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法事の意味について質問します。
僕は法事(祖父の49日)が無意味なものに思えてなりません。
死んだ人間が喜んだり悲しんだりするとは思えず、そもそも神も仏も
いるとは思えません。死んだ人間に感情があると思う方、神仏がいると思う方、根拠つきでご教授ください。
坊主に高いカネ払って(しかも僕の地元では楽器を使うとか何とかで同じ宗派の寺から坊主が3人来ます)お経をあげる意義など一つも思い浮かびません。ちなみに30分お経を上げるのにかかったお金は30万円でした。いい商売だと思います。聖職と呼ばれる宗教家がそんなボッタクリの料金を取っていいのでしょうか?「それが相場だ」「どこもそんなもんだ」以外の答えをお持ちの方、ぜひお教えください。
その後会食をしたのですが、「供養だ供養だ」と言って酒をがばがば飲み、騒ぎまくる大人を僕はみっともない、ああいう大人にはなりたくないと思いながら見ていました。そもそも酒を飲むことがなぜ供養になるのでしょうか?ちなみに死んだ祖父は酒が大嫌いでした。
お開きになった後、母と祖母に「死んだじいちゃんにはもう何もしてあげられないんだし、してあげたとしてもそれは結局は生きてる者の自己満足なんだから無駄だよ。それに会食だって確かに久しぶりに親戚が集まって楽しいかも知れないけど、節度の無い人たちが多すぎるし、そもそもじいちゃんは酒が大嫌いだったんだから供養になんかならないよ。親戚同士会いたいならそれぞれで連絡取り合って、『久しぶりに会おう』とか言って会えば良いんだよ。だから新盆と1周忌以降の行事は無駄だからやめよう」と言いました。
そしたら母が「たしかにあんたの言ってることは正しいけど、正論が正しいわけではないんだよ。あんたはまだ若いから分からないだろうけど」とわけのわからないことを言われました。
僕は理論的に正しいことを言っているつもりです。なのに正論として受け入れられないのは、実はその人がまだコドモで、理論的な思考ができないからだと思います。
以上、生意気だと思われると思いますが、ぜひ法事の意味、意義についてお教えください。

A 回答 (13件中1~10件)

>僕は理論的に正しいことを言っているつもりです。

なのに正論として受け入れられないのは、実はその人がまだコドモで、理論的な思考ができないからだと思います。

逆です。貴方がコドモだと思います。世間とはそういうものなのです。
それが理解できないのならアナタが参加しなければいいだけです。
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この回答へのお礼

さっそくお返事いただきありがとうございます。
大変恐縮ですが、「世間とはそういうものなのです」のような答えではなく、もう少し論理的に教えて下さるととてもうれしいです。
正直「世間なんてそんなもん」「それが常識」というたった一言の答えは親戚中から言われ続けて聞き飽きました。そのような答えは僕でも導き出せます。しかし、上の二つのようなあまり深く考えなくても答えられる答えではなく、できればもう少し理論的にお教えいただけると大変ありがたいです。
生意気にターボがかかってしまいすみませんでした。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/18 23:31

慣習って、理屈じゃないから、



>母が「たしかにあんたの言ってることは正しいけど、正論が正しいわけではないんだよ。あんたはまだ若いから分からないだろうけど」とわけのわからないことを言われました。

お母さんの言っていることの方が、正論なのです。
ただ、嫌ならば、法事だけでなく、お墓参りも同様に拒否していいのではないでしょうか。あまり、勧められませんが。

慣習は、理屈に起因していません。社会的に何度も確認して基盤になった振る舞いの束ですから、その社会(ある親族集団でもいいです)の流儀なのでしょう。自然発生的な伝統ですから、受け入れるか欠席するかしかありません。あなたが施主でなければ、あまり理屈を言わないで、平穏に行事が遂行できるように配慮するべきでしょう。

まあ、坊主は、たかり集団みたいなものだとは思いますが、たからせてあげるくらいの散財をしても、偲んでいるという対社会的なメッセージ機能があるものと推察します。冠婚葬祭は、見せるものですから、一種の見栄です。全然、合理的ではないですが、慣習と思って諦めるしかないです。勿論、参加しない自由もあると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>慣習は、理屈に起因していません。社会的に何度も確認して基盤になった振る舞いの束ですから、その社会(ある親族集団でもいいです)の流儀なのでしょう。自然発生的な伝統ですから、受け入れるか欠席するかしかありません。
お蔭様で葬儀などの慣習による影響を受けた行事が理屈で説明できないことはわかりました。
でも「正論だけど正しくない」という母の言葉が正しいというご意見がどうしても理解できません。論理的かつ正論ならば正論として受け入れるべきであり、それを受け入れられないというのが理解できないのです。
生意気な質問であるにもかかわらず丁寧に回答してくださり誠にありがとうございました。

お礼日時:2008/06/20 00:59

葬式仏教、


意味など考えず、やらないと罪悪感を感じ神仏を崇拝しないが冠婚葬祭を怠ると不幸になると信じている人、
年配の方に多いです。
また、心の中で手を合わせ一人で穏やかに見送ることができず、
酒食で騒ぎながら亡くなった人のことをあれこれ話すことによって慰められる人もいます。

やらないと気が済まない人、
集まりたい寂しい人、
の為、でしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
僕もそう思います。
うまく言葉にできなかったことを言葉にしてくださり感謝しています。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/20 01:01

