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生きる意味をいろいろ考え、人に相談していたところ、キリスト教の教えが自分に向いているのではないかと感じています。

キリスト教信者になるにはどうしたらいいのでしょうか?

初歩的な質問で申し訳ないのですが。

例えば、金銭的なこと。洗礼を受けるために。日曜日の牧師さんのお話を伺うとき。その他。
日常生活。タバコはやめる、殺生はしない。

などなど、基本的なことを教えてください。

A 回答 (10件)

No.3です。



>エホバの商人というと、あまり言いイメージがないので、心配になりました。

他のキリスト教団体はエホヴァの証人はカルト、キリスト教じゃないと言っています。

どこが他のキリスト教からすれば許せないと攻撃されているのかというと、イエスは神の子ではあるが、全能の神自身ではない としていること。

世界でも問題になったのが、輸血の拒否。
血を分けてはならないと神が言ったので、交通事故で意識不明で輸血をしなければならないとなったとき、親は子供もエホヴァの証人なので輸血をしないと輸血の同意をしなかった。
輸血無しに手術をしたため、大量出血で亡くなってしまった。

神に運命をゆだねたわけです。
神が子供を自分の手元に置きたいのなら、そうするだろうし、まだ 生きてなにかしらする必要があるとするのなら、子供は手術後も生きるだろうと。

とても信仰深かったわけですが、他のキリスト教徒は、なんてひどい親だ エホヴァの証人はひどい となった。

我が子の輸血に同意し、子供がHIVウイルスに感染した場合、どう言ったのでしょうね。

神のいいつけを守らなかったため、子供は苦しんで死んでいった となるのでしょうか。


まあ キリスト教団体は信者獲得のための、他の派閥を攻撃するってのは、初期の段階から今までずっとやってきたこと。

東方教会と西方教会で主導権争いをやったんですね。
西方教会はパウロ派です。
聖書を作ることで、「これがキリスト教の教義だ」ってしたんです。
で、今の主流の聖書はこの西方教会が編纂した聖書を使っており、信者は聖書の言葉として、コリントなどに書かれている言葉を使う。

ちなみに、コリントの使徒への手紙や、ティモテへの手紙はパウロの言葉であり、イエスの言葉では な い。
信者は熱心にコリントの内容を言うので、パウロを神だと思っているんじゃないか と。
イエスによらずパウロ神によっているわけです。


>カトリック、プロテスタント、という2大派閥??のどちらかを選んだほうが良いのでしょうね。

カトリックでは、神と対話できるのは法王だけだとしており、教皇は神と同等の権利を持っているとしており、一般信者は神と直接話すことは許されておりません。
御願いがあれば、神の地上の代理人の教皇言え、決して神に直接直談判するなってわけなのです。
ですが、イエスを生んだマリアは人間なので、マリアには直接御願いをしていいことになっています。

カトリックの特徴は階級社会です。
会社のように会長、社長、副社長、部長、、、とランクがあります。
プロテスタントには、階級はありません。
牧師も信者の一人であり、牧師と信者の身分は同じ としています。
だから、プロテスタントは牧師を崇め奉るということはありません。
牧師も信者の一人にすぎない としています。

カトリックでは結婚は神が引き合わせたとし、従って離婚は許されません。
池田万寿夫さんはパートナーのヴァイオリニストの佐藤陽子さんと添い遂げ、佐藤さんを女神のように敬愛していたのですが、二人は籍をいれていませんでした。
なぜなら、池田万寿夫さんの本妻はカトリック教徒だったので、離婚できなかったから。

他のカトリックは避妊も中絶も許されません。
だからカトリック教徒は子沢山。
カトリックは一つ、本拠地はヴァチカン市国です。
全世界のカトリック派閥をとりまとめしているのは、ヴァチカンです。

それに対して、プロテスタントは大まかにいえば、カトリック以外 のキリスト教系団体みたいなもの。
(厳密に言えば、東方教会としてギリシャ正教とかロシア正教とか、イギリス国教会とかありますので、カトリックかプロテスタントかどっちか だけじゃないのですが。)

プロテスタントはカトリックに抗議・異議(プロテスト)を唱えた団体の総称。

独占でこうだって決定されて、信者は上の言いなりになるしかなかったわけですが、上の言う見解に意義を唱えて「おかしいんじゃないか 信者だって直接神に直談判してもいいんじゃないか」と思ったのがルター。

たった一つだった西方教会のカトリックという巨人にダビデのように挑んだわけです。

で、後に教皇の見解とは一致しない信条を持つ人は、カトリックから分裂して、「これが本当のキリスト教」と自分の考えをキリスト教だとする人達が出てきて、プロテスタント、カトリックに異議を唱えたキリスト教系団体って呼ばれるようになったわけです。

なので、カトリックは教皇も神父も見解は一つですが、プロテスタントになると、牧師それぞれも見解が違い、同じ牧師の元に集う信者同士も見解が一致しない ってことはザラにある。

だから、プロテスタント系の派閥に入っていた人が、詳細になると見解の相違が生まれ、さらに別の教派を作っていくってこともザラにある。

で、どう違うのか、何と比較してどこが違うのか って表にまとめた人はいないので、入ったあと、「あれ ここは同意できないな」ってことも発生するんじゃないか と。

ただ、牧師(プロテスタント系の聖職者)は自分も信者の一人なのであり神ではないので、必ずしも正しい理解をしているわけじゃない とし、自分が束ねる信者の一人の見解を「間違えている」と真っ向から否定するってことは し な い。

