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悟りを開くと死を超越できると聞いたのですが、
死を超越するとはどういうことなのでしょうか?

A 回答 (10件)

辞書によると悟りとは欲望や執着などの煩悩(ぼんのう)のはたらきである迷妄を去って、真理を会得することとあります。



真理を知ることこそが死を超越すると言うことなのではないでしょうか?したがって死を超越するということは真理を知ると言うことだとおもいます。
例えば死に対する真理を知ることにより、死とはどのようなもので、なぜ恐れるに相応しく、なぜ誰もが受け入れねばならぬものなのかという疑問から開放されるのではないでしょうか?

例えば、死を超越する-死を経験する(死は経験できないが)、不死である-のいずれに当てはまるものではなく、死は生との表裏一体、死と言う現象が生じない存在は生命体ではなく生命活動を行わない物質であり、生きることが死ぬことを伴うことの根拠を論理上理解することではなく心の奥深い場所で強烈に「知る」ことなのではないのでしょうか?

「人の死」を私たちは至る所で「体験」します。
しかし「自分の死」だけは決して「体験」することはできないのです。
死の訪れはそのまま生からの離脱です。
生を抹消された生命体が一体なにを「体験」するのでしょう・・

そういったもろもろの、真理を心の奥深いところで知ることができたことを「悟り」と人々が命名したのでしょう。
死は決して論理上で克服できるものではありません。

赤ちゃんの「産声」というその表現を決して我々は言葉で表すことはできません。そう、その「産声」は我々の全身で感じ取ること以外その表現を説明できる方法がないのです。

死を超越するために悟りを開きましょう(私の悟りとはなにも仏教だけに限っておりません)。

(言葉では説明しつくせる議題ではないような気がしますね。もちろん私の言葉足らずではあるのですが^^;)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>そういったもろもろの、真理を心の奥深いところで知ることができたことを「悟り」と人々が命名したのでしょう。
>死は決して論理上で克服できるものではありません。

「悟り」は「心の奥深いところで知ること」であって「論理上で克服できるものではない」ということなら、知識を詰め込むこと・論理をこねくり回すことに意味はないという解釈でいいでしょうか?
釈迦自身も、知識を詰め込むこと・論理をこねくり回すことを奨励していたようには思えませんので、その意味ではyurikagoさんの言われていることは頷ける部分が多いです。
悟りを得るために基礎知識として仏教用語を習得しなければならないなどと、釈迦が言っていたとは到底思えないところですから(^^;
「悟り」を理解するには難解な仏教用語の習得が必要不可欠と思われている人がもし仮にいたとしたら、私はその人は大きな勘違いをしているように思えてならないところです(^^;
釈迦は説法を行う時に平易な言葉を用いていると思いますし、難解な仏教用語などというものは、釈迦の真意を理解していない後世の人間が理解しているふりをしたいがためにでっちあげたものである場合が多々あると感じています。
ですので、「悟り」についての理解度と、難解な仏教用語を使いこなすことは負の相関関係があるような気がしてならないところです。
そういった意味ではyurikagoさんの「悟り」についての理解度はかなり高いように感じられました。

お礼日時:2003/02/06 21:08

#3に書き込んだ者です。

大分意見出ましたね。
理論をこねくり回す、そうですね。無意味ですね。
私は基本的に仏教徒です。
釈尊はこんな問答自体無意味な事と、諭したように思います。

>生まれ変わる実体というのは霊魂のようなものということでしょうか?
>そういう実体自体が無いことを悟ることが「悟りを開く」という考え方は ないのでしょうか?

霊魂は私は存在しないと考えます。
凡夫に説明する時便宜上、考案された考えでしょう。

>「永遠の生を授かった人」というのは、普段はどこで何をしているのでし ょうか?
そんなもの凡夫に理解できるわけありません。

禅は只座れと説きます。座して座して真理に近づく。
但ししっかりした指導者に付いて貰います。
でないと、間違った思念を悟りと勘違いしないように。
現在世界中で生存している、悟った人は誰も居ません。

霊魂も来世も何も存在しない、且つ議論することの無意味さを諭されたのが、釈尊です。

仏教がこれだけ多種に分派したのも、聡い人には理論で説明し、学の無い人には(昔は皆そうですから)分かり易く例えで諭されました。
聞いた人が自分なりに解釈したが為に、私はこう聞いた
唯我是聞の言葉も生まれました。