 思う所を少しばかり述べさせていただきます。


>>法事の意味について質問します。
>>僕は法事(祖父の49日)が無意味なものに思えてなりません。
 
 まず、四十九日は法事ではありません。中陰勤行と呼ばれるものに分類され、百箇日法要から法事と呼ばれます。ご存知でしたか??
 また、四十九日まで七日間ごとにお勤めをされましたか??そもそも、四十九日だけやっても意味のないものです。これは日本に仏教伝来して以来、日本の土着の信仰と交じり合うことで造られていった説話をもとに行われます。簡単に申しますと、人は死にますと例外的なものは除いて、七人の裁判官によって裁判されるようです。その裁判は五戒を中心に審議されます。そして裁判官としては閻魔様が有名ですが、閻魔様を含めて七人の裁判官によって裁かれます。それは、初七日・奏広王(しんこうおう)、二七日・初江王(しょこうおう)、三七日・宋帝王(そうていおう)、四七日・五官王(ごかんおう)、五七日・閻魔王(えんまおう)、六七日・変成王(へんじょうおう)、七七日・泰山王(たいざんおう)の七人の裁判官になります。その裁判が滞りなく行われるように、そのたびに法要を行います。
 これは、ご親族が身内の死というなかなか乗り越えがたい大事と向かい合い乗り越えていくためのプロセスであるとも考えられます。心の変化というものと向かい合うきっかけとしての法要ですから、四十九日だけやっても意味はありません。ですから四十九日が意味がないというのは、四十九日しかしなかったから意味がないという言い方もできますね。


>>死んだ人間が喜んだり悲しんだりするとは思えず、そもそも神も仏もいるとは思えません。死んだ人間に感情があると思う方、神仏がいると思う方、根拠つきでご教授ください。

 そうですね。現代人は「死んだら無になる」「死んだら終わりだ」ということを声高らかに論じます。なるほど。では、あなたのおじいさんは終わってるんですね??ならば、何もする必要はありません。ご遺骨も、法的には「廃棄物」ですから。お墓なんてものは立てずに、そのまま捨ててしまえばいいでしょう。
 

>>坊主に高いカネ払って(しかも僕の地元では楽器を使うとか何とかで同じ宗派の寺から坊主が3人来ます)お経をあげる意義など一つも思い浮かびません。ちなみに30分お経を上げるのにかかったお金は30万円でした。いい商売だと思います。聖職と呼ばれる宗教家がそんなボッタクリの料金を取っていいのでしょうか?「それが相場だ」「どこもそんなもんだ」以外の答えをお持ちの方、ぜひお教えください。

 そうですね。ならば、どうですか??あなたが正しいおぼうさんになってみてはいかがでしょうか??お金を一銭ももらわずにしっかりとした法要を行うお坊様に。
 そのお寺さんの状況の詳しいことはわかりませんが、お寺も宗教法人ですから会社です。お坊さんも現代の職業分類で行けばサービス業に入ります。そのサービス業の会社を運営していくことを考えればお金がかかることも事実です。
 お寺だって建物ですからメンテナンスは必要ですし、木造建築の場合であるならなおのことです。震災などで被害を受けたお寺の様子がテレビでも流されていますが、あのままにしておいていいのであればお金を取る必要はありませんね。
 ちなみにお坊さんは税金を払っていないと思っておいでになるかもしれませんが、お坊さんも税金はちゃんと払ってますよ。お寺のお金の運営も檀家総代会、役員会、総会を通して承認されているはずですから。おかしいと思うのであれば、そういった内部の役職についてやるべき仕事をして、おかしいことはおかしいとのべたほうが筋が通ってますね。
 それとも、外から言っているだけで、中に入って変えるほどの気がないのですか??

 また宗教学的側面から言えば「聖職と呼ばれる宗教家がそんなボッタクリの料金を取っていいのでしょうか?」という感覚もまた他人任せにしておきたいという、日本人が古来からもつ宗教者への聖性の願望と見ることもできます。日本の古来の民間信仰の中において、神と交流できる者は厳しい自己抑制のすえになされるという信仰を持っています。しかも、それはムラの当番制で回ってくるものでありました。私の知る限りでは、田畑を耕すという普段の生活をしながら、食事制限や睡眠制限などを三年間行うというようなものもあります。しかし、そんなこと誰もやりたくありません。だからこそ、それを専門で行う職が作られていったのだといわれます。つまり日本には古来から宗教者は厳しい修行や苦行をしていなくてはならない、自分たちとは違ってすばらしい人でなくてはならないというものがあるようです。
 しかし仏教においてお釈迦様は「中道」を説いて厳しい修行や苦行には反対でしたが、西域、中国、朝鮮半島を経由して来るうちに、修行法がいろいろ整備され厳しい修行も復活していきます。その厳しい修行に日本人は飛びつきます。そういった厳しい修行に反対し念仏一行を説いた法然、親鸞、一遍などの浄土教の祖師たちがいても、日蓮が題目一行を説いても、未だに日本人の大半はお坊さんは厳しい修行をしていると思い込んでいます。その心は「自分は厳しい修行はしたくないけど、宗教者は厳しい修行をしていてほしい」という日本人が古来より持っていた民間信仰の心から日本人が脱却できていないことを示しています。
 けれども、仏教は「自覚の宗教」といわれることがあるように、自分自身がどうであるかを問います。他者を批判する前に自分はそれについて何かしているのかを問うべきでしょうね。

 
>>その後会食をしたのですが、「供養だ供養だ」と言って酒をがばがば飲み、騒ぎまくる大人を僕はみっともない、ああいう大人にはなりたくないと思いながら見ていました。そもそも酒を飲むことがなぜ供養になるのでしょうか?ちなみに死んだ祖父は酒が大嫌いでした。
 
 そうですね。おじいさんのことを思ってみんなで酒を飲まずに質素に食事でもすればいいですね。生きているお酒が好きなひとも、あなたのいう「喜んだり、悲しんだりしない、感情を持たない」人がお酒が嫌いだったからお酒を飲まないようにしたらいいですね。
 そうなると沖縄に人は不謹慎ですね。沖縄の人は死者が心配ないように、通夜は文字通り夜通し飲み明かすそうですよ。お墓参りもお墓の前で弁当広げて大宴会ですからね。
 さてどっちが供養なんですかね??故人はお酒を飲まなかったから、故人に合わせてお酒を飲まなければがそれを故人が見て喜んで供養になる。それとも、酒を飲み明かしてこんなに元気だよって見せてやるのが供養になる。
 あっ!?そうだ忘れていました。あなたにとって故人は「喜んだり、悲しんだり、感情を持たない」人なんだから、こんなこと論ずるほうがおかしいですね。あなたにとっては何をしても故人は何も感じないはずですからね。

