間にオプティミスムは勝利を収める。
なぜなら人間はその同胞を自分がそれを欲するなら理解し救うことが出来るから。


そしてアランは秩序と自由な精神を同時に維持する秘訣は
「体で従い、決して精神で従わないこと。
完全に譲ること、と同時に完全に抵抗すること」
「軽蔑は従うための理由である」
と述べています。

つまり自分は従順に従いながらも、彼は誠実と信じたり、誠実であることを期待しなければいいのです。服従しているから合意していると勘違いはさせないこと。
そういう評価を受けれないと支配する必要に対して満足できないのが報われようとする支配者の弱みであるからのようです。善意でなされることであれば報われていたか、報われつつ行為されていて、見返りを求める発想も起こらないものですから。

それで「ありのまま」というのは、軽蔑してるなら軽蔑しつつ、同情するなら同情しつつ自然の気持ちのままでいても、自由な意志では楽観的でいて秩序を乱すような行為をしない、それを理想として「印象と気分と示す行為とは同一ではなくする」ということではないでしょうか。

複雑な儀式?ようで普段やってしまってることを逆にひっくり返すだけかもしれませんよね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/03/31 12:23

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