ちなみにプロテスタントでも、酒やタバコ、コーヒーを飲んでいいか とか、性交の体位の制限とか、避妊や中絶、資産を増やしていいかどうか とか いろいろ違うんです。

いきなり教会を訪れ、「酒 タバコ コーヒーは禁止ですか?」 は聞けても「お宅のところは性交の体位は定められていますか?」とか聞けないじゃないですか。

「自分を鞭で打つことを奨励している団体ですか? それはすっぱだかでやるんですか? 何回 どれくらい 自虐をすると良いとされていますか?」などすぐには聞けないじゃないですか。

だから、数年は日曜ごとに教会に通って、信者と交流を深め、その教会の特徴を徐々につかんでいくしかない。


>バプテストという教会でした

プロテスタントですね。
再洗礼主義派閥。

アメリカはヨーロッパから宗教を逃れてきた人達で作られた。
だから19世紀の終わりころまでは、キリスト教信者の移住者は、穏やかに細々と信仰をしていたんです。
その頃までは、ヨーロッパのようにキリスト教会が権力をふるって 我が者顔で人に生き死にを支配していないアメリカだったわけです。

ところが世界大戦が起こり、ベトナム戦争が起こった頃には、自由すぎることに彷徨う人達が続出し、拡散(自由)に困惑した人々は、縛りを求めるようになり、そのニーズにバプティスト系がマッチし、たちまち人々は再洗礼されたことで救われたとなったわけです。

グッドタイミングだったので、たちまちパブディティスト系は大きくなり、やがてイラク戦争に信者をかりたて、無実のイラク市民を虐殺させた。
さらに、無実のイラク国民を虐殺させたブッシュを我が主 救世主ブッシュ閣下と崇め、もう一度 もう一度 もう一度 と再選させた。
「もっと縛って、鞭打って 自由を奪って、こうしろと私のやることを命令して、その通りに動くロボットににる。自我を捨て融合する」と人々はコマンド(命令)を甘美なものとして心地よく思った。

そして「あなたも個を捨て我々と融合し一つの生命体として永遠に生きましょう」とテレビを使って勧誘することになったわけです。

ちなみに、イエスは「大通りで説教するな、自宅で祈れ」と言っています。
信者はイエスの言葉を無視(笑)
自分こそ正しいとイエスではなくパウロの言葉を借りて、大勢のいる前で説教するようになった。
聖書の言葉を述べて、聖書は正しい、それを言う私も正しい、従って私が言うことはすべ正しい、従って私は正しい人であーーーる とやりまくった。

従って、聖書の言葉を大通りで語る信者は要注意。
ネットでも同じ。要注意人物なので、催眠に誘導されないように。
催眠にかかってしまうと、その人は神に近い人だと錯覚して、その人の言うことを疑いもせず信じてしまい、過ちを犯しても催眠が解けるまで気づけなくなってしまう。


>イメージですが、200名もいらっしゃったら、牧師さん(神父さん)との距離も遠くなってしまうのではないかと心配してしまいます。

交流会があるので、何度も直接話をする機会はあります。
例えばミサや礼拝の時、神父や牧師は説教をします。
カトリックはどの神父が解説しても同じなのですが、プロテスタントは牧師によって見解が違い、それぞれの牧師の聖書の言葉の捉え方がわかる。

さらにミサや礼拝の後解散ですが、食事を一緒に食べるということをやっているところが結構ある。
そのとき、話をすることができる。
200人登録信者がいたって、現実ミサや礼拝に出席する人は50人くらいでしょう。
さらに食事の時まで残る人はもっと少ないと思います。

もし、個人的な悩みがあり相談したいのなら、信者を取りまとめる人に神父や牧師と話をしたいが可能か?と聞いてみたらいいんじゃないでしょうか。


一つわからないことがあります。
自分はキリスト教の考えに向いていると思ったそうですが、どこらへんがですか?
口では平気で奇麗事を言うくせに、兄弟すら虐殺をしてしまうどうしようもなく、救われていないところに親近感がもてるってことですか?

マザーテレサは最後に「神は救ってくれなかった」と恨みの言葉を吐きました。
彼女は世界一無償援助(つまり返さなくていい、寄付)する日本を、世界で一番貧しい国と批判しました。
自分の団体の寄付しない日本を悪く言ったわけです。
自分の団体に寄付しない奴はケチ野郎だって批判したわけです。

とても心が貧しい人でした。
しかし究極の心が貧しい人ではなかった。
究極の心が貧しい人は、神の前に立つことになるから。

<心が貧しい人は幸いである、天の国は彼らのものである>

これをもって信者は清貧であるべきだとなり、信者は稼ぎを教会に寄付し、教会は富と名声を築くことに成功したわけです。

これは一般信者に対する言葉ではないと、私は思います。

心が貧しい人、心が打ち砕かれ、もう何ももっていらず、神しか頼るものが無い状態になった者は幸いである、なぜならそういう状況になったとき、やっと神の御前にたつしかなくなるから。
そうなったものが天の国を築く。

という意味らしいです、ヘブライ語によれば。

聖職者が、大通りで聖書の言葉を使い、さも自分が正しかのように言っているうちは、まだ神の御前に立っていない。
なぜなら人々の尊敬を集め うっとりしている状態で、神に頼らずとも天国にいるかのような気分にひたれるから。

人々からさげすまれ、名誉を失い、鞭打たれ、辱めを受け、すべての人から見捨てられた状態になったとき、初めて神の御前に立つことになる。
「神よ 何故私を見捨てたのですか」とまでになったときが、神の御前に立った瞬間。

マザーテレサも同様のことを言ったわけですが、、、彼女は神の前に立ってジャッジを受けたのでしょうか???