>>僕は理論的に正しいことを言っているつもりです。なのに正論として受け入れられないのは、実はその人がまだコドモで、理論的な思考ができないからだと思います。
 これ自体が理論矛盾を含んでますね。「死んだ人間が喜んだり悲しんだりするとは思えず、そもそも神も仏もいるとは思えません。」と述べているのに、「そもそもじいちゃんは酒が大嫌いだったんだから供養になんかならないよ。」という。感情を持ち合わせていないのだから、酒を飲もうが何をしようが関係ないはずですよね。
 しかも、親戚一同を何の理由もなく集めるってのも難しいと思いますよ。有給をとるにしても理由の欄に「親戚での会食」じゃ休みなんて取りませんよ。「法事」であるからこそ集められるわけです。自分以外の人も来やすい理由を作ってあげるのも大人に必要なことだと思いますよ。


>>生意気だと思われると思いますが、ぜひ法事の意味、意義についてお教えください。

 さて、ここまでは質問者のご意見を基礎に述べてまいりました。ここからは私の思う法事の意義を記させていただきます。私は浄土真宗という宗派を信仰しておりますが、私の思う法事の意義をお話させていただきます。
 浄土真宗では亡くなった故人は阿弥陀仏に抱かれて極楽浄土という世界に生まれ、悟りを開き仏様となって私達のことをいつでも善い方に導いてくださっていると説かれます(浄土真宗では「還相回向」といいます)。今「千の風になって」という歌が流行っておるようですが、仏様になった方は「お墓の前でなかなでください」なんてけちなことは言わないはずです。お墓の前で泣いてくれたなら、「ありがとう」とその涙をぬぐう千の風になってくれます。朝になれば鳥になってと、いつでもどこでも私達を見守り導いてくれる。
 「人間死ぬときは独りだ」とよく言いますが、その死ぬときでさえ仏様は独りにしないとお経様に描かれている。それは生きているときはなおのことです。仏様となった故人は人生の苦しみの中にも悲しみの中にも、「お前を独りにゃせん。わしが支えてやる」と私達を支えてくださっている。そうやって、仏様は私たちを善い方に歩ませようとしてくださっているのだから一生懸命生き抜かなければならない。
 そして私のことを導いてくださる阿弥陀様をはじめとする諸仏諸菩薩、故人またはご先祖様方に私達は何を伝えなければならないか。「ありがとうございます」この思いを伝えなければならない、だからこそ浄土真宗の「南無阿弥陀仏」のお念仏は報恩感謝のお念仏(いただいたご恩に感謝するお念仏・ありがとうのお念仏)と説かれるのです。生きた人間同士であっても「ありがとう」を思っているだけでは伝わりません。だからこそ、「称名念仏」「口称念仏」という報恩感謝のお念仏を、「南無阿弥陀佛」と声に出して称えることが説かれるのです。
 けれども、悲しいかな人間というものは忘れる生き物です。たとえ、そのような支えに感謝する心があったとしても、時が経つとどうしても「南無阿弥陀佛」と伝えることを忘れてしまう。では、どうしたらいいか?人間というのは忘れると同時に思い出すという機能も持っています。何度も忘れて何度も思い出すんです。その思い出すきっかけ作りとして、法事という場は有効な手段だと思っています。
 
 偉そうなことをずらずら述べてまいりましたが、きっと納得できないと思います。なぜなら、こういった問題は自分自身で解決しなければ答えが出ませんから。それに、自分自身がぶつかりたい相手もはっきり分かっていないようにも見えますし。親戚なのか、お坊さんなのか、それとも自分自身の中にその相手がいるのか??
 自分は正しいんだと理論武装するということは、若い頃にはよくあることです。私も弟がいたもので喧嘩するとよくやりました。けれども、自分のことばかり考えて、他人のことを考えられない自分になっていくのを感じて私はやめました。
 ただ、最後にヒントだけ聖徳太子がおつくりになったといわれる「十七条憲法」の中の第十条にはこのような言葉があります。
「心のいかりを絶ち、おもてのいかりを捨てて、人の違うことを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執るところあり。かれ是とすれば、われ非とす。われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、たれかよく定むべけんや。」(心の中の怒りを絶って、表情に怒りを表してはいけない、他者が自分と意見が違うからといって怒ってはいけない。人にはみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのの考えというのをもっている。彼が正しいと考えることを、私はまちがっていると考え、私が正しいと考えることを、彼はまちがっていると考える。私がかならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に弱い独りの凡夫にすぎないのである。正しいかまちがっているかの道理を、誰が絶対的に判定できるだろうか。)
 たぶん、これがあなたのお母様の言いたかったことのように思います。
 えらそうに書き連ねましたが、悪しからず。読みにくい駄文乱文でありますが、どうぞご容赦ください。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>49日は法事ではありません
僕の誤解でした。
しかし、あの世があって裁判があって・・・のお話はとても理論的とは思えません。このような作り話を信じているのですか?
>何もする必要はありません。ご遺骨も、法的には「廃棄物」ですから~  その通りです。祖父は死に、無となりました。もう何をしてあげても祖父には届きません。遺骨にご大層な安置場所はいりません。動物が死んで自然の一部になるように、散骨をして自然に還せば良いのです。
>ならば、どうですか??あなたが正しいおぼうさんに~
なぜこういう論調になるのですか?坊さんがお経を唱えると言う一種のサービスをして生計を立てる事までを批判した覚えはありません。1円も取るなと言っているのではなく、30分30万円はどう考えても高すぎやしませんか?と言っているのです。今度寺に行ったら改善するよう言ってみます。
>あなたにとって故人は「喜んだり、悲しんだり、感情を持たない」人なんだから~
ご理解頂けて幸いです。死んだ人間の魂が私たちを見守ってくれて時には力になってくれて…という不合理なお話は理解できません。よろしければ魂の存在や魂の活動を僕に作り話抜きで論理的に教えてください。楽しみにしています。
>これ自体が理論矛盾を含んでますね。~
これは僕の言葉足らずでした。母や祖母には「死んだ人間は喜んだり悲しんだりしない。」という理論が通じないことがわかっていたので、矛盾してはいますが「酒が嫌いだったんだから~供養になんかならない」という論法を使ったのです。それと親戚の主張である「酒を飲むことが供養だ」に反論するために祖父の酒嫌いを例にしたのです。確かに質問を書くときに言葉が足りませんでしたが、以上のような経緯があったのです。ご理解戴ければ幸いです。
>しかも、親戚一同を何の理由もなく集めるってのも難しいと~
親戚一同を何の理由も無く集める…なんてこと質問文に書きましたっけ?会いたいなら会いたい人同士で連絡を取り合って会えば良いと書いただけです。それに有給云々についてですが別に有給なんてとらなくても休みの日に会ったり、遠方の場合は長期休暇にでも遊びに行けばいいのです。親戚一同を集める必要はありません。
法事の根拠について色々と書いて下さっていますが、結局は作り話、神話の域を脱していません。よければ反論どうぞ。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/06/20 02:42