別に私は新興宗教の勧誘ではないですよ(笑)

理解出来たと思った時点で、真理はとうざかります。
悟りに知識は必要か?
先に書いた座禅も、正しい知識があって初めて体感出来ます。

相当に wild_catさんは教養が高いと思いますので、知識を得てください。
山に登るとき地図がないと困るように、悟りに近づきたければ有る程度の知識は必要です。
出ないと、間違った『擬似悟り』に凝り固まります。
それを釈尊の最も忌み嫌ったものです。
『唯識』辺りが適当と考えますが。(私的偏見ですが)

死ねば全て無に帰します。
生きている過程が大事と私は考えます。
誰も悟れず、誰も理解できません。無意味な事です。
悩むから進歩があるのも事実ですが。
お気に触ったら御容赦願います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>釈尊はこんな問答自体無意味な事と、諭したように思います。

仮に無意味であると判断したなら、なぜ無意味であるかを釈迦なら説明できるでしょう。
しかしそれをできないでただ闇雲に無意味とだけ言う人がもしいたとしたら、私は、その人は回答できないことを質問された苛立ちの責任を質問者に押し付けたいがゆえに、その質問自体を低劣なものと位置づけることで、回答できない己の非力さを糊塗しようと企てる、そんな意識構造を想像してしまいます。
もちろんpostpapaさんはそうではないので誤解のないように(^^;  postpapaさんはただ単に釈迦の言葉の受け売りで「無意味」と言ってられるのでなく、「無意味」である理由についても理解されていることは明白ですので。

>>「永遠の生を授かった人」というのは、普段はどこで何をしているのでしょうか?
>そんなもの凡夫に理解できるわけありません。

私はそれほど人生経験が豊かな方ではないですが(20才ですが)、面識のない方から発せられた質問に対して「そんなもの」という表現を使うようなことはまず考えられません。
「そんなもの」という表現の中には相手を侮蔑するニュアンスが含まれていると判断されうるからです。しかしそのようなニュアンスを感じない方もいると思いますので、このあたりは生活環境の違いからもたらされる認識の相違と理解します。
私の親がもし、私がそのような言葉を全く面識のない方に使うような場面を目にしたなら、恐らく私のことを厳しく叱責することが予想されます。
ようするに私はそのような教育を親から受けてきましたが、もしかしたらそのような教育自体が間違っていたかも知れないと今ここで感じた次第です。

>現在世界中で生存している、悟った人は誰も居ません。

どうしてそう断言できるのでしょう??
悟った人がみな教祖として立ち振る舞うということではないと思いますが。
悟ったとしても表舞台にはあえて出ようとしない方はいますよ。
老子などがその良い例だと思いますが。
実在を疑問視する説があることは御存知だと思います。

>聡い人には理論で説明し

悟りは理論で理解できるようなものではないですから、このようなことはなかったでしょう(^^;

>学の無い人には(昔は皆そうですから)分かり易く例えで諭されました。

まあ、小学生レベルと高校生レベルでは話す内容を変えるといったその程度の内容の差異はあったとしても、基本的には平易な言葉でしか語ることはできなかったはずです。
悟りは論理的に説明できるものではないからです。知識も無力です。知識や論理が悟るために役立つというなら、年がら年中仏教の研究をしている学者さんが一番悟りやすい立場にいることになるはずですが、そんなことは全く関係ないことは火を見るよりも明らかだと思います。

悟りが論理で説明されうるものなら、釈迦自身が悟りの道筋について書を残していると思うのですが、そのようなものは残っていませんよね?
それは、悟りというものが論理的に説明することが不可能であることを釈迦自身が理解していたからに他ならないからでしょう。

>山に登るとき地図がないと困るように、悟りに近づきたければ有る程度の知識は必要です。

それはpostpapaさんの誤った思い込みというふうに理解させて頂きます。
山登りと悟りなど比較すること自体無理があると思いますが(^^;

>『唯識』辺りが適当と考えますが。(私的偏見ですが)