まっ、天の国はこのような心の貧しい人によって築かれるとされるので、、、、

ヨブ記ってあるんですね。
ヨブはすべてを神から奪い取られ、とうとう神の前に立ったわけです。
「てめー このやろう」って神に挑んだ。
まあ もうちょと上品でしたが。。。。

「私が一体どんなひどいことをしたから、こんな報いを受けたのか教えてください。私はおろかすぎて、この報いにいたった理由がわかりません、どうか教えてください」

人は時に「何故?」ってことありますよね。
どんなひどいことをしたから、こういう災いがあったのか理由がわからないってことありますよね。

ヨブもそう。
友人たちは、「自分でも気づかぬうちに悪いことをしたんだよ」とか言ったし、妻は「自殺した方がいい」とまで言った。
ヨブは納得せず、神の前に立ったわけです。

教えろ と。 知りたい と。 何故こんな目にあうことになったのか、理由が知りたいと。

実はこれ、神とサタンのゲームだった。
ヨブはなーーんも悪いことはしていなかった。

ヨブの作者は、自分の理解をヨブの悟りとして書いています。

お勧めですよぉ。
信者じゃなくても、ヨブ記は親近感もてて人にお勧めできますぅ。

一番のお勧めはニヒリストなコヘレトの言葉です。
信者じゃなくても、この哲学は現実生きている私に活力を与えるって思い、この書の前編をを手に入れるため、聖書買ってしまいました、高かった。。。。。
さらにこの書の解説書まで買ってしまった。

ちなみに旧約の方です。
新約を理解するには、絶対に旧約の理解が必要です。
新約だけでは、新約聖書のイエスの言葉は理解できません。

まっ、、、バプディスト系は危ないと個人的に思うので、、、、穏便な派閥なら、、、、ルーテル教会とかがいいんじゃないでしょうか。
温和な宗派で、社会貢献とか活動をやっていて、家庭的なところのようです。
(というか 前 聖書の勉強会に参加したことあるし、社会活動を協働でやったことあるので、怪しいところじゃないと太鼓判押せます。)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
バプテスト、ルーテル、カトリックという派閥があることがわかりました。
とても丁寧に書いていただき感謝しています。

ご回答の中で、「一つわからないことがあります。
自分はキリスト教の考えに向いていると思ったそうですが、どこらへんがですか」という質問がありました。

以前、友人に誘われ行った事があるのが、バプテスト教会でした。
家庭的なところ、牧師さんとともに同じ目線で食事を囲んだり、お話できるという環境に魅力を感じました。幼少より家庭に恵まれず、食卓で笑ったことがありません。
もう一つ、友人でクリスチャンが数名いるのですが、芯をしっかり持っている、傷つきながらも揺るがない何か強いものを感じています。私もそうなれたら、という思いもありました。
自殺未遂もあります。救いようがない私ですが、それでも許してくれる?生きるうえで何か強い見方になってもらえるような気がしています。

私事が長くなりすみません。
ルーテル教会を探したのですが、あまりなく電車で乗り継いでいかなければなりません。とりあえず(といっては失礼ですが)、近所の教会に行ってみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/02/18 06:59

何もしなくていいよ~ただイエスキリストを信じてください


はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。こんな感じで書いてましたねえ。
まずあなたに当てたレターとして聖書を読んでください。
>金銭的なこと。洗礼を受けるために。日曜日の牧師さんのお話を伺うとき。その他。日常生活。タバコはやめる、殺生はしない
無理しない。キリスト教は自分の努力で変える宗教ではなく神様に変えていただく宗教です。聖書と自分、キリストと自分です、あなたらしく信じる。
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この回答へのお礼

牧師さんのお話を聞き、聖書を読んで、少しずつですが勉強していきたいと思います。
気が楽になりました。
ただ、信じればいいのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/01 13:33

まず何はともあれ聖書を読んでみたらどうですか?


旧約はややこしいので新約だけでもじっくり読む
事を勧めます。
大まかにプロテスタントとカトリックがありますが
プロテスタントは色々なので自分にあった所を探す
のが重要だと思います。中にはカルトっぽい所もあるので。
カトリックは全国共通だと思いますが、最初に行くには
とっつきにくい所もありますよ。
プロテスタントと違ってまず信徒から話かけてくる事は少ない
です。
でも逆にそれが良い事もあります。いつでも気楽に行けますから。
金銭的な事は、よっぽど変な教会に行かなければ大丈夫です。
逆に金銭を多大に要求する様な教会には即通うのを中止する事を
勧めます。
タバコはOK。お酒は飲みすぎなければOKでしょう。
日曜日には礼拝やミサ(カトリック)がありますが、
休んだからといって叱られません。
でも信仰が深まると出たくなりますがね。