貴方の考えは間違えてませんよ。

法事に意味などありませんし、ましてや、死んだ人間が喜ぶわけもありません。
でも、もしお坊さんが、それなりの人で、貴方の人生において忘れられないような言葉を言ったとしたら、どうでしょうか?
法事をやってよかった、お坊さんが来てくれてよかった、おじいさんにいい縁を頂いたとは、思えないでしょうか?
私は、法事をするのに死んだ人が喜ぶとも、救われるとも思ってないですが、法事は大好きですよ。貴方と同じ事はわかってますが、見方は違うでしょ?なぜだと思いますか?意味など求めてないからです。
死んだ人間がいようと、いまいと関係ないのです。
それでも、法事ぐらいはしてあげたいと言う「心」を大事にしていきたいからです。お墓参りもそうです。あそこには抜け殻があるだけです。
でも、お骨を置いてるから、大事にしていきたいし、お参りもしたいのですよ。意味などいりません。そういう「心」一つで十分です。
でも、貴方の場合は法事が問題ではなくて、お坊さんのほうに問題があると思います。お坊さんは来てくれるだけでも、うれしいと思われる人であってほしいですね。
亡くなった人を思う気持ちも、生きてる人を思う気持ちも同じものです。無差別殺人で殺された人に、花束をあげても何にもなりません。もちろん意味などありません。
でも、もっ行かずにはおれないという「思い」は痛いほどわかります。
そういう「心」を大事にしてきたのが本来の宗教と呼ばれるものです。
葬式、法事その他も、その同じ「思い」からでてきたものです。
もし、何もしていかなければ、そういう「心」も次の時代に伝わりません。質の悪いお坊さんや、お酒を飲んで乱れる人はさておいて、亡くなった人でさえも、大事にしていきましょ。こういう時代だからこそね・・・・。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
残念ながら今までお会いしてよかったと思えるお坊さんにお会いしたことはありません。我が家のお寺のお坊さんも、「戒名はお金で買うものではありません」とか「お布施等はお心次第で」と言った次の瞬間に戒名やお布施の相場表(信士ならこれくらい、居士ならこれくらい・・・といった値段表)を出してくる人ですから。
法事に意味を求めず、死者を思う心を大切にする発想はなんとなくわかる気がします。でも今の僕にはやはり意味の無いことをする意味はわかりませんし、死んだ人間にはもう何もしてあげられないという発想を捨てることもできません。どうしても理論的に意義の無いことをする意味がわからないのです。
もう少し歳をとって理屈より感情が台頭し始めてきたときにあなたのご意見が理解できるのかも知れません。
この度はありがとうございました。
寺の坊さんの話よりもあなたの考えに触れられたことのほうがずっと価値のあることだと思います。

お礼日時:2008/06/20 01:18

>でも「正論だけど正しくない」という母の言葉が正しいというご意見がどうしても理解できません。

論理的かつ正論ならば正論として受け入れるべきであり、それを受け入れられないというのが理解できないのです。

質問者様のお母様が、正しいと思う理由は、次のように( )内の言葉を補うと分かります。つまり、こう表現したかったと推察します。「(論理的に)正論(を展開しているよう)だけど、(あなた以外の親族の心情を理解していないから)正しくない」ということです。

>死んだ人間が喜んだり悲しんだりするとは思えず
確かに、そのとおりですが、でも、生きていた時のように喜んでもらいたい

>そもそも神も仏もいるとは思えません。
確かに、そのとおりですが、でも、神道の方は置いといて、苦を乗り越えた仏様のようになってもらいたい

>そもそも酒を飲むことがなぜ供養になるのでしょうか?ちなみに死んだ祖父は酒が大嫌いでした。
確かに、そのとおりですが、でも、みんなで成仏を祝いたいし、祝いのかたちとして酒宴を理解してほしい

>何もしてあげられないんだし、してあげたとしてもそれは結局は生きてる者の自己満足なんだから無駄だよ。
確かに、そのとおりですが、でも、生きてる者の側が故人の死をこの行事で確認し自分に言い聞かせるために何かしたいという切なる思いを理解してほしい

そのようなことが推察できます。細部では、違っているかもしれませんが、おおよそこのような思いではないかと考えます。

理解できる時期がきた時に、分かるのでしょうね。蛇足かもしれませんが、このように、補足させていただきます。
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。
おかげさまで人間には不合理であっても感情に流されてしてしまう(行動してしまう)ことがあり、思い込んだほうが幸せだからそう思い込みたい・・・といった願望があることがわかりました。僕以外の親族にはそういうところがあり、僕にはないということも理解できました。
親族が抱いている気持ちを理解できる日が来るかもしれないので、あなたのお言葉を忘れずにおきます。
お教えありがとうございました。

お礼日時:2008/06/20 12:54

 またお邪魔します。

私あなたみたいな人大好きなんですよ。日本人は無宗教者は多いんですが、無神論者は少ないので貴重な存在ですねぇ。こうやってお話しするの面白くて仕方がないです。
 では話に入ります。
>>しかし、あの世があって裁判があって・・・のお話はとても理論的とは思えません。このような作り話を信じているのですか?
 
