
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
>中国における歴代王朝の都の位置は、海岸のほうへ変遷していきましたが、
この見解は間違いです。
洛陽・長安と都が往復するケースが古代・中世と続きますから、海岸に向かい続けていません。
南宋・元・明・清は海岸に近付いていますが、便宜的に遷都できる状況が多いようです。
中国王朝の封建時代においては、西方(西域)との関連から西方に都が置かれる傾向があったように考えられています。
時代とともに、西域への関心・意味が減ることで海岸近くに向かい。商業流通の発展に伴い、河口に近い場所が都市として珍重されただけかもしれません。
No.3
- 回答日時:
経済を握るための水運に関する補足
揚子江河口部から海運で北上しようとしても、山東半島まで寄港地がありません。
距離的には大坂から江戸までくらいで、その間を安全にノンストップで往来するには汽船の発明を待つことになります。
現在の中国の地図を見ても分かるのですが、上海から南には、海岸に港湾都市が続きますが、南には山東半島付け根まで海岸には主要道路もない土地が続きます。
参考図書
中国思想と宗教の奔流―宋朝 (中国の歴史) (単行本)
小島 毅 (著)
などのシリーズで書いてあった
No.2
- 回答日時:
鍵は大運河です。
大運河できる隋の前は基本は 西の西安と東の洛陽 どっちのチョイス?という事になります。経済統合のための黄河軸といえます。西安のある陝西省は、東の華北平原と比較したときに「巨大な城郭」とでも言える位置づけになります。
漢楚の戦いで、漢の劉邦が何度負けても最後に勝てたのは、陝西省をがっちり押さえていたおかげです。
南北朝により、揚子江下流部の開発が進み、経済の中核となりました。
そのために、南北朝を統一した隋は揚子江下流部と華北を繋ぐために大運河を作ります。
これによって、大運河の流れている場所も都のチョイスとなります。
北宋の都が開封であり、黄河と大運河の交接点であることが例となります。
北京と杭州(南宋)は、それぞれ大運河北端と南端となり、ここに経済を握るための大運河南北軸が生まれます。
海岸の方というより、大運河の近くもチョイスになったということであります。
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