殺生は人間は勿論駄目ですが動物に関しては食物という意識
があるのでOKでは。勿論無駄な殺生は勧められませんが。
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この回答へのお礼

仰るとおり、カトリックは敷居が高いというか、表現しにくいのですが、とっつきにくいかもしれません。
プロテスタントで考えたいと思います。
あと聖書ですね。時間をかけて少しずつ読んでみます。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/01 13:31

tartaricさんが生きる意味をいろいろ考えたうえで、キリストを選ばれたということが印象的でした。


しかし人に相談された結果どのような回答を得て、共感されたのでしょうか?
一般的にクリスチャンに生きる意味を聞くとこのような答えが返ってきます。「キリストは私たちの罪のために十字架にかかられたから、わたしたちのすべての罪を取り除くことができ、私たちは新しい歩みをキリストと共に歩み、キリストのように良い行いを生きる命が与えられる。そして将来は天国で神と共に永遠に生きる。」
わたしも一クリスチャンとしてこのような意見に賛成です。
ですが、聖書が言っている生きる意味とはこれだけなのでしょうか?
tartaricさんが聖書を愛し、追求されれば、もっとなにかあると思われるかもしれません。
私も生きる意味をもとめてクリスチャンになったものですが、
聖書の言っている生きる意味というのはもっと素晴らしいものであると
思います。
なぜなら、上記のような生きる意味には、神が人間を造られたご目的がまるでないからです。まるで愛なる神は人が幸せであれば万事結構という印象を与えます。
神は偉大な方で、その偉大さにふさわしい目的をもって人を造られたと思いませんか?
その答えは聖書、創世記一章26、27節にあります。
1:26 神はまた言われた、「われわれ(三一の神、すなわち父子霊)、のかたち(子なるキリスト)に、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。
1:27 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
ここに神が人を造られた2つの主なご目的があります。
一つ目は「かたち」また「かたどって(似せて)」とあるとおり、神は人にご自身を表現してもらいたかったのです。
しかし人は神に内面も外面も似ていますが、神ご自身ではないので実際的に神を表現することはできません。ですから神ご自身を内に迎え入れるために神は「いのちの木」としてご自身を人の前に置きました。
しかし、愛なる神は強制されません。別の選択肢をおいて人の自由意志に委ねました。「善悪知識の木」として悪魔を置きました。(神が悪魔を造ったわけではありません。長くなりますので省略します)
神は善悪知識の木を食べないように戒めますが、蛇(悪魔、サタン)は人をだまし、人は悪魔の誘惑に負けて悪魔を内に入れてしまいました。
この肉体に入った悪魔を聖書では「罪(単数形)」(複数形は罪の行いを指す)といいます。
かくして神を表現するために造られた人は悪魔を表現するようになってしまいました。歴史をみれば一目瞭然ではないでしょうか?
そして、いや、だからこそ神の二つ目の目的があります。
「治めさせよう」です。これは神が造られた宇宙を人が治めることを言っていますが、特に「這うものを」つまり蛇、悪魔を対処することを神は人に託しているのを見ます。
実は悪魔、サタンとはもともと神に造られた天使でしかも最高の地位をもっていました。しかし神になりたいと願ったために神に敵対するようになった存在なのです。(イザヤ書14章12節)
それなら神が悪魔を退治すればいいとお思いになるかもしれません。
何の苦も無く退治できるでしょうし。
しかし神は造られたものが、造られたものを対処することを願われます。欠陥だらけの私たちがそのような任命をうけるとは、光栄なことではないでしょうか?
ではどうやってこの二つの目的を私たちが達成することが出来るでしょうか?
一つ目の神を表現することは、キリストを受け入れる(信じる)ことを通して達成されます。キリストは神が人となった方です。
十字架上で血を流し、罪の行いを赦すことができるだけでなく、
罪そのものとして裁かれたので(単数形の罪=悪魔)、キリストを受け入れるなら、いのちなる神を得て、肉体の中の悪魔を殺す過程が日々前進していきます。
二つ目の目的はどうでしょうか?
それは従順を通してです。
今現在、悪魔は神に反逆しています。
悪魔が内に住む人も神に反逆しています。(大なり小なりですが)
もしすべての造られたものが反逆したままでは
神は宇宙を放棄せざるをえないでしょう。
しかしもし、あなたが、わたしが、幾人かが神に従えば、
神は従う人を救い、悪魔と悪魔に従いたい人を裁くことができます。
悪魔はすべての人を自分の道ずれにしたいのですが、
神はすべての人を救いたいのです。(Iテモテ2章4節)
勝利は力によるのでありません。私たちのような人間がどうして元天使に力で勝てるでしょうか?天使は霊的存在ですから、原子爆弾も通用しません。
私たちの神への従順が私たちの義となり悪魔を不義と宣告する(治める)根拠をもつことによって勝利するのです。
そのために、教会はとても大事です。まじめに聖書を読めばわかります。多くの教派はあたりまえだと思わないでください。
神の民は一であるべきですし、聖書にしたがって悪魔に私たちの従順をみせつけるべきです。一の根拠は聖書的な教会に立ち返ることです。
聖書にはエルサレムに在る教会、エペソに在る教会、コリントに在る教会などがありますがみな都市の名前です。
世界各地にあるこの都市ごとの集まりは互いに行き来し、交流をもっています。
アメリカではアナハイム、ロサンゼルスなどカナダではトロント、バンクーバーなど台湾、中国、南米、東南アジア、上げたらきりがありません。日本では東京に在る教会、京都に在る教会、奈良に在る教会、大坂に在るなどがあります。
聖書では「生きる目的」=「神の目的」です。実はこれこそが本当の人喜びであり満足です。
神を内に宿すことは素晴らしい経験です。
共に主を賛美しましょう!
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この回答へのお礼