そのような論理をこねくり回して言葉遊びをしているような書物は百害あって一利なしでしょう。
そのようなものより、クリシュナムルティでも読まれた方がはるかに有益ですよ。
クリシュナムルティは全て平易な言葉で悟りが何たるかを分からせるヒントを与えてくれます。
あまりにも平易過ぎるので知識偏重主義者は見向きもしないでしょうが、「唯識」よりも百万倍は悟りについて分からせてくれますよ。
知識偏重主義者はとかく小難しい仏教用語を駆使しては、「こっちはこんな難しいことを理解してるんだ。おまえさんも悟りを語るにはちっとは難しい本の一つでも読んできな」という態度を取られますが、そんな時私はいつも微笑ましく思ってしまっています(^^;
もちろんpostpapaさんにはそのような態度は微塵も感じられません(^^;

>死ねば全て無に帰します。
>生きている過程が大事と私は考えます。

私的には相当誤った理解をされていると思いますので、以下の文をお読みになって多少なりとも誤りに気づかれることを切に願うところです。

「自己」に到達するなどありえない。「自己」が到達されるものだとすれば、その「自己」はいまここになく、いつか獲得されるものであることを意味する。新たに得られるものはまた失われもする。つまり、それは永遠のものではない。永遠のものでないものは努力して求めるに値しない。だから、自己は到達されないとわたしはいうのだ。あなたが自己なのである。あなたはすでに〔それ〕なのだ。

                          ラマナ・マハリシ

お礼日時:2003/02/09 04:15

今までの経緯を拝見したうえでのアドバイスですが、仏教と関連づけたうえでの回答を求めているのであれば、まず少しご自分で仏教書を読むなりしてある程度体系的な基礎学習をし、解消できる範囲の疑問は解決したうえで、どうしても残る疑問をここに再度投稿されてはどうかなと思います。



そもそも死生観というものは実存に関わるもので、個々人の生きている有り様と不可分です。いきおい「悟り」とか「死を超越する」という言葉が意味するものは、極めて主観的で個人的な心的状態に関係してくるでしょう。となれば当然、その理解や解釈には今までの回答群に端的に現れているように、大きな隔たりや違いが出てくることになって、却って質問者氏の論点をあたら広げてしまい、収拾に向かうどころか混乱を招くことにもなりかねないと思えるからです。

特に個人的に問題だと思えるのは、ネットでの文言のやりとりですからある程度やむを得ないとは言え、かなり観念的なやりとりが続いているように見受けられることです。ありふれた言い方になりますが、「悟り」であれ「超越」であれ、抽象的な真実として宙に浮いているわけでなく、個人の行、実践の中にしか体得できないものだ、ということは釈尊が様々の原始経典のなかで説いていることです。
また受け手の側にある程度の言葉の蓄積がないと、仏教的な言葉が誤解されたまま受け取られてしまい、それによって考え方が固まってしまうと大きな問題になることも心配されます。

ナーガールジュナと中論のことが少し前の回答に出ていましたが、その内容は中論の内容が反映されたものでありません。
中論自体は「縁起」を発展させて「空」を突き詰めようとした書物で、ほぼ全編にわたって「言語」が「空」であることを説こうとしています。勝義諦、世俗諦という言葉は確かに出てきますが、例えば世俗諦は「言語表現による真理」と意味づけてあります。
つまり、ナーガールジュナは「言語も空なのだが、我々はその空である言語による表現を通じてしか(世俗諦によってしか)本当の真理(勝義諦)に達することができない」ということを言いたいがためにニ諦を分別したに過ぎません。
要するに、世俗諦=世俗に理解されやすい方便で説かれた法、では全くないのです。そもそも中論は徹底的に空を説くわけで、そんなことを書く意味は全くありません。
実際、世俗諦の「世俗」はvyavaharaといいますが、これは「言語習慣」という意味もあります。そもそも中論の中で、青目が「言説は世俗なり」「世俗に基づかないと究極真理を説けない」と何度もはっきり書いているのです。
(念の為に書きますが、これはこの回答者氏の回答全体を否定または中傷するために記しているのではありません。またこの点について議論をふっかけているわけでは全くありません。そもそも明白すぎて論議するポイントが存在しません。敢えていえば仏教に通じた方でも間違い得るという一例として挙げさせてもらいました)

ちょっと脇にそれたかも知れませんが、是非ある程度の受け皿というか見解の枠組みを構築して頂いたうえで意見を求めることが、色々な意味で長期的にメリットがあると私には思えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

