「障がい者」とはなんでしょうか?

最初に、いくつか例を挙げます。

・五体不満足で電動車椅子に乗ったOさんは、小学校の教員となることを志している。彼は自分で板書することも、教科書を開くことさえもできないが、介助員の手を借りて授業をするつもりだ。彼は、自分が教員となることで、子供たちに障害者への理解や、人への思いやりの心を育みたいと考えている。ただし、介助員を雇うのに必要な費用や校舎内を車椅子で移動できるように改修する為の費用は学校側が負担している。

・病気で全身のほとんどが動かず、唯一首から上のみを動かすことができるAさんは、中学校3年生である。卒業を控え、普通高校への進学を希望する彼女は、志望する高校に受験の為の特別な措置(介助者による代筆)を求めた。ただし、Aさんははっきりとしゃべることができず、介助者との間のやりとりの内容について客観的に把握することは困難である。また、そもそも彼女が普通高校への進学を希望した理由は、「普通のお友達と勉強したい」というものだった。

さて、知的障害であれ、身体障害であれ、私たちの周りに障害を持った方は存在しています。ヘレン・ケラーは言いました。「障害は不便である。しかし不幸ではない。」と。彼女の言にならって、あえて"不幸にも"とは書きませんでした。しかしながら、その不便さ、言い換えるとハンデを背負っているが故に、障害者はいつしか「弱いもの」「保護すべきもの」であるかのような扱いを受けている気がします。これは、女性差別などにも類似した現象が感じられ、ある種の逆差別が発生している場面があるのではないかと思います。

先程の例で、障害者"であるにもかかわらず"Oさんは積極的に社会参加をはかっていますが、ここで中心に据えられているのはOさんの意思決定、Oさんの存在です。逆に言うと、Oさんが教師をすることによって学校側は余計な負担を強いられますし、そのしわ寄せは生徒・保護者に及ぶのです。また、Aさんの例では、試験の公平性が保てるかは疑問であり、そもそもAさんが「普通のお友達」と生活をしたいというのは他の障害者を「普通でないお友達」であるととらえているからに他ならないのではないでしょうか。

どこぞのブログ市長が、高度な医療が障害者を生き延びさせて云々と書いていたようです。しかし、障害者をこれほどまでに"保護"しているのは人間くらいのものではないでしょうか。この意見を「正しい」とまで言い切るのはなかなか難しい世の中ですが、心のどこかで「確かに」と感じてしまう、そんな方はいらっしゃいませんか?

ブレーキの効きが悪い車はリコールされてしまいますね。しかし「不良品」という概念は人間に当てはめることは許されないようです。現在の日本での「障がい者」の扱いについてどう思われますか?あなたの意見を教えてください。

A 回答 (9件)

No4&8回答者です。


あなたの質問は、質問と言うよりも、意見であって、むしろ新聞や雑誌の投書欄に投稿すべき内容であると思われますが、あなたが障害者も健常者も同じ人間だということを前提に意見を述べるのであれば、書き方を変えて、例えば
「障害者も健常者も同じ人間として、あ互いにに思い遣りやいたわりの気持を持って接するべきだと思いますが、例示の場合は、保護が行き過ぎて、過保護ではないでしょうか」というような書き方をした方が良いでしょう。
謝罪なさっているし、私が障害者であるが故に、被害妄想だと言われても不本意ですから、細部に亘って反論するのは差し控えますが、あなたの論理を突き進めて行けば、点字や手話が必要な視覚・聴覚障害者、或いは車椅子で移動する身障者は、学力が高くて技芸が優れていても、普通の高校や大学に進学する道が閉ざされてしまいます。「私が頑張っているから、応援や支援をして下さい」というのは誤解で、「頑張って入る人を見かけたら、応援や支援をしてあげましょう」と、私は言いたいのです。これは身障者だけでなく、健常者にも言えることでしょう。
また、教壇に立っている身障者の教員の方々が、「教師をすることによって学校側は余計な負担を強いられますし、そのしわ寄せは生徒・保護者に及ぶのです」という論法は、障害者が幾ら教員として優れた資質を持っていても教壇から排除されてしまうことになり、不当な差別につながるので非人道的だと思われます。そして何よりも、現に教壇に立って、教育に情熱を燃やしている身障者の教員の方々のお気持を察すると、とても胸が痛みます。
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この回答へのお礼

まず、今回私がお尋ねしたことは、『現在の日本での「障がい者」の扱い』についての意見です。したがって一応は質問をしているものと私は解しております。
ただ、cowstepさんのご意見に対して私の意見を書いている、この点については確かに、そういった意見は新聞や雑誌の投書欄に投稿すべきものかもしれません。
したがって、このコメントを以て以降"私は"という形で意見を述べるのは控えさせていただきます。

誤解があったようで申し訳ないのですが、「頑張って入る人を見かけたら、応援や支援をしてあげましょう」という考え方については、なるほどその通りであると思いますし、これについて何も異論はありません。