 はい!信じてますよ。けれども、本当にあの世があるかは私は行った事ないですから知りません。輪廻の思想を考えれば行った事あるんでしょうが、記憶にないからこれも知らないのと同じですね。
 では、何を信じているのか?人間の知識や知恵の集積を信じているといえばいいでしょうかね。たとえば、あなたは昔話を聞かされた記憶はありませんか??
「昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に、おばあさんが川で洗濯をしておると、川の上流のほうからどんぶらこどんぶらこ」
と何か流れてくる。何が流れてくるでしょう?と聞けば、大体の日本人は「桃」と答えるかと思います。その桃から生まれた桃太郎が犬猿雉のお供を連れて鬼が島に鬼退治に行くというお話です。
 この物語に登場する犬猿雉にはちゃんと意味があるってご存知ですか??犬は「三日飼えば主人のことを忘れない」といわれるほど義理堅い動物といわれます。ですから犬は「忠義」をあらわします。猿は「猿知恵」という言葉があるくらいですから、「知恵」をあらわします。雉は「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉がありますが、雉はケーンと鳴いてから飛び立つのだそうです。だから、猟師は雉が鳴いたほうを見れば簡単に打ち落とせる。けれどもその姿を別の人が見たときに隠れて飛び立てばいいのに雉は「卑怯な手を使わず正々堂々たち向かっている」とみました。ですから雉は「勇気」をあらわすといわれます。しかも、私達が知っている『桃太郎』の原型になった話は、鎌倉後期から室町初期にかけて成立しています。簡単に言えば武士の時代です。
 つまり『桃太郎』という物語は、武士の男の子が「忠義」「知恵」「勇気」というものを身に着けて立派な大侍になってほしいという願いがこめられています。だからこそ、端午の節句には今でも鎧兜や金太郎とともに桃太郎が飾られる風習があるのです。
 ではこの桃太郎の犬猿雉がそんな意味を持っているということをご存知でしたか??もし知らなかったとしても、「『桃太郎』犬猿雉の三匹が人間の言葉を話すわけがないから、非科学的だしとても理論的とは思えないから私は信じない。」という人がいたら、「理屈じゃなくて屁理屈をこねる人だな」「おかしなことに引っかかる人だな」と思いませんか??
 宗教とて同じことが言えると思います。四十九日法要や法事に至るまで、人間の知識の集積です。象徴化された物語によって語られていますが、その物語から何を読み取るかを忘れて、表面に映し出された物語しか読み取ろうとしない人間が増えているようですね。日本人のコミニケーション能力低下は神話・説話の放棄と少なからず関係があるという説もあるそうですよ。言葉の表面だけ受け止めて「相手はそれによって何を伝えようとしているか?」これを考えられなくなっているということでしょうね。
 それに、物語として相手にそういったことを伝えるのは、現在の脳科学においても有効な手立てだと思いますよ。記憶は海馬に蓄積されると考えられていましたが、感情の伴う記憶は扁桃核に記憶されるそうです。この感情に訴えかけるには理論よりも、物語として記憶させるほうが有効だったのだと思いますよ。 ですから、
>>あの世があって裁判があって・・・のお話はとても理論的とは思えません。このような作り話を信じているのですか?
 はい、信じます。何是なら、そこに何かを伝えようとする人の思いが詰まっているからです。


>>動物が死んで自然の一部になるように、散骨をして自然に還せば良いのです。

 これもすでに宗教的な考えですね。日本古来のアミニズムの信仰や、仏教も基本的には遺骨は自然に帰しますし、ネイティブアメリカン(アメリカインディアン)に見られるグレーとスピリッツの思想なんかもありますね。なぜ自然に帰す必要があるのか??それ自体もすでに人間は宗教的な意義づけや神話を持っていますから、それも神話の域を脱していません。
 無神論を決めるなら、宗教者以上に宗教を理解しないと難しいですよ。


>>なぜこういう論調になるのですか?坊さんがお経を唱えると言う一種のサービスをして生計を立てる事までを批判した覚えはありません。1円も取るなと言っているのではなく、30分30万円はどう考えても高すぎやしませんか?と言っているのです。今度寺に行ったら改善するよう言ってみます。

 そうねぇ。うちもそれぐらいいただければ安泰なんですがね。
 ただ、内情を知らずに「今度寺に行ったら改善するよう言ってみます。」というのは暴力的ですね。私のしっているお寺では、お檀家の数も少なくお寺の経営だけではどうにもならないので学校の先生をやりながらお寺の仕事をしている人もいますよ。月曜日から金曜日は学校、土日はお寺、非常にハードなようで一度黄色くなって倒れたことがあるそうですが、すぐに退院して今は何とかやっているようです。
>>しかも僕の地元では楽器を使うとか何とかで同じ宗派の寺から坊主が3人来ます
という理由が提示されていますから、できる限り正式な形で行ってご親族に恥をかかせないようにしようとしておいでになるという言い方もできます。
 または、今保護を受けていてお金がない。というお宅からは一銭もとっていないお寺さんかもしれませんよ。そうなれば、払えるお宅は払うというのもおかしいことではないと思いますよ。
 ですから、私自身それぐらいもらえたらいいなぁと思っていますし、「批判をするな。」ということではありません。お寺には世話人や役員というお寺の運営をボランティアで支える檀家さんがいます。ご存知ですか??お寺を善くしていく為の地味な仕事はしたくない。けれども「俺はボーズに言ってやったぜ」というパフォーマンスだけはしたい。ということに疑問を感じないのかなと思っただけです。