アドバイスに関しては拝聴させて頂きました。
ただ私は「悟り」というものを実現する上で知識や論理は全く意味をなさないものと受け止めていますので、「悟り」に関する質疑をする上でも事前知識などは不要と考えています。
また、この「教えて!goo」はある種の公的な空間であると思っていますが、個々の質問に関しては私的な空間であると認識しています。
よって個々の質問はあくまでも質問者が個人的な疑問を解消するためになされているのであって、質問者の質問を出発点としてみんなで分かりやすく議論をするという空間ではないと認識しています(そういうことを指摘されているのではないと思いますが念のために言及させてもらいました)。
ですので、旗から見ると質疑が混乱しているように思えても、質問している当人にとってはそのようなことは全くなく有意義な展開と受け止めている場合もあります。今もそうです。なので心配はご無用です。

お礼日時:2003/02/06 21:48

 


これは、何を質問されているのか、質問文が簡潔でよく分からないとも言えますが、一応、仏教での「悟り」における「死の超越」のことだとすると、色々な考えや解釈があります。

No.4 の方の回答にある仏教の教えは、これは原始仏教の基本的な教えの要約で、仏教の基本には、このような、「諸行無常、諸法無我」という根本テーゼがあります。

しかし、原始仏教の経典である『スッタニパータ』などを見ると、かなり複雑な話が出てきます。釈迦牟尼は、色々なことを説いたのであり、「方便」でそういうことを説いたので、その「真意は」というと、これこれであるという風に考えると、No.4 の方の説明のような原始仏教の基本教義が出てきます。

しかし、また有名な話として、釈迦は、「死後の世界はあるのか」というような質問に対し、「何も答えなかった」とされます。これを、「無記」ともいうのですが、もし、原始仏教の基本教義の通りだと、「死後の世界はない……あると思うのは、迷妄に囚われているからで、「無明(根本的無知)」から脱すれば、そのことは、はっきりと分かる」という回答があっても良いはずです。

ある仏教学者が言っていたのか、別の人が言っていたのか忘れましたが、かなり有名な人の文章のなかで、釈迦は「死後の世界」があるかどうか、どう考えていたのか、ということについて、「釈迦自身、正確なことは知らなかったのではないか」と記されていた記憶があります。

釈迦自身、死後の世界や死後の生があるのかないのか、確実には知らなかったというのです。これは、「無記」という釈迦の態度と一致します。孔子は、「神や霊などについて、(私は確かな経験的知識がないので)語ることはしない」と述べています。儒教は、現世的・経験主義的であるので、当然こういうことになります。

一方、釈迦の原始仏教も、実は、現世的・経験主義的なのです。釈迦の教えは、多分、「私は、死後の世界があるかどうか、知らない。しかし、経験として知っている「この私」は、時々刻々変化して行く私であり、「私という不変な実体」はないというのが真理である。死というものもまた、この止むことない「変化」の過程であって、やがて、死が訪れるというのは、明日太陽がまた昇るというのと同じように、真理である。死は誰にもあるもので、我々は時々刻々、死んでは生まれているとも言えるのであり、「死」とはそういうもので、これを恐れるのは、無知(無明)によるものである」こういうことなのでしょう。

「死後の世界・死後の生」は「ない」とは釈迦牟尼の教えには、「ない」とわたしは思います。般若思想で明確に形ができあがる「空の思想」は、「死後の生はある」と語っているはずです。それは、「六道輪廻がある」などの「方便的虚偽」とは違って、釈迦の考えた、この世界のありようを、形而上学的水準まで探求すると出てくる、一つの展望です。

「色即是空、空即是色」という教えでは、死後は、人は「空」となります。これは、「無となる」とは違うのです。「空」という形で、死後も存在を続けるのです。どんな存在かというのは、理論的には出てきますが、実際は、死んでみないと分かりません。

「輪廻」というのは、仏教思想でも、まだ解けていないというか、分からないことだと思います。しかし、「六道輪廻」は、これは迷信または虚妄で、現世のありようをプロジェクション(投射)したもので、仏教の死後の世界の教えは、こういうものが本当ではありません。

