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No.4
- 回答日時:
西郷隆盛は歴史を回天(かいてん)させた確かに偉人である。
偉人となった後でも豪奢(ごうしゃ)におぼれる政府高官が多かったなか、質実剛健(しつじつごうけん)を貫(つらぬ)いた姿勢は人間的にも素晴らしい。
しかし西郷の言葉、「私らが維新(いしん)のためにやってきた事は、とても人に語れる事ではありません。」(かなり悪どい事もやってきたという意味。)
これは大事を成すにはやむをえなかった事情もあろうが、内容まではハッキリとはわからない。もしかすると※公武合体論者であった孝明天皇(こうめいてんのう)、その暗殺説もあるが、どうだか?。
※公武合体論(こうぶがったいろん)・・徳川幕府と手を組んで新政府を作り、共にやって行こうとする考え方。もちろん薩摩藩(さつまはん)は倒幕(とうばく。幕府を倒す事)が目的で考え方が違う。倒幕の理由は、独自の新政府を立ち上げるには莫大(ばくだい)な金が必要で、徳川が持っている金や領地(直轄地)が必要だから。
加えて維新後の公務員の士族雇用(しぞくこよう)に関するえこひいきもあった。これは西郷だけには限らないが、これは新政府に対する士族の不満解消の目的が大きな理由であったろう。
蛇足ではあるが、西郷は算盤(そろばん)が得意で計算にも明るく、おおらかなようで案外金勘定(かねかんじょう)には細かく口うるさかった。
しかし雇用だけではその数に限界があり、多くの士族の不満は解消できず、どこにはけ口を求めるかと言えば、海外侵略である。これが征韓論(せいかんろん)につながる。もちろん征韓論には日本防衛の目的もあるが、西郷としては前者の意義の方が大きかったかもしれない。(結局政府は征韓論を却下(きゃっか)し、台湾を侵略する征台論(せいたいろん)をとる。)
しかしこういう考え方は、後に世界恐慌(せかいきょうこう)に基づく大不況、それに対する国民不満やうっぷんを晴らすための満州事変や日中戦争という侵略戦争にもつながる事になる。そしてその結果が、太平洋戦争である。
ともあれ西郷の後半生は、不平士族への対処の苦悩の人生ではあった。
しかし西郷はやはり情が深かったのであろう。自ら不平士族と共に西南戦争で運命を共にした。自己犠牲となり、主(おも)だった不平士族を道連れにした。明治政府のために。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
中学をはるか昔に卒業したものです。
そのため、私が中学のときから知っておきたかった西郷隆盛の話を書きます。
以前、私はこの質問サイトで「同じ韓国支配でも西郷隆盛が目論んだものは政府の方針とは異なるのでしょうか?(質問番号:4461712)http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4461712.html」で質問させていただいたのですが、その質問および回答内容が参考になると思います。
No.2
- 回答日時:
書くポイントは、akieloveさんがどうして西郷さんを選んだのかというのも書いた方がいいと思います。
また西郷さんのこぼれ話とかを入れるといいのでは
これはテレビで見たのですが、(うる覚えですが
ある会合に時間になっても西郷さんがあらわれません。そこで会合から迎えの人が西郷さんの自宅を訪れます。そうすると西郷さんはその方にむかってい着物がかわくまでいかれないと答えます。
迎えの方は会合に戻りおこられるのを覚悟でその事を伝えると会合にいた大久保さんたちは西郷らしいと笑いました。
このように西郷さんはどんなにえらくなってもご自分の信念を曲げる事はない。昔のままである。ということです。
参考までにどうぞ。
No.1
- 回答日時:
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