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植民地という名前は韓国・台湾に対して戦前は公式には使ってたんですか。新聞とかもどうなんでしょう。

A 回答 (3件)

既に他の方が回答されている通り、公式には「植民地」という言い方は、なかったように思います。

但し、あくまで「公式には」です。参考URLは、日本の台湾統治を「文化摩擦」の観点から台湾人が振り返ったものですが、そこには「日本帝国政府も台湾総督府も、『台湾は植民地である』と公言した」、「良識的な内地人の一部は、『植民地』という言葉を口にすることに異議を唱えた」とあります。(「2 初期」の部分の後のほう)。)
新聞での事例があればよかったのですが、近くの図書館では戦前の縮刷版がそろっていませんでした。でも、傍証として、国会図書館の書誌情報で、戦前の出版物で「日本植民地統治論」、「日本地理統計総覧 : 内地及植民地. 1933年版」、「日本植民地要覧」とった書名を見つけました。というわけで、朝鮮・台湾を日本の植民地と考える見方はあって、それ程珍しくなかったんじゃないでしょうか?(推測ですが)。

そもそも「大東亜共栄圏」に代表される「同化」の概念が強力に打ち出されるようになったのは、国家総動員体制が強化される日中戦争~太平洋戦争からで、台湾の割譲を受けたり、韓国を併合した頃よりだいぶ後の話です。台湾割譲・韓国併合の頃は、それよりも明治維新後の流れを受けた「脱亜入欧」の発想の方がはるかに強いものがありました。(勿論、最初から「一視同仁」といったようなスローガンはありましたけど。)

尚、以下は蛇足ですが、参考URLにもある通り、植民地支配の類型に「同化主義」、「自治主義」と呼ばれるものがあり、日本はどちらかというと前者に入ります。同じ類型に入れられるものとしてフランスの植民地支配があります(今でも海外県という地位の植民地があります)が、宗主国が、ありがたくも『原住民』を文明化して下さる、という政策をとった場合の、『原住民』の精神構造を扱った人として、参考URLの最初のほうでもちょっとふれられている、アルジェリア独立運動のフランツ・ファノンが有名です。(参考URLの後のほう)いわゆる「親日的」になった台湾の人との比較を考えても面白いかもしれませんね。
それから、植民地に対して税金が投入され、それが現地の生活レベルを引きあげるのに役立つが、それに見合った経済効果を宗主国は得られない、というのは、他の国でもある事で(例えばカリブ海などの小さな島を植民地にした場合)、だから植民地ではない、というのは、どうですかね。

もっと蛇足ですが、朝鮮人衆議院議員第一号(二号っていたのかな?)の朴春琴は、国会で「朝鮮への徴兵制の導入」と「参政権」を要求していますが、彼の、日本の朝鮮統治に対する評価は、「貧乏者の数は滅じはしない、年々餓死する者もあれば凍死する者もあり、特に新政を謳歌すべき理由を、実際彼等は見出してはゐない」、(教育も)「日本語を学習させるために、特に力瘤を入れるのであって、教育のための教育ではない」「(朝鮮総督府のやり方は)汝等(=朝鮮人の事)をあらゆる意味に於て文化民たらしめ、幸福なる生活を営ましめてやるために政府は能ふ限り努力してゐるのであるから何事にも自我を去つて柔順であれといふのであった。民衆はこれを、所謂おためごかしの圧迫とより外了解しなかった」といったものです。
朴春琴の要求は無視され、「参政権」については、中々認められず、終戦直前に1945年4月に税金納付額で制限を受ける選挙権が台湾・朝鮮にも付与されましたが、選挙をやる前に戦争が終わりました。「終戦間近には朝鮮半島に普通選挙権が付与された」というのは間違いです。
大変、長くなり失礼しました。

参考URL:http://www.wufi.org.tw/jpn/jng01.htm,http://web. …
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その当時の日本には「植民地」という概念は


ありませんでした。
あくまでも日本の領土としての位置付けでしたので
欧米列強が自国(本国)のみの利益で支配したのに
対して、日本の場合、本気でしたので社会インフラなど
に力を入れました。
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使っていたかどうか確証ありませんが使っていなかったと思われます。



韓国は日韓併合で扱いは日本なみにするための過渡期にあるときに第二次戦争がはじまり、結果的に中途半端に終わったため、今日の不幸な日韓関係が生まれたと思われます。膨大な国家予算(日本国民の税金)を使って封建制の遅れた国を、国内に準じて開発した日本ですが、韓国人は全ての政策、制度を朝鮮民族を支配するためだったと受け取るので、両者の理解の差は永久に埋まらないような気がします。

台湾は朝鮮半島以下の位置付けだったにも関らず日本統治時代の功績を認め親日的なのは、昔の中国との関係(台湾人から見れば日本も中国本土政府も同じ外部の支配勢力)が影響しているのでしょう。

推測ですが、両地域ともに総督府が置かれ教育に力をいれ、工業化も進めていたので、西欧の全く異なる統治方式から生まれた植民地という言葉は使われなかった筈です。植民地では高等教育は行なわず、工業化の必要性など認められませんでしたから(工業製品は本国から買わせる主義)

参考URL:http://plaza.rakuten.co.jp/mrascal/005000
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