大乗仏教の初期の大成者で、その基盤思想を築いた人が、ナーガールジュナ(龍樹)ですが、彼は、「勝義諦」と「世俗諦」という二つの真理のレヴェルを区別しました。世俗諦は、常識的な世間一般の真理で、例えば、死後、六道を輪廻するなどは、世俗諦です。しかし、勝義諦、つまり、深遠な智慧を通じて得られる、玄義としての真理においては、「六道輪廻などない」ということになります。つまり、方便に過ぎないのです。

「悟りによって、死を超越する」とは、釈迦牟尼の教えや、仏教の勝義諦的な基本の考え方では、この世界の真のありようを、妄想や臆見(思いこみ)に囚われず眺めれば、死は自然なことであり、日々、時々刻々、我々が経験している世界のありようと同じ現象であり、恐れるようなものではない、と確かに認識し、すなわち、無明を脱して、「真理の境地」に達することで、死を理解し、死とは何かが分からないで、恐れたり、妄想を抱いたりする状態から、脱する、超越する、という意味でしょう。

しかし、死後はどうなるのか、やはり、経験しないと、分からないということがあります。「死の後は無」というのは釈迦の教えではありませんし、仏教の教えでもありません。

わたし個人は、後の唯識仏教の展望を、釈迦も晩年は持っていたのではないかと思いますし、「死後の世界」について、釈迦には、ある程度の確信や予見があったのではないかと思います。

釈迦は、死を含めて、「苦」から脱するため、若くして修行を行ったのですが、苦行では、悟りは開けないと判断し、途中から、瞑想という形で、「論理的に世界や死などを、深く考える」ことを通じて、世界のありようの真理などに到達します。つまり「悟った」ということになります。

しかし、釈迦は晩年になって、再び、苦行(というか、ヨーガ的修行)の重要性を認めます。釈迦は、ヨーガ的修行・瞑想を通じて、死後の世界のヴィジョンが得られ、また、この世で、「良く生きること」が、死後の生において重要な意味を持つということを悟ったのだとも言えます。

釈迦は五十年間、教えを説きますが、段々深い教えを説くようになり、その最後の最高の教えが、『法華経』に記されているというのは、法華経信徒の主張ですが、最初の三十台の悟り以外に、それを越える悟りを、釈迦が開いたという可能性は大いにあります。

従って、原始仏教の教えでは、上に述べたように、「死とは何か」を、この世のありようから了解し、死は恐れることではなく、自然な過程であると、悟るということが、悟りを通じて、死を超越する、の意味でしょう。

しかし、それ以外に、ヨーガ的修行・瞑想を通じて、死後の生のイメージが直観できるのであり、「悟りを開いた者」は、六道輪廻ではないですが、何か、輪廻の世界から脱して、「永遠の魂の故郷」へと帰って行くという展望があった可能性があります。

ニルヴァーナとは、「空となる」ということだけでなく、「永遠の霊の故郷」という意味がある可能性があります。それはどういう状態かは、悟りを開かなければ、分からないことだとも言えるでしょう。死後の生は、経験できないのであり、それを、生きている状態で、「直観経験」するということが、悟りの一つの形だとも言えます。

このような意味で、死の向こうを、「直観経験」することで、「死を超越する」という意味になるのだとも言えます。(臨死体験との関係はたいへん複雑です。わたしは、個人的見解として、臨死体験のどこかの部分に、死後の生の「直観経験」が含まれている可能性を考えます。しかし、臨死体験の内容の大部分は、大脳の構成した「夢」「幻覚」だというのが妥当だとも思います)。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>「論理的に世界や死などを、深く考える」ことを通じて、世界のありようの真理などに到達します。つまり「悟った」ということになります。

世界のありようの真理に到達する手段として「論理」を用いているということは、釈迦はある種の哲学者ということでしょうか?
「論理」を用いて世界のありようの真理に到達しようとすることは数多の哲学者が試みていることと思いますが、そのような人達の中にも悟りを開くこと(=世界のありようの真理に到達すること)ができた人はいたのだろうかと疑問を感じました。

>死後の生は、経験できないのであり、それを、生きている状態で、「直観経験」するということが、悟りの一つの形だとも言えます。

ということは、「直観経験」という悟りを開いた後に死ぬ場合と、生涯「直観経験」ができずに死ぬ場合とでは、死後の状況に変わりはないという解釈でいいのでしょうか?