丁寧な説明ありがとうございました。
聖書を読み、理解することは時間がかかるのでしょうね。
生きる意味を求めてキリスト教を連想したのは、受け入れてもらえるという思いからかもしれません。

お礼日時:2009/03/01 13:26

こんにちは。

No.2です。お礼ありがとうございましたm(__)m。難しい事は私には分かりませんが、バプテストはプロテスタント諸派の中の一部です。前回も書いたかもしれませんが、キリスト教は大きな派閥としてカトリック、それに対抗して出来たプロテスタントがあります。他にも正教会という教派があります。ロシア正教とかギリシャ正教とかなんですが、ニコライ堂とかがロシア正教ですね。非常に内部が綺麗で荘厳な感じがするようです(実際行ってないので何ともいえませんが)。ですので乱暴な言い方をすると上記に挙げた名前がなかったら全部プロテスタントで構わないです。という事ですのでバプテストはプロテスタントの一派という事になります。アメリカに信者さんが多い代表的なプロテスタントの一派で、ゴスペルなどをイメージされる方も多いかと思います。代表的な方として最近話題のキング牧師などはバプテストです。私も友だちが一人いましたが、特に変な人というか、問題があるようには感じませんでした。まあ教会に行っていないので何ともいえませんが。ただ少数で狭義的になっていたりする訳ではありませんので、お友だちと一緒に行ってみて合うようでしたら、しばらく通ってみてはいかがでしょうか?
 一応トラブルというか、避けておいた方が良いのはこういう感じです。
(1)他宗教を認めない。他教派の悪口を言う。
(2)他宗教の行事(仏教のお葬式など)や他の教会に行くのを止められる。
(3)聖書絶対主義。聖書に書いていない事は認めない。
(4)すぐに洗礼を迫る。すぐに教会員にさせようとする。
(5)毎週教会に来るように強制させる。
(6)礼拝(又はミサ)が神がかり的←何かが乗り移ったような感じというか、皆が興奮状態になったりする。
(7)あきらかにキリスト教とは違う←エホバ、モルモン、統一協会など。

 日本には信教の自由がありますので、↑が絶対駄目という訳ではありません。ただ、キリスト教に馴染みがない状態で中道でない教派に馴染んでしまうと逆に拒絶反応を起こす事もあります。
 前回も書きましたが、ピッタリ合う素敵な教会、教派が見つかる事をお祈りしますm(__)m。
 
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この回答へのお礼

返答が遅くなり申し訳ありませんでした。
どうしても教会に行ったとき、どんな基準で選べばいいのか判りませんでした。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/03/01 13:22

 《Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか》


 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3013375.html

 を問うたことがあります。
 現在のtartaricさんに そのまま 参考になるかどうか 分かりません。
 参照資料のひとつとして提出するかたちで 回答とします。

 
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最初の人であるアダムは神様の似姿で作られましたが、罪を犯すことによって神様の似姿を失いました。

                                                                                 私達は神様の似姿を失ったアダムに似て産まれます「創世記5:3」。                                                                                                アダムが悪魔に騙され神様の似姿を失ったという意味は私達の霊が死んでしまったという意味です。                                                                                    聖書は聖なる神様の霊によって書かれた聖霊の字です。                                                                                                        霊が死んでしまった人は霊の字である聖書を読んでもその意味を分かりません。                                                                                          だから、貴方の質問にも何も分かっていないのに知ったかぶりをしながら気狂ったような書き込みがあるわけです。                                                                                                             私達は全てむやみに人を殺す通り魔のような姿をしているのです。                                                                                                 このように哀れみな人々を救うためにイエスキリストがこの世に来れれ、私達の罪の身代わりになられ死なれたのです「コリント前15:3~4」。                                                                                             イエスキリストが自分の罪の身代わりになって殺されたから自分の罪はなくなったと信じる人をキリスト人だと言います。                                                                                                           これを信じない人は、例え彼が牧師であれ神父であれキリスト人ではありません。                                                                                                                         そして、彼らの霊は死んでいるので聖書も分かりません。                                                                                                                                         聖書を分からないからあらゆる教団、儀式を作って人々を騙しているのです。                                                                                                                             洗礼もその一つです。                                                                                                                      聖書の正しい名は洗礼ではなく、浸礼です。                                                                                                            浸礼はイエスキリストが自分の罪の身代わりになって死なれたことを信じることを水に浸りながら表す儀式であり、水から出ながらイエスキリストが死から復活されたことを表す儀式なのです。                                                                                                        即ち既に救われた人=イエスキリストが自分の罪の身代わりに死なれてから復活されたので自分も罪がなく死んでも生きる事を信じる人=がその信心を表す模型なのです。                                                                                                                           「水はイエスキリストの復活によって今は私達を救う模型で、すなわち浸礼です。(これは、肉体の汚れを取り除くのではなく、神様に向いた善良な良心の応答なのです)ペトロ前3:21」                                                                                              このように、浸礼は肉体の罪を取り除くのではなく、既に救われた人がイエスキリストが自分の罪の身代わりに死なれてから復活されたことを心から信じることを表す良心的な答えとしての模型なのです。                                                                                                     だから、救われても無い人に洗礼をさせて救われたと教えることは救われないように妨害する悪魔的な行為です。                                                                                                             このように騙されて自分は救われたと思う人が多くあります。                                                                                                      彼らはノアの洪水によって死んだ人もみんな洗礼されたので救われたと信じるかも知れません。                                                                                                    これを分からないカトリックは洗礼を受けると救われると教えました。                                                                                                                    そして、子供にまで洗礼をさせました。                                                                                                               しかし、子供は善と悪の区別が出来ないので裁かれないと記してあります「神明記1:39、サムエル下12:23、民数記13~14章」。                                                                                                          すなわち、楽園に行ける資格がある人に地獄に行くべき罪人が洗礼をさせて救われたと宣言するのです。                                                                                                このように、キリスト人になる事は極めて簡単です。                                                                                                        しかし、殆んどのキリスト人だという人々まで信じない狭い門なのです。                                                                                               「聖書から人生を考えよう」というブログ書いた方は救われた方です。探して読むと役に立つと思います。
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キリスト教といっても、いろんな宗派があります。