>>ご理解頂けて幸いです。死んだ人間の魂が私たちを見守ってくれて時には力になってくれて…という不合理なお話は理解できません。よろしければ魂の存在や魂の活動を僕に作り話抜きで論理的に教えてください。楽しみにしています。
 私は魂があるなんて一言も申しておりませんよ。仏教を開いたお釈迦様も魂を否定します。私はお浄土で仏様になってくださったかたがたが、見守ってくださっていると思っているだけです。だってそれだけで嬉しいんだもん。
>>という不合理なお話は理解できません。
といわれてしまうでしょうが、不合理なんですねぇ。けれども人間て不合理ですもの。人を好きになることも、何かを面白いと感じることも、理屈抜きでしょうからね。不合理を合理的に説明しようとする方が不合理ですねぇ。
 私はそうやって見守ってくれるんだと思うと楽しく毎日が送れます。たしかに、苦しいときもありますし悲しいときもありますが、そういう人たちがいると思うと、何とか生きなちゃあかんなぁ。その人たちを悲しませんように生きたいなと思う。そうすると、ありがたくって「南無阿弥陀佛」とお念仏したくなっちゃう。それだけですよ。別にそれを誰かに押し付けようってことでもありませんし、私はそれで気持ちよく生きられます。 合理主義的な視点から見ればそれを不合理と呼ぶのでしょうが、私は不合理な人間ですからかみ合わない合理的な手法をもって不合理を解決しようとは思いませんよ。
 また、先ほど扁桃核の話が出ましたが「いじめを受けると心だけでなく脳内の扁桃核にも傷が生じる 」というようなことが実証されてきています。ですから扁桃核は心の一部であると考えられます。この、心の一部に働きかけることができるからこそ哲学者ニーチェは「仏教は唯一の実証的宗教で優れた精神衛生法である」といったのではないでしょうか。また、アインシュタインも「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは仏教です。」合理主義的な探求を旨とする現代科学にかけているものをおぎなえるのは仏教であるとおっしゃってっていますよ。

>>法事の根拠について色々と書いて下さっていますが、結局は作り話、神話の域を脱していません。よければ反論どうぞ。
 作り話や神話の域を脱していない。というのはいい表現ですね。ほめ言葉です。最近できたての大脳新皮質にしか訴えかけることのできない理論よりも、その内側の脳に働きかけることができる物語でありたいですね。
合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

桃太郎はただの童話なんですから非科学的であっても害はなく、信じる必要もありません。3匹の動物に意味があるそうですが、いわゆる「男の理想像」なんて親が日々教えればいいのです。信じる人は信じれば良いし信じない人がいてもまったく違和感を感じません。童話はただそれで良いのです。
それに対し宗教は作り話を信者に教え込み、それに伴って色々と行事をさせるから厄介です。作り話なら作り話らしく「死んだおじいちゃんは成仏しました。めでたしめでたし」で終わればいいのです。生きている人間が定期的に行事をする必要はありません。
〉人間の知識や知恵の集積
〉何かを伝えようとする人の思い
が宗教的な作り話には凝縮しているそうですが、「知識や知恵の集積」「何か」とは具体的に何なのでしょうか?別に49日や法事という形でまだるっこしく伝える必要はないと思います。
また、散骨して自然に還すことが宗教的だとおっしゃいますが、僕は宗教的観点から散骨し、自然に帰そうとしているわけではありません。遺骨を土に返して食物連鎖など自然の連鎖の一部にすればいいという生態学的、環境学的な発想なのです。誤解のないようお願いします。
〉お檀家の数も少なくお寺の経営だけではどうにもならないので~
日本では職業の自由が認められているので坊さんになろうと教員になろうと自由です。誰かに強制されたわけではなく、自分で坊主の道を選んだならそれはその人の勝手です。坊主が商売にならないならやめればいいのです。檀家が少ない、経済的に不自由な檀家さんがいるという理由でそのツケを既存の檀家に押し付けないでほしいです。
それに僕は寺を良くしようなんてまったく思っていません。仏の弟子になるため…など意味不明な理由で(仏さんってお金取るんですね)戒名料を何十万円とふんだくり、30分のお経に30万円を請求することがあまりにも理不尽で納得できないだけです。誰かが言わなければいつまでたっても変わりません。
〉 私は魂があるなんて~
失礼しました。また誤解でした。では「お浄土」「仏様」の存在はどのように説明なさるのでしょうか?これらの存在を合理的に説明できない限り作り話で信者の頭のどこに働きかけたとしても、冷静になって分析してみればすぐに不合理と判断されるでしょう。

お礼日時:2008/06/20 15:55

 いやー楽しい楽しい♪♪私の研究テーマの一つなんで助かります。


>>それに対し宗教は作り話を信者に教え込み、それに伴って色々と行事をさせるから厄介です。作り話なら作り話らしく「死んだおじいちゃんは成仏しました。めでたしめでたし」で終わればいいのです。生きている人間が定期的に行事をする必要はありません。

 その通り!!よく分かっているじゃないですかぁ?何か勘違いされているようですが、それでいいんですよぉ。何度も言いますが、仏教は「自覚の宗教」と呼ばれます。強制的に来いということはないと思いますよ。それにお釈迦様は仏教徒にならなくても、仏教的な生活をすることは可能であると説いていますしね。

 ちなみに定期的に集まるのは民族宗教学者の柳田國男氏によれば、まず「死霊」となり、この死霊の段階では生者に災いをもたらすと考えます。ですからその死霊を鎮めるために定期的に供養します(これも仏教に取り込まれて、一周忌や○○回忌という法事がいとなまれるようになります)。この供養の期間は地方地方でばらつきがあり、30年から50年くらいの差があります。そして、それが終わると「祖霊」という子孫に繁栄をもたらす神様になるという風習です。そしてそういった、霊たちは山の中や海の中という当時の人たちにとっての未知の空間(これを「あの世」といいます)に住むとされて、時たま帰ってきて子孫たちとひと時を過ごすという趣旨で祭りが催されていたようです。その信仰と、先に述べました『盂蘭盆経』がまた日本でブレンドされて、今のお盆が出来上がります。つまり、「法事」にしても「お盆」にしても仏教の行事の傘を借りていますが、日本独特の信仰ということもできます。
 

>>宗教的な作り話には凝縮しているそうですが、「知識や知恵の集積」「何か」とは具体的に何なのでしょうか?別に49日や法事という形でまだるっこしく伝える必要はないと思います。
 
 おお!?だんだん仏教が分かってきましたねぇ。実は仏教徒なんじゃないですか??その通り別にそのような伝え方をする必要はありません。けれども、そのような伝え方もあっていいはずですよね??