お礼日時:2003/02/06 05:46

再びNo.2に書き込んだbobstarです。

これは自分の考えなのですが

>自殺という手段で死を受け入れた人も悟りを開いているということでしょうか?
生きていると苦しいことしかないと感じてそんな苦しみから解放されたいと思って死に希望を抱いて自殺した人もいると思いますので……。

釈迦の場合は全く逆だったんじゃないかと思います。
死ぬのが怖かった。いつも死ぬことの恐怖に悩まされていたので、
その恐怖をなくしたかったのだとおもいます。
そのころは生きていける保障のない世の中でしたから。
そこで釈迦は考えに考え抜いたのだとおもいますよ。
自分が今生きていること、いずれは死ぬこと、今生きている世の中こと。etc...

だから多分死んだほうが楽だなんて言ったら釈迦に怒られますよ。よりよく生きるために死の恐怖をなくそうとしたんですから。
あ、でもこれは学問とは全然関係ないのでbobstarの一意見としてみてくださいね。では!
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>釈迦の場合は全く逆だったんじゃないかと思います。
>死ぬのが怖かった。いつも死ぬことの恐怖に悩まされていたので、
>その恐怖をなくしたかったのだとおもいます。

なるほど、ようするに釈迦は死の恐怖を無くすための理屈を考え出したということかも知れないですね。

お礼日時:2003/02/05 17:34

 お坊さんの死に際をいろいろ調べたらどうですか。

例えば仙涯和尚は「死にたくない」といって死んだらしいです。

 もひとつ、タレントのヒロミっていますよね。彼は事故で死にかけたことがあるらしいのですけど、臨死体験を通じて死は怖くない、みたいに感じたらしいとテレビで見ました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>お坊さんの死に際をいろいろ調べたらどうですか。

お坊さんと呼ばれている人はみな悟りを開いているということでしょうか?
また、死を怖くないと思っている人はイコール悟りを開いているということになるのでしょうか?

お礼日時:2003/02/05 14:13

えーと、どこから始めたら良いでしょうか・・



この場合の「超越」は、悟りを開いたら、死ななくて済むということではありません。
悟りを開いて仏になろうと、釈迦がそうであったように、人は死ぬのです。
簡単に言うと、悟りで得られる「死の超越」というのは、死という現象が、
苦悩すべきものでも、恐れるべきものでもなくなるということです。

何故、「死」は、私たちにとって、苦悩であり、恐ろしいものなのでしょうか?
仏教では、苦悩が生まれる原因を以下のように考えています。

1.私たちは、実際は違うのに、この世のものが永続的なものであってほしいと願っているから。
2.また、それらを自分の所有物であると勘違いして、執着しているから。

では、もう少し具体的に当てはめてみましょう。

1.「生」は永続的なものではないのに、私たちはずっと生きようと欲する。
2.「生」というのは、単なる自然現象であって、自分の所有物ではないのに、
自分のものであると勘違いして固執する。

私たちは、「生」が永続的であり、自分の所有物である、という全くの迷妄駆られていて、
だから、それを一切否定する「死」を恐れるのですね。

では、「悟り」とは何でしょうか? 釈迦の教えの骨子を要約してみます。

1.諸々のものはすべて変化するもので、永遠に変わらぬものはない。
2.そしてまた、諸々のものは、自分のものではない。
3.すべてが変転してゆくもので、また、自分のものではないにもかかわらず、
それを不変と信じ込み、自分の自由になるものだと信ず込むから、苦悩するのだ。
4.諸々のものが、全て変化するものであり、また一切が決して自分でも、
自分のものではないことを知ったとき、人は、「死」を含めたあらゆる苦悩から
解放される。(なぜなら、「苦悩」の原因を根本から、取り去ったから)

4が「悟り」と呼ばれるものです。これで、「死の超越」の意味もおわかり頂けたかと。

以上が、釈迦の教えなのですが、仏教も、他の宗教と同じく色々と変化していきます。
特に中国仏教や、それをもろに受けた日本仏教は、「浄土」みたいな「永遠」に近い概念
(正しく、釈迦が否定したところのもの!)なんかが出てきまして、
「死の超越=永遠の生」のような、神仙思想めいた教えまででてきて、
紛らわしいったらありゃしないです。
仏教を学ばれるなら、まず原点=釈迦の教えから学ばれると良いかと。