とはいっても、2000年ほど前は今とは比べものにならないほど、もっと多くの派閥があったようですが。

それで争いをして各地に社会不穏を起こしていたので、コンスタンティヌス一世が、ローマ帝国で社会不穏を起こす原因を消すために、白書をまとめたんですね。

キリスト教ってのはこういうもんだって作ったのがコンスタンティヌス1世。
創設者はコンスタンティヌス1世。

どういうのをキリスト教徒だとすると決めたかというと、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92% …

この話を信じると儀式で誓うことで、キリスト教信者だと各派閥は認めるようです。

この話の元ネタはオシリス。
コンスタンティヌス1世は、オシリス神話を知っており、キリスト教の神の考えはオシリスと同じだとしたことで、オシリス崇拝するキリスト教を公認したんじゃないか と。


ちなみにオシリス神話って、イエスの物語と同じ。
しかもオシリス神話の方がずっと古い。
つまり、イエスの話は、オシリス神話のコピーなわけです。

それに紀元前400年ほど前の哲学者プラトンの思想が加わり、キリスト教の全くの義の神の国に戻ろうって思想ができあがった。

で、コンスタンティヌス1世は、やっと治安の回復を取り戻したわけですが、コンスタンティヌス1世の死後、公認されたキリスト教はキリスト教のみが正しい宗教だとして、他の宗教を攻撃してぶつしていった。

他の考えをするキリスト教派閥を新約聖書という核兵器を作って潰していった。
内容はやっぱりオシリス神話ですが。。。。


で、ローマ法王と結託して、ローマ帝国の拡大に貢献したわけです。

時は流れて、政治と結託したこの独裁宗教に異議を唱える人が現れた。
ルター。
その前から、この大きな派閥と袂をわかった、、、例えばギリシャ正教とかもあったのですが、ルターは、思想は一つじゃないという考えを大きな声で言ったわけで、結局 大きな派閥と喧嘩して負けちゃったわけです。

ところが、ヨーロッパの北の方ではルターの考えが支持され、プロテスタントというグループ つまり本流とは違うキリスト教がつぎつぎ誕生していった。


というわけで、今ではプロテスタントもかなりある。
2000年前より全然少ないそうですが。


で、全部のキリスト教派閥を束ねているキリスト教団体は無い。
だから、自分が作って「私はキリスト教徒だ」って言ってもいいわけです。
「お前の派閥はキリスト教だと認められていない」って言われない。
たった一つのグループが全部のキリスト教徒の支配権を持っていないから。
お互い認証しあうことで、「おたくもキリスト教会(協会)ですね」と認め合っているにすぎない。


で、いろんな種類があり、考え方も異なる。
水にざっぶーーんと儀式でつけることで、バイキンがすべてきえて清い体になるって入信式をするところもある。
霊だとか、超常現象を売りにしているキリスト教派閥もある。

で、好みなので、あなたが「これが好き」って思想をするキリスト教団体にコンタクトとって、そこの規定を満たせば、団体の名簿に乗り、晴れて使徒になるわけです。


神は宇宙人だったって考えるキリスト教団体が素敵だと思うのなら、その団体にコンタクトを取って、メンバーになるにはどうしたらいいですか って問い合わせして、その規定をクリアーして、誓いを立てればいいわけです。
「イエスはオシリス神話のパクリに過ぎないとは微塵も疑わないとを誓います。イエスのストーリーはオリジナルですと誓います。」と。


で、派閥によってコーヒーは駄目とか酒は駄目とか、エッチはどういう体位でしか駄目とか、自慰も駄目、避妊も駄目。 舞台の前で親子でセックスショーをして他の信者に見せる」とか いろいろ規定があるんですね。

そういう規定があるなんて知らなかった と後から後悔しても、誓った以上、誓いは無かったことにはできない。
誓いってのは口約束じゃなく、命をかけるってことですから、取り消しはきかない。