>>また、散骨して自然に還すことが宗教的だとおっしゃいますが、僕は宗教的観点から散骨し、自然に帰そうとしているわけではありません。遺骨を土に返して食物連鎖など自然の連鎖の一部にすればいいという生態学的、環境学的な発想なのです。誤解のないようお願いします。

 何をおっしゃいますか??その環境学的な発想も非常に仏教的ですねぇ。お釈迦様もガンジス川に流しちゃってといってますし、日本においては親鸞聖人は加茂川の魚の餌にしちゃってって言ってますからね。ちなみに、別に仏教にそのような教義があるわけではありませんから。
 また、仏教以前においても「輪廻からの解脱」という思想は重要な思想の一つでした。ここで説かれる輪廻説は「六道輪廻」ではなく、「五火説」とされています。五火とは、
1・人が死んで火葬されると霊魂はまず月に入ります。
2・そして、雨となって月(天)から地に降り注ぎます。
3・その霊魂を含んだ雨が、植物に吸収され食物になります。
4・その植物を男性が食べると精子となって、
5・女性の体内に入って再生します。
これが、「五火説」です。これも言ってみれば当時の環境学なんでしょうね。


>>誰かが言わなければいつまでたっても変わりません。
 ほうほう。お坊さんが嫌いで言っているわけじゃないんですね??さきほど、
>>坊さんがお経を唱えると言う一種のサービスをして生計を立てる事までを批判した覚えはありません
という所で気がついておくべきでした。宗教や宗教儀礼には否定的であるけれども、それを続けて行かせてあげるために私が注意してやろうというのですね。
 やさしい・・やさしすぎる。本当にそういうのが嫌ならば、改善点を注意もせずにほって置くのが滅びていく一番の方法だと思います。にもかかわらず、否定的なものに対しても改善点を教えてくださるなんてほんとにすばらしい。恥ずかしながら、私には真似できませんね。やっぱりお坊さんになりませんか?絶対向いてると思いますよ。


>>では「お浄土」「仏様」の存在はどのように説明なさるのでしょうか?これらの存在を合理的に説明できない限り作り話で信者の頭のどこに働きかけたとしても、冷静になって分析してみればすぐに不合理と判断されるでしょう。

 不合理な人間なので不合理でかまわないんだけどなぁ。脳で言えば合理的なことを考える大脳新皮質では人は動かないみたいですよ。扁桃核とか情動をつかさどる部分が最終的な行動を決めるみたいですからね。
 私は有るんですけど、あなたには無い。いくらあなたが無いといっても私には有るわけですし、私みたいなのは生きてる間は仏さんが見守ってくれていつもありがとうって思いながら生きて、いつかは死ななきゃならんわけですからその未知の領域にぶつかったときには怖くないぞって極楽浄土って世界につれてってもらえる思ってると、なんとなく嬉しく生きられるわけですからね。それに、仏さんを悲しませないような生き方をしようって思いますし。それじゃ駄目ですかね??
 では逆にお訊ねいたしますが??何を根拠にそういった浄土であるとか仏であるとかを否定されているのでしょうか??浄土や仏がいない理由を教えてくださいな??あべこべに質問させていただきます。
 あと、明日友人の結婚式で返事遅れますので、ご容赦くださいな。
 合掌 南無阿弥陀佛
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この回答へのお礼

>だんだん仏教が分かってきましたねぇ。実は仏教徒なんじゃないですか??
あなたそんなに僕を仏教徒にしたいんですか?僕のどこが仏教をわかってるんですか?
柳田氏が死霊云々についても語っていますが、僕は死霊も信じません。存在を裏付ける合理的な理由がなにも無いからです。
シャカや親鸞が遺骨遺灰を川に流したそうですが、それは仏教的な行為ではなくその人個人の考え方なのでは?
>別に仏教にそのような教義があるわけではありませんから。
あなたもご自分でこうおっしゃってますし。つまり散骨は宗教的行為とは言い切れないのではないかと思います。五火説について書いてらっしゃいますがこれも内容に合理的な根拠が見当たらず、ただのオハナシに過ぎないでしょう。
>>>誰かが言わなければいつまでたっても変わりません。
 ほうほう。お坊さんが嫌いで言っているわけじゃないんですね??さきほど、
>>坊さんがお経を唱えると言う一種のサービスをして生計を立てる事までを批判した覚えはありません
という所で気がついておくべきでした。宗教や宗教儀礼には否定的であるけれども、それを続けて行かせてあげるために私が注意してやろうというのですね。
 やさしい・・やさしすぎる。本当にそういうのが嫌ならば、改善点を注意もせずにほって置くのが滅びていく一番の方法だと思います。にもかかわらず、否定的なものに対しても改善点を教えてくださるなんてほんとにすばらしい。恥ずかしながら、私には真似できませんね。
・・・別に寺や仏教を存続させるために一言注意してやろうと言うのではありません。ただ30分30万円というボッタクリ料金を払い続けたくないだけです。
>では逆にお訊ねいたしますが??何を根拠にそういった浄土であるとか仏であるとかを否定されているのでしょうか??浄土や仏がいない理由を教えてくださいな??あべこべに質問させていただきます。

僕は合理的な人間なので「合理的な根拠がなければその理論は成立しない・・・」
これだけで充分なんだけどなぁ。
あっ!!!浄土や仏が存在する合理的な根拠が無くて答えに困って、それであべこべ質問したんですか!?なるほど、合理性を追求されると困る商売も大変ですな。
僕みたいな合理的理由がないと物事を受け入れられない人間は仏教徒にはなれそうにありません。

お礼日時:2008/06/20 20:05

法事や一周忌といったものは、日本では当たり前のように行われている慣習のひとつです。

それぞれの家の宗派によって違いはあれど、行うことが常識、と思っている人が大多数なのです。これを正面から拒否してしまうと、人間関係も、円滑にいかなくなってしまうのです。法事も人付き合いのひとつです。くだらない、と思われるかもしれませんが、これひとつで、それから一生、親戚同士の付き合いに溝ができることもあるのです。
実際、以前親戚の叔父の葬式があった時、宗教上の理由で出席しない親族が一家族ありましたが、皆から散々に悪口を言われ、それっきり、親戚同士での行事には一切、呼ばれなくなり、付き合いすらなくなったそうです。
他人を納得させることは容易ではありません。
もはや行うことが常識となっている行事であれば、なおさらです。

