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薩摩藩上屋敷があった、いまの東京・三田に記念碑があります。
この絵で勝海舟は、刀を左側に置いています。
武士が対面するときは、敵意がないことを示すために、刀は右側に置くと聞いたように思いますが、そうではないのでしょうか。

「記念碑」
http://lonpari.blog.shinobi.jp/Entry/186/

同じ絵と思います。
http://www.z-flag.jp/blog/archives/2008/03/post_ …

A 回答 (5件)

状況はどうだったのでしょう


 緊迫絶対絶命 の一言でしょう
かりに 絵のように武士の習いに反して刀を右に置かず左だったとしたら いつでも切りますよといっているわけです 勝が左利きだったかどうかはわかりませんが 武士の左利きご法度ですからね まずありえないでしょう だとしたら 一応敵としての会談といえるのでしょうか
当時 勝の動きは以下のようでした
 慶喜の心が恭順に傾いて、江戸城を出て上野の寛永寺で謹慎
東海道を一気に兵を進めてきた官軍、陸軍総裁となった勝の肩には幕府と江戸百万市民の運命がかかっていました。そのため勝がすぐにした仕事は、これまで幕府に肩入れをし、協力的であったフランスとの 従来の契約を解除してその協力を辞退しました。先ず、フランスの援助を絶って、フランスを中立の立場におく、次に薩長を支持してきた英国に働きかけて、薩摩藩と英国との関係の力を弱める、むしろ徳川方に有利に動くように働きかけました。フランスとイギリスの間で内戦回避の重要性を説きましたね
 本格的な内戦が始まれば、日本の国の内乱をついて欧米の強国が襲いかかり、日本が植民地化される、これは清の例があります。近代日本の最大の国難という事態がすぐ目の前にある。猶予がない。そこで勝は薩長軍の総督である西郷に直接談判に及びます その前にフランスやイギリスに色々と裏工作をして、手を回していきます、この工作のお陰でイギリスは薩長軍の攻撃に待ったをかけました。3月9日、勝は密かに幕臣の山岡鉄舟を西郷の下に遣わして、総攻撃の中止を訴え、江戸で西郷を待ちました そこには和解の七項目を出したのですが、それを確認して海舟のところに山岡が帰ってきました。しかし3月15日が官軍の江戸城総攻撃の予定日であることは、依然として既定の事実です、続々と官軍は江戸の周辺に迫ってきていますが 
海舟は江戸城総攻撃の直前まで満を持して動きませんでした。その間に、もし西郷との談判が決裂した場合、を予想して三つの準備をしています。
 その一つとして、将軍慶喜を英国に亡命させる。そのためにはパークスを通じて亡命受け入れの了解を取付ける
 第二は江戸を焼け野原にさせる。その準備として、予め江戸城下の火消組の親分たち・博徒・無頼の衆らにまで呼びかけて 組織をつくり、合図があったら火を点ける、というゲリラ戦術も用意しています
 三番目としては、江戸城にいる皇女和宮・天璋院の命を助けるために、房州の舟を隅田川の河口に集める。イザとなったら千葉木更津当たりまで疎開させる用意をしておく、そういう三つの準備をした上で、3月13日、西郷と第一回の会見が高輪の薩摩屋敷で行われたわけです だから刀が左だったんだと思います  しかし、この日の勝は、ただ皇女和宮のことだけを話して、あとは何も話をしなかったようです というのは、勝の見積りでは、その日の官軍の参謀木梨精一郎が横浜でイギリス公使に会っている。その結果の報告を西郷へ報告するはずだと、予想どおり木梨精一郎からの英公使の意見に、西郷はひっくりしています、何故なら、パークスが江戸の戦争に反対しだしたからです でも薩摩藩の蔵屋敷での西郷と二回目の会見では 西郷もパークスのことは一言も出しません。勝の優勢勝ちです。山岡が駿府から持ち帰った七ヶ条はここですべて改正されて、徳川方に有利になりました。14日、両者の和解は成立し、西郷は15日に迫っていた江戸城総攻撃の中止を命じ、総督府へ使いを出してこの一件が収まりました。
 
池上本門寺の松涛園がありますが、慶応4(1868)年、そこでも勝と西郷により江戸城明け渡しの話し合いがされています。本門寺の記録に残っています。歴史上では、薩摩藩の屋敷で13日、14日の両日の談判になっています つまり刀の置き方ひとつも勝の大芝居ではなかったかと どうでしょうか
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この回答へのお礼

詳しく解説してくださってありがとうございます。
ご回答から重要なヒントを得ました。
鉄舟が西郷を駿府に尋ねた場合はどうなのか、調べました。
この場合は、鉄舟は西郷にお願いに参上している立場なので、刀を右側に置いています。

http://yasuike.pr-blog.jp/Entry/32/

さらに調べますと、岩手県の「シニアネット」というサイトで「西郷と勝の会見」の絵を見つけました。
この絵では、勝は刀を左背後に、西郷は左手元に置いています。

http://isnhp.web.infoseek.co.jp/bunkasalon/42kai …

また、鹿児島県のHPでは、西郷南洲顕彰館にある「会見の模型」を紹介しています。
ここでは、刀を左手元に置いています。

http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/rekishi/b …

刀をどこに置いたのか事実を知りませんが、武士の作法を守るか、自分の決意を相手に知らしめるために作法を逆に取るか、勝の心理を理解する上で、ご回答は大変役立ちました。

お礼日時:2009/01/07 10:45

 回答番号:No.4:


 口幅ったいのですが、歴史書や歴史、人生に事実や真理を確認することはほとんど無理ではないでしょうか?
 自分についても、社会や国・民族についても、その歴史とは、解釈と編集は最初であり、最後であり、事実の確定はコンクリートにちりばめた砂利みたいです。
 紡ぎ、創造、解釈、編纂ではないかと存じます。
 勝海舟も西郷南洲も問われれば、時には片言隻句を口に上ぼしたかもしれませんが、殊更自らは語る性格でもないし、そんな心境にはいなかったろうと存じます。
 結局は、ほとんどが周囲か後世の解釈と編纂ではないでしょうか?
 画家が武士の作法に無知であったとすれば、当該の絵は致命的です。 全て考えることは無いのですね。
 一応、知識があったと仮定しての、私の理解と解釈を陳述いたしました。
 ご質問者と異なり、この絵を多くの方が目にしてきていながら、指摘されるまで、少しも気づくことが無かったのは、一定の効果を狙って左に置いてもあまり、注意を引かなかったということですね。
 そうすると画家も見てきた人も、両方ともそのことに頓着しなかった。ということも頷ける話ですね。
 つまり頓着無かった。効果も狙わなかった。そして事実と合致するかどうかもあまり問題とされてこなかった。
 ということになるかもしれませんね。
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この回答へのお礼

お付き合いありがとうございます。
私は、1枚の絵でこれだけ楽しめたのですから満足です。
私は、自己紹介にも書いていますように、想像するのが大好きです。
この歴史カテを学問として見ているのではなく、楽しみながら気づいたことを質問したのであって、事実を追求しようなんて、まったく思っていません。
ただ、絵巻物を見るときの心構えとして、例えば題材が平安時代の事象であっても、絵巻物の制作年代が鎌倉期であれば、衣装や小物は鎌倉期の物が出てくることがあるので、留意するようにと聞いたことがあります。
武士の作法云々もこの習慣の延長での考えで、krya1998様の真剣なご回答に対して申し訳なく思います。

お礼日時:2009/01/09 20:42

 回答番号:No.3補足:


 絵の作家の表現方法としての意図でなく、事実として、勝海舟が左に刀をおいていたとしたら、その場と経緯の状況や事実の如何にもよりましょうが、多分西郷隆盛の相手を見る見方と対応も異なってきているだろうし、その後のことの運びに多少の異同が生じるでしょう。
 私は作家の、表現工夫だと存じます。その工夫のことの評論は避けますが。
 事実として左においていたとしたら、回答番号:No.3の前半の通りでして、作家もそれを表現しているということになると存じます。
 左に置く必然性は、本人で無い限りは事情を知ることができません。
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この回答へのお礼

質問に採り上げた絵は、歴史の本でたびたび見ましたので、人物の服装や部屋の造作などは信憑性のあるものだと思っていました。
ところが、この絵が描かれた時期がおそらく1926年前後と思われますので、それなら武士の作法も忘れられていたのではないかと思って質問しました。
海舟は、会見の様子を自筆で残していますが、刀を書いていません。
側近の者たちに話をするときに、さらっと書いたようで、二人の位置関係が分かる程度です。
海舟は、この会見の様子を多くの人に話しているはずですから、聞いた人が何かに書き残してくれているかも知れません。
しかし、刀の位置が分かる可能性は低いですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/09 09:12

 絵の作家は決して知識のない方ではないでしょうね。


 そして絵から判断できることは、ご回答の方が仰せのように、西郷隆盛と勝海舟の間合いと関係は尋常の状況ではないでしょうね。

 勝海舟は、加之、薩摩の陪臣とみて、対しているのだぞ、ということを認識させようとしているかもしれませんね。
 そして藩主のお庭の人ではないかみているぞ、という意思も表示しているかもしれませんね。

 応えによってはいつでも即応の行為をするつもりだ、ということなのかもしれませんね。

 ともかく尋常な場と雰囲気でないことを示す絵なのかもしれませんね。
 単に尋常に右に置いていたら、普通の場、対峙としてしかみえないですよね。科白を書くわけでも、説明や解説をすることも無いのですから。
 刀を左に置くことの他に、容易ならないことを示す手段は、あまりかんがえられないからかも知れませんね。
 両人の表情といってもこれは、とり方ですからね。
 えぇっ!おかしいぞと思わせる工夫かも知れませんね。

 個人としては、勝海舟も西郷南洲隆盛も、ものが分かっているでしょうから、そしてそんなところで、勝海舟も立ち回りはしないでしょうから、きちんと右においての会見であったと存じます。
 南洲翁は大体、実務や剣術はからっきしのかたですし、唐紙の向こうに誰かをおいているなどということも無かったでしょうからね。
 絵は創作であると思っています。異様さ、非尋常さを訴えるための工夫でしょうね。
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がんばりましたね 歴史というのは過去の事ですので 昨日の事実も


一分一秒正確にとはいかなくなるものですよね
ましてや それが 勝者敗者となれば 都合によって
いいように書き換えられる性格も合わせもっています
絵が西郷側から描かれたものか ということも 頭の中に入れておかなければなりませんし どこのだれが描いたのかということです
でも 刀の置き位置に 目がいかれたことに 正直驚きました
平成の時代から幕末に下ったのでは その絵の表す瞬間に立ち会えないものだということも また歴史のおもしろさといえるんだなあと。。。 
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この回答へのお礼

作家ならどんなドラマに仕立てるのでしょうか。

勝が先に座って待っており、西郷が入ってきたとき、左に置いた刀を左後ろにずらすとすれば、心理的にはドラマティックになると思います。
武力による抵抗はしない、あるいはいまの日本はお互い武力で解決しているような状況にないという無言のメッセージを送ったという設定です。

再度のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/01/08 13:31

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