だから慎重に。
そのためには、誓いを立てる前に、団体に通って、命を預けていいか確認する作業をするべきです。

とはいっても、いい加減な考えで誓いを立てる人はゴロゴロいる。
あげくに、こういったサイトで、自分が所属していた宗派の批判をしてウサばらしをしている人もいる。

自分が悪いのに、責任転嫁して、自分がいた団体が悪くて自分は騙された被害者だと言う。

誓いを一時的な気持ちでした結果、そうなってしまうんですね。


ちなみに、私が調べた限りでは、イエスはキリスト教徒ではなくユダヤ教徒。
イエスが言ったことは、恐らくほとんど旧約聖書と日本で呼ばれるもの既に書いてあると思えます。
改正する必要など無い。
旧約聖書が完璧で、改造する必要は無い。

ですが、この旧約聖書はイスラエル人向けの規定なので、この一部の人に適用される規定を、それ以外の人に適応はできないと思えます。

例えば、日本人向けに適応される規定があったとします。
それを他の国の人に適用はできませんよね?
「日本人であるあなたは正月には国旗掲揚して、神社におまいりにいくべきだ」と言ったところで、外国人にしてみれば「あの・・・日本人じゃないのに、どうして日本人向けの風習を守れと言うのですか?」ってなるでしょ?

同胞を愛せよなのに、どうして神はイエス(ヨシア)にエリコの人々を一人残らず虐殺させ土地を奪い神の民に与えたのか、理解に苦しむでしょ?

間違えていません。
イスラエル人同士では殺しはしてはいけないというルールであり、異民族殺しを神は駄目だって言っていないから。

神はイスラエル人同士は殺しはしてはいけないとなったが、新しい約束で、誰も殺してはいけないとルールを変えたと信じる?

じゃあ 何故 他のキリスト教派閥を攻撃したり、虐殺したりしてきたのか。
何故 神の民ユダヤ人をキリスト教徒は虐殺してきたのか。
全人類に適用範囲が拡大されたと信じていたら、するわけないじゃないですか。

適用させるには、ユダヤ人がイエスを殺した悪人とするしかない。
悪人は殺してもいいってするしかない。
ちなみにユダヤ人はイエスを殺してなど い な い。

イエスの話はオシリスの話を主人公の名前をイエスの変えただけ。
実在してなど い な い。

そして真理を求める考え方は、プラトンの考え方。
従って、キリスト教の教えより、プラトンの教えを学ぶ方がわかりやすい。

ちなみに私はアリストテレスの考え方の方が受け入れやすいです。

この回答への補足

ちなみに、今日のぞいた教会のHPに、「聖書の資料館:エホバの証人の救出関連資料など」というリンクがありました。
エホバの商人というと、あまり言いイメージがないので、心配になりました。

補足日時:2009/02/15 19:42
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
いろいろな派閥?があるんですね。
カトリック、プロテスタント、という2大派閥??(言い方が不適当でしたらすみません)のどちらかを選んだほうが良いのでしょうね。
以前、友人に誘われていったのが、バプテストという教会でした。
これが、カトリックなのか、プロテスタントなのかわからないのですが。
神父さん(牧師さん)との相性もあるでしょうし。
今日、少し除いてみた教会は、200名ほどいらっしゃるようです。
イメージですが、200名もいらっしゃったら、牧師さん(神父さん)との距離も遠くなってしまうのではないかと心配してしまいます。
カトリック、プロテスタント、本当に初歩的なことでよいのですが、印象というか、イメージ、教会の性質など、お教えいただけませんでしょうか?

お礼日時:2009/02/15 19:33

 こんにちは。

キリスト教(カトリック)信者ですので良かったら参考にして下さい。
 様々な理由で教会やキリスト教に興味を持たれる人というのは結構多いです。そして質問者様が興味を持たれたら、まずは実際に行ってみる事をお勧めします。ただし、キリスト教といっても様々な教派に分かれています。仏教でも臨済宗や真言宗など様々に分かれているのと一緒です。一応大きく分けてプロテスタントとカトリックに分かれます。西洋史の勉強みたいになるのですが(^_^;)、大まかに言うとカトリックに対抗して出来たのがプロテスタントで(ルターとかカルバンとかです)、現在様々な教派が出来ています。ちなみに牧師さんというのはプロテスタントで、カトリックは神父さんといいますし、礼拝はプロテスタントでカトリックはミサです。
 前述のようにプロテスタントは様々に分かれています。殆どが安心できる所ですが、中には怪しげな所も若干はあります。例えばキリスト教として認められていないモルモン教もキリスト教会という看板を掲げています。プロテスタント教会に行かれるならまず、日本基督教団の教会に行かれる事をお勧めします。プロテスタントの大きな教会なので、都道府県には大体ありますし、敷居というか、安心して行けます。他にも日本聖公会(イギリス国教会)やバプテスト、カトリック(カトリックは絶対カトリック○○教会という名前ですのですぐ分かります)などが初めてでも安心して行けますし、教義的ではなく中道の考えですのであまりにも現代の考えとそぐわないという事はないです。それぞれのHPをはりましたので、まずはお近くの教会に行ってみて自分に合う教派を探してください。ただし、牧師さん(神父さん)が素晴しいというのは、移動がありますので、あくまでも考えが自分に合っているという事で選ばれた方が良いと思います。
http://www.kohara.ac/church/kyodan/
http://www.nskk.org/tokyo/
http://www.jbu.or.jp/
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/index.htm
 
