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歴史上の高僧の中には、悟りを得たとされる人が多くいます。
たとえば一休宗純が、カラスの鳴き声を聞いてにわかに悟った、というように。

このように、悟った(と多くの人がみなしている)僧の中で、できるだけ新しい時代の人を挙げると誰がいるでしょうか。現代日本にもいるのでしょうか。

A 回答 (3件)

仁科さんという人をここでたまに見かけます。

その方によれば、「チョトツせんせえはマネー教会の御用学者」だそうですが、 チョトツせんせえも悟っているはずです、、、。チョトツせんせえは悟っているはずですので、他に悟っている人がいるとすれば、チョトツせんせえが解っていると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。たいへん参考になりました。

お礼日時:2011/05/04 20:01

悟りを得たとすること自体が仏法の究極では無いのですが、悟ったとするほどの人はいませんね。



一休さんの悟りも仏法の究極を感じさせません。感じさせるものであれば一休さんと同じ道を歩むように後身にその方法、ノウハウをきちんと伝授しているはずで、それが全くないのは大したことないからです。

歴史上の高僧と言っても所詮はその程度で、では何故その人たちを高僧と持ち上げたかというと、高僧を持ち上げることで自分が宣揚されるからです。自分の宣伝なのです。

悟りというのは所詮そのようなからくりとそれこそ悟ってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。たいへん参考になりました。
しかし残念ながら、質問の主旨をうまくお伝えできなかったようです。
「回答者さまの判断基準で悟った」人を尋ねているのではありません。

お礼日時:2011/05/04 20:02

本当に悟っているかどうかは、「悟った人」でないと判断できません。



「私は悟りました」と言う人はいっぱいいます(特に禅宗のお坊さんの中には、今現在でもたくさんいます)。
でも、「本当に悟っているのか」は、「本当に悟った人」にしか分かりません。

悟りと対局にある現世を生きる一般の人が、誰かを「悟っていると見做す」ことは不可能です。

また僧侶本人が「ワシは悟りを開いた」と言っている場合がありますが、そういうことを口にした段階で、悟ってはいないでしょう。

偉い徳の高いお坊さんはたくさんいます。
でも、「悟った人」はそうそういないと思いますよ。

一休さんの例が挙がっていますが、「高僧伝」と言われる僧侶(特に禅僧)の伝記の類には、「がれきを竹林に棄てたときのカチンという音を聞いて悟った」とか、そういうエピソード満載です。
それは、もうパターン化しているのです。
「高僧伝」に載るような人は、「何かちょっとしたきっかけがあって悟りを開いた」と書かれるのが当たり前なんです。

さすがに近代、現代の人になると、「悟りを開いた」というような直截的な文言が出てくる伝記は少ないと思いますが、それでも、「○○を聞いて歓喜おくことなし」といった、「悟りを開きましたよ」とほのめかすような表現は使われています。

こういう禅宗の「高僧伝」の類は、「私はお師匠さんから悟りの印可を得ました」ということを書いて、釈尊の教えが途絶えることなくずっと伝わってきているのだということを示そうとする、ある種の“はったり”です。

その程度の「悟り」(一休さんが「悟った」と言っているのと同じ程度)でよければ、今現在、老師と呼ばれている人(たとえば禅宗の本山の管長をしているような人)はすべて「悟っている」はずです。
つまり、後世に「昭和平成高僧伝」といったようなものが作られたなら掲載されて、「(悟りの)歓喜を得た」と記載されるであろう人たちという意味です。

一休さんとて、その程度の「悟り」だったのだと思います(もちろん、一休さんが高僧であることは間違いないのですが)。

「この人は確実に悟りを開いている」といえる人物は「釈尊」しかおらず、しかしそのことですら、我々は「信仰」の立場からそう言っているだけで、実際、釈尊が悟ったのかどうかは、我々では分からないのです。

「悟りを開いた僧」ではなく、「名僧」「高僧」「徳が高い僧」は誰ですか?といった質問なら、ある程度の個人名が出てくると思います。
(まあ、そういう人の中には、時間がたってある種“神格化”されて、話に尾ひれがついて……という場合も少なくないのですが)

長々と失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。たいへん参考になりました。

お礼日時:2011/05/04 20:03

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