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久留米藩で勤皇の志士だった、真木和泉について、
教えてください。また、参考の書籍があればご教示
願います。

A 回答 (2件)

吉川弘文館の人物叢書で


真木和泉 山口宗之/著
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/05857960
がありますので、これを読むのが最も確実です。
市町村の図書館なら通常所蔵しています。
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この回答へのお礼

お返事遅れてすみません。
今度、都心の書店で探してみます。
真木和泉守は、当時で180cm近い巨躯だったと
聞いています。詳細はこの本で調べます。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/09/02 06:52

 真木和泉については、ネットで検索すればある程度の情報を得ることが出来るでしょうが、殊に記して置くべき点として、



 当時としては晩年期に至って突如として世に出でて活躍し燃え尽きた勤皇の志士であるということです。

 元は九州の久留米の水天宮の神主であった身が、會澤正志斎から水戸学を学んで以来、楠木正成公を尊敬し毎年五月二十五日には楠公を祭っていました。真木は、楠公が建武の中興に功を成したことより、尊氏との戦いで一族を率いて孤軍奮闘した忠節に感激したのでした。
 
 四十歳の時に久留米の半騒動に関連して十年あまり幽閉させられましたが、くじけることなく一心に学問に励み、その間に起きた安政の大獄で勤皇の志士たちが粛清されたにもかかわらず彼は幽閉の身であったが故に弾圧を逃れることが出来ました。そして五十歳になったとき、機至れりと脱して薩摩に至り、更には京都へ赴き松陰亡き後の尊王運動の先頭に立ちました。1864年(元治元年・文久四年)長州藩兵また松陰門下生とともに京都に攻め入りましたが、幕府軍との戦いに敗れ天王山にて自決して果てました。(禁門の変) そのとき五十二歳であったという事ですから、正に老躯に鞭打って燃えた晩年であったといえます。

 こう書くと簡単ですが、分別ある年齢でありながら十年余りも世間から隔絶されても初志を忘れず、いったん緩急あるときは家庭を顧みず信ずる道に邁進して行った生き方は現代では到底出来ないところではないでしょうか。
 幕末期をふりかえってみると、身分や年齢に関らず、強靭な意志を持ってすれば、自分の手で世の中を動かすことが出来たそんな時代であったといえると思います。

 参考資料 平泉澄『少年日本史』時事通信社 70年
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この回答へのお礼

こんばんは。
yatiyochan様の軍事史、及び近代日本史における、
ご造詣の深さに感嘆いたしております。

いずれもキーパーソンは、文学博士であり、九州大学
名誉教授、皇学館大学・久留米工業大学名誉教授の
山口宗之氏ですよね。

佐賀県多良町出身の歴史学者。
第七高等学校ご出身で、旧制高等学校についての
著書も多く書かれています。

平泉先生のお弟子さんで、橋本左内が九大での卒論のテーマ
だったとか。現在、福岡県久留米市でご健在だそうです。
今年の8月で、80歳を迎えられました。

お礼日時:2008/09/03 21:07

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