誕生日にもらった意外なもの

19世紀、世界情勢が変化するなか皇帝が治める国として繁栄したオスマン帝国と清。
この2つの国がとった政治的、経済的な対策、構成(変化) はなんですか?

よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

政治とその構成面だけ、簡単に。



どちらも統治する側の民族もしくは統治集団に対して、それとは異なる多民族(含異信仰)の国民がいた帝国だとおもいます。
19世紀、西洋が勢力を世界に拡張する時代において、それに対抗し、また追いつくために、国が1つにまとまり近代化を進めたいと思っていたあたり、オスマンと清の両国は似た状況にあったのではないでしょうか。
どちらも帝国衰退の中でしたが。

近代化は、州の連邦制をとったアメリカや、後に連邦国が分かれて独自性を打ち出した大英帝国など、小さな国家の形のほうが、モダンな制度や地域の独自色をつくって動きやすい傾向があります。また民衆の権利を認める民主化も、地域の民族や慣習の違いによって考え方の違いもあるので、1つのルールに従い国民を統治し押さえるという、帝国の形のままではむずかしかったのかもしれません。

オスマンも清も、異なる民族や考えの人々を1つの国民にまとめるという、国民国家の概念でまとまるには大きすぎたのかもしれません(日本はまとまりましたが)。

オスマンは共和制(国家に君主を置かない)に変わり、イスラムの伝統は残しつつも国教からははずし、イデオロギー(主義)ありきではなく、日本がやったように西欧を模した制度を導入しました。
清国は、当時から現在にいたるまで、実質的にたった1人の権力者がおり、対抗政党も(内戦時代は除いて)ありませんので、変わっていません。また、国民個人の権利にまだ目がいきませんし、認めていません。
(孫文も蒋介石も、中国人は力で抑えないとまとまらない、といったのは詭弁なのか、事実なのかはわからない)

中国は歴史的に一君万民の国と日本の歴史家はいいますが、そこには1人の王(皇帝/権力者)がおり、その王に忠誠を示す取り巻きがおり、その王を守る兵隊がいました。
現在も、胡錦濤 、共産党と全人代会議、党の私団である人民解放軍(国軍ではない)という、清王朝時代、清帝国時代と同じ形態をとっています。(新疆ウィグルの独立はは、中国は史上最後の「帝国」だと、批難しています)

中国に関しては、この形がくずれないかぎり、近代化はむずかしいでしょう。現在の沿海部のモダンな街並みは、外国がもちこんだ資本や技術が、単にそこで華いで見えているだけで、これも上海租界などの時代と変わっていないようにみえます(自分たちの実力による近代的風景ではないため)
つまり当時と構成は変わっては、いないのです。
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