質問者さんはとても素直な方なのだと思います。
私も心の中ではバカらしいと思っても、それは表に出さず、形だけは参加しています。
人の世は、所詮は人間関係で成り立っています。
なるべくなら、当たりさわりがないほうが、生きやすいから、皆、仕方がなくとも、出席しているのだと思います。
もちろん、供養したい、と思いながら参加する真面目な方もいらっしゃると思います。

先祖の供養については、参考URLのページに書かれている事が個人的に一番しっくりくるような気がします。もちろん、私個人の見解です。

参考URL:http://www.interq.or.jp/mercury/w22525/13senzo-n …
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 たびたび失礼します。


>>あっ!!!浄土や仏が存在する合理的な根拠が無くて答えに困って、それであべこべ質問したんですか!?なるほど、合理性を追求されると困る商売も大変ですな。
 いいえ。私は仏教は合理的思考を好む人、無心論者に向いている宗教だと考えています。そもそも、お釈迦様はあの世については無記つまりすべての人が納得できる答えは出せない。というスタンスを取っています。科学が語ろうが、宗教が語ろうがすべての人が共有する答えはなく、「死んだら無になる」「死んだら浄土へ行く」「死んだら輪廻する」これはどれも正解ではありません。けれども、少なくとも死と向き合うことは今をどう生きるかということに直結した問いであるということがいえます。
  ですから、しっかりと死に向き合い自分の生き様として「来世なんてない」という選択をする人を私は尊敬します。しかし、単に「現代の知性から来世があるとは思えない。」なんて言う意見は非常に想像力と読み取ろうとする能力の欠如が感じられます。日本の宇宙物理学者で太陽物理学、高エネルギー宇宙物理学の世界的な権威。神奈川大学名誉教授。理学博士桜井邦朋氏は「私達はつい知性というものを過大評価しがちだが、実は知性とか論理といったものほどいい加減なものはないのである。極端な話「不変の真理」などというものは科学の正解にはどこにもないのである」とおっしゃっています。本当に科学的な思考をする人は未知に対しては謙虚であり、科学では論証できないから無いという立場はとられないと思います。死とは出会うものであり、いまだ経験していない死について「無になるんだ」と結論をでしていまうは根拠を提出することのできていないんだからぜんぜん理論的じゃないといえます。私とて、死に対しては「保留」です。けれども、どれが正解であるともいえませんが、帰るべき場所がある支えてくれる人がいるという人生の選択をしてみては?というのが浄土の趣旨です。

 さて、先に質問させていただいた理由ですが「合理的」と言う言葉の意味が同じでないと感じたからです。私の思う合理的とは「目的に対して無駄がないこと」をさします。
 ニーチェは「仏教は唯一の実証的宗教で優れた精神衛生法である」と捕らえましたが、「精神衛生」というのが目的であると捕らえたわけです。
 さて、脳科学の世界においても人間は理性ではなく情動に動かされると言うことが分かってきました。つまり、情動に働きかけなければ人は結局動かないと言うことです。そこで仏教は扁桃核という情動や心に直結する部分に残る方法を経験から編み出していきます。解剖学脳科学の権威である養老孟司氏も「『唯脳論』を書いてから二、三年してから「阿含経典」の解説を読んでいたら、私の書きたいことがみんな書いてあった」と述べているように、脳科学などと言う言葉がない時代から仏教は人の脳の構造を経験から読み取っていたと考えられます。
 では、その情動に働きかける方法の一つとして「浄土」を中心とした物語があります。私はそれを選択しました。私からこの考えを取ったら自暴自棄のネガティブ野郎になってるでしょうね。帰るべき場所があり、支えてくれる人たちがいると思うから私はなんだか楽しく毎日を送っている。「精神衛生」という目的のために脳の構造を理解し、その有効的な手段として物語を作り、人の「精神衛生」を守る。非常に合理的だと思うのですが??
 本当に合理的なことを考える人であれば、目的のために有効な手段であればどのような手段でも使うんじゃないですか?目的のためには宗教であろうが科学であろうが有効な手段であれば使うというほうが合理的だと思いますよ。それに、「精神衛生」を守ると言う目的のためにも、「浄土」以外の方法も仏教にはあります。ですから、一つの方法を押し付けると言う考えは本来仏教にはなく、自分に合うものを選択すると言うのが仏教的な考えですね。しかも、相手にあった選択を、私と違うから間違っていると言うのも非常に傲慢な態度と言わざるを得ません。
ですから、
>>別に49日や法事という形でまだるっこしく伝える必要はないと思います。
いうのを読んだときに、四十九日や法事なんてやらない仏教を選択するんだろうなと思ったまでです。別にそれでもいいわけですから??あなたの感性にあうものを選択すればいいんです。非常に合理的でしょ?
そして、四十九日や法事の有る仏教がいいと思っている人の選択も尊重すべきですね。自分自身は参加しなければいいわけですし。
>>・・・別に寺や仏教を存続させるために一言注意してやろうと言うのではありません。ただ30分30万円というボッタクリ料金を払い続けたくないだけです。
これについても、無神論者であるならまったく寺とかかわらないと言う選択もできるわけです。そうすれば一番簡単にお金を払わないで済みます。にもかかわらず寺にかかわろうとし続けることにも疑問を覚えます。
 いかがですか??私はこういった点から仏教は非常に合理的だと思いますよ。仏教は基本的に浄土教であったとしても「信じれば救われる」と言う類のものではありません。メインラインとしては、「心をトレーニングして、自分と言うフィルターなしに物事を見地し、他者との共存をはかり、健やかな人生を送る」と言うものです。健やかな人生を送るも何通りもあり、自分に合うものを見付だせば言い訳です。ね、無神論者や合理的思考をする人にはもってこいだと思いますが?いかがですか?
合掌 南無阿弥陀佛
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