因みに、輪廻から抜け出す=「涅槃」というのは、本来、大宇宙(自然)と小宇宙(自我)
の融合、人間の魂の究極的な消滅を意味していました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>4.諸々のものが、全て変化するものであり、また一切が決して自分でも、
>自分のものではないことを知ったとき、人は、「死」を含めたあらゆる苦悩から
>解放される。(なぜなら、「苦悩」の原因を根本から、取り去ったから)

一切が自分でも自分のものでもないことを知ったら、自分を大切にする理由はなくなるような気がするのですが? 自分だと思っているものが錯覚に過ぎないということなら、自殺してもしなくてもそこに取り立てて問題が生じないように思えてしまいますが。
また、悟りを開いた後に死ぬ場合(物理的に)と悟りを開かないで死ぬ場合に何か違いが出てくるのでしょうか?

お礼日時:2003/02/05 14:07

悟りを開く..... 難しいですね


仏教は死後六道(自分で調べて下さい)のどこかに生まれ変わります。
輪廻転生と表現しますが、結局その輪の中から永遠に抜け出せない状態が、我々凡夫(悟りきれない普通の人)の宿命です。
いい車が欲しい、きれいなオネイチャンとHがしたい、良い家に住みたい、美味しいご飯が食べたい、綺麗汚い等等。
人間は何かに拘り、拘る事に囚われている自分にさえ気付かない。
他人と比較する或いは優越感に浸る。
悟りを開くことは、そんな事柄から開放された拘りの無い状態です。
お釈迦さんも一代で悟りを開いた訳では無く、何回も生まれ変わり最後に釈迦に生まれ変わった時に悟りを開かれました。
(兎の時代もあり、自分自身をを火の中に投じ相手に与えたと言う、物語もあります。)

つまり現世に悟りを開き切れなくとも、来世かもっと先の生まれ変わった時に悟りが開けるよう日々努力する事が大事らしいです。
その努力がある一定量になると悟りが開けるそうです。

悟りを開くと六道からの輪廻転生から完全に抜け出し、即ちそれが死を超越した状態で永遠の生を授かった人、仏となります。

これ位ですかね?
悟りを開くのは気の遠くなる時間がかかるそうですよ。
悟りを開こうとする欲求自体が既に、物事に拘っている状態ですが。

まあ難しいですね。
凡夫は凡夫のままで死ぬんでしょうね。(笑)
wild catさんは頑張って努力してください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>つまり現世に悟りを開き切れなくとも、来世かもっと先の生まれ変わった時に悟りが開けるよう日々努力する事が大事らしいです。

生まれ変わる実体というのは霊魂のようなものということでしょうか?
そういう実体自体が無いことを悟ることが「悟りを開く」という考え方はないのでしょうか?

>即ちそれが死を超越した状態で永遠の生を授かった人、仏となります。

「永遠の生を授かった人」というのは、普段はどこで何をしているのでしょうか?

お礼日時:2003/02/05 13:25

死ぬことを受け入れることができるってことでしょうか?


でもおれは死ぬのが怖い人のほうが人間っぽくて好きです(超越した人見たことないけど)。

タイトルを見て「は?」とか思ったんですが疑問を抱くのは当たり前なことですよね。参考になればと(ならないか?)
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ご回答ありがとうございました。

>死ぬことを受け入れることができるってことでしょうか?

自殺という手段で死を受け入れた人も悟りを開いているということでしょうか?
生きていると苦しいことしかないと感じてそんな苦しみから解放されたいと思って死に希望を抱いて自殺した人もいると思いますので……。

お礼日時:2003/02/05 13:12

素人なので、半分想像ですが・・・



「悟り」というのは仏教用語ですよね。
仏教では人は死後、輪廻転生をするといわれています。

ところが、悟りを開く>解脱すると
その輪廻の輪から抜けて転生しなくなると言われています。
死を超越する、とは死とは無関係な存在になるということではないでしょうか。
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ご回答ありがとうございました。

>ところが、悟りを開く>解脱すると
>その輪廻の輪から抜けて転生しなくなると言われています。

転生しなくなるということは、例えば、霊界のようなところで高みの見物をしてられる境遇になるということでしょうか?

お礼日時:2003/02/05 13:01

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