 金銭的なことですが、まずミサ(礼拝)には献金があります。これは日曜のミサ(礼拝)が主ですが、誰がどれぐらい入れたか分からないようになっていますし、入れたくなかったら他の人に回しても構いません。大体1コインが多いと思います。その他に特別献金が普通の献金とは別にまわる事がありますが、それも同じぐらいの金額です。入れたい人は入るだけ入れたら良いと思いますが^m^、大体は100円とかそれぐらいだと思います。それ以外には洗礼を受けて教会員になると月の献金があります。これは十一献金といって収入の10%を納める所も中にはあるようですが、殆どのプロテスタント諸派とカトリックでは十一献金ではありません。大体普通に働く人で1,000~5,000円の間だと思います。このお金は毎年きちんと総会のようなものプリントが配られ何にどう使われたかという事が報告されます。ちなみに洗礼を受けるのにはお金は要りません。私の時も一銭も出しませんでした。まあ出す所で勉強会で使う茶菓子代とかテキスト代とかそんな感じだと思います。洗礼を受ける為に納めるお金というのは絶対ないです。
 洗礼を受けるのは一生の問題になりますので、慌てない方が良いです。まずはジックリ通ってみて決めてみて下さい。どのみち臨終じゃない限り洗礼は時間がかかります。まずは牧師(神父)に申し出て洗礼を受ける意思がある事を伝えます。そうすると勉強会(カトリックでは公共要理といったりもします)に参加する事になります。前述のようにただかテキスト代ぐらいのお金が必要になります。洗礼は幼児洗礼でない限り、殆どが復活祭に行われますのでそれに向けて初夏~初秋ぐらいから勉強会を始めます(ちなみに今年の復活祭は4月12日)。大体週1回ペースで行います。この勉強会に参加したからといって絶対洗礼を受けなければならないという事はありません。順調に行けばそのまま復活祭かクリスマスに洗礼を受ける事になります。
 日曜のミサ(礼拝)ですが、特に心構えはありません。自分で時間を調べて行ってみたら良いです。初めてなら始まるより少し前に行き、分からなければそこら辺の人に「初めてですがどうしたら良いですか?」と聞いてみて下さい。大きな教会なら案内係の方がいます。カトリックを例にとると持っていく物はありません。全て教会に用意されていますので、後は自分が出かける時に持って行くものだけです。始まる5分ぐらい前には着席しておいた方が良いでしょう。通常2時間以内には終わります。決まった動作、セリフなどがあり、最初は戸惑われるかもしれませんが、まあ隣の人に合わせると良いです。分からなければ聞いてみて下さい。大抵親切に教えてくれるはずです。服装は普通に出かける時の服装で構いません。今は夏ではないので心配ないですがあまり露出の激しい格好(ノースリーブやチューブトップなど)は止めた方が良いです。
 日常生活は特にないです・・・。まあ聖書を読むとかマジメな人は読むんじゃないでしょうか(^_^;)。私はロザリオの祈りでさえさぼりがちなので、不真面目信者です(^_^;)。自分が洗礼を受ける前と受けた後で日常生活で何か変わったかというと、意識としてありますが日常生活上か割った事は特にはないです。酒、タバコは問題ありません。司祭(神父)でも飲酒したり喫煙したりする人はいます。牧師さんでも飲酒したりする人はいますよ。殺生は人として駄目なので駄目です(^_^;)。
 駄目な事ではないですが、カトリックに限り「ゆるしの秘跡」というものがあります。これは昔懺悔とか告解とか言ってたもので、ひょうきん族でおなじみ(?)のヤツです。神父さんに罪を告白してゆるしの取り次ぎを願います。少なくとも年に1回はした方が良いとされています。あとは特にないと思います。大斎小斎とかありますが、厳密にやっていないと駄目という事はありません。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/memo/lent.htm

 自分のピッタリな教会や教派が見つかり素晴しい出会いがありますようお祈りいたしますm(__)m。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
丁寧で細かいことを教えていただき感謝しています。
カトリックとプロテスタントがあるということも、初めて知りました。
バプテストという名の付く教会を見つけたのですが、どのような位置づけになるのでしょうか?
費用のこと、先例のこと、本当に決め細やかなアドバイス、ありがとうございました。

お礼日時:2009/02/15 19:27

日曜日に近所その他の教会に行ってください。


初めての人でも必ずあたたかく迎えてくれます。
聖書がなければ貸してくれます。
牧師さんの話、歌のあと、いっしょに昼食を食べたりします。
(お金は歌の前後に献金袋が回ってきます。そのとき100円でも1000円でもいくらでもいいので入れます。)
昼食中、初めての人は牧師さんのとなりだったり、
世話係の人のとなりだったりで会話を気軽に話します。
そのとき、いろいろ話せます。
何度か毎週通い、ほかの人とも洗礼そのたいろいろ話したあとに洗礼を
するかどうか決めたらいいでしょう。
今日、行く教会を決めて、明日行ってみてください。
はじめては不安かもしれませんが、みなさん兄弟のように接して
くれるので大丈夫です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実際に近所の教会にいって見ます。

お礼日時:2009/02/15 19:23

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