ただ、それを"あなた"が、言い換えれば"頑張っている人"が堂々と言う、これが私にはよく分からないのです。
"頑張っている"人が「頑張って入る人を見かけたら、応援や支援をしてあげましょう」と平然と言う、残念ながら私はこの行為について永久に理解できそうにありません。恩着せがましい、とはまた違うのですが、なにか類似した気持ち悪さを覚えます。頑張っている人を見かけた第三者がそう言う、これなら何も問題ないようにも感じますが。

さて、先にも書きましたがあくまでこのサービスのメインは質問をして回答をもらう、という機能かと思いますので、私の意見を書くことは以降控えさせていただこうと思います。
コメントありがとうございました。

お礼日時:2010/02/10 11:41

No4回答者です。


あなたの質問は、全体として、障害者を欠陥人間と同視している論調であり、まるで欠陥隠しを非難するかの如き印象を受けて、全く不愉快です。
例示されている2件は、本来は障害にめげず頑張っていることに支援の手を差し伸べるのが人の道だと思われるのに、障害者を邪魔者扱いにして、教壇や教室から排除しようということに、憤りを感じます。障害者であっても、人格的に立派な教師は、尊敬に値します。私自身、職業は違いますが、障害者の一人として見習いたいと思います。因みに、私は普通学級で学び、健常者と共に、大学を卒業しました。若い障害者には、後に続いてきて欲しいと、願っております。

この回答への補足

確かに私は障害者について普通の人間よりも劣っている、と考えていますし、この考え方はおそらく自分がその立場にあっても変わらないと思います。残念ながら私はネガティブな性格なので自分がその立場にあったら障害にめげて頑張らずにあきらめてしまうとは思いますが。
もちろん障害をお持ちの方に不愉快な思いをさせてしまう意見であることは自覚していますし、現実に面と向かってこれを言えるか、と言えばそれはできません。

ただ、そう感じていること、これは事実です。
さて、
>>本来は障害にめげず頑張っていることに支援の手を差し伸べるのが人の道だと思われるのに障害者を邪魔者扱いにして、教壇や教室から排除しようということに、憤りを感じます。
という点について、この考え方がどうにも理解できません。

まず、障害にもめげずに頑張っている、と。これを当事者が言うのはどうにも気持ちが悪い。五体満足ならば頑張らずともすべて思い通りになるわけではありませんし、自分の希望や理想というのは誰しも努力してつかむものではないでしょうか。どんな困難があったとしても、「自分がしたいことにむけて」「自分がしたいから」努力する、これが自然な姿であるように感じます。であるならばどうして「私はハンデがあるのにこんなに頑張っている」と高言できましょうか?

また、それについて支援の手を差し伸べるのが人の道、と言い切る態度、これもよくわかりません。それがあって幸せ、というわけでもなく、あってしかるべき、それが当然という考え方には辟易とさせられてしまいます。

と、かなり極端な意見を書かせていただきましたが、誤解して頂きたくないことは、私は障害者を邪魔者扱いしたいわけではないということです。もちろん先に書きましたように、"普通の"人間と比べて劣っている(不自由な)点があることは否定しようのない事実かと思います。しかし、そうした人を切り捨てず、一人の人間として尊重する、これは確かに人の道のあり方であると思います。ですから、障害者に対して支援をする、これは人間だからこそできることであり、障害者を邪魔、ととらえるならばそんな支援はすべきではなく、そもそも人でなし、と切り捨ててしまえばいいのです。
しかし、繰り返すようですが私はそうは思っていません。
偶然障害を持って生まれてきだだけ(もしくは障害を持っただけ)であり、障害者も健常者も同じ人間である。同じ人間として尊重すべきである、これが私の考えなのです。

ただし、わざわざ教壇や教室を選んで障害者がやってくる、これはどうもよく分かりません。
障害を持った方々がどのような職業に就かれているのか私は存じ上げませんが、「授業」が教師の大きな仕事であることを考えれば、それ"さえ"独力でできないと明らかに分かっていながら"あえて"、負担を学校側に強いてまでその職業を選ぶ、これはなんでしょう?学校では道徳だけを学ぶ訳ではないのです。それを考えれば教師の本分は勉強を教えることではないのですか?授業さえ独力ではできないと分かっていながらわざわざそれを選ぶ、私には単なるエゴにしか思えないのです。自分に都合のいい言い訳をつけただけの。

そこで、何が言いたいか、と言えばもう少し周りのことを考えてほしい、と。「私はがんばっている」とはいえ、障害者は他人の手を借りなければならない場面が健常者よりは多いはずです。「やりたいからやる」という考え方が私たち健常者にどのような感情を与えるか理解していただけませんか?
もちろん、「やりたいからやる」ことを「やるな」とまでは言えません。職業選択の自由も権利として認められていますし、同じ人間である以上どうこう言う立場にありません。
ただ、もしも健常者も障害者も、"障害者"というものの認識にもう少し違いがあったなら、お互いにもう少し気持ちのいい関係を築けるのではないか、こう思わずにはいられません。

健常者であっても「やれそうなことをやる」という生き方をしている人や、色々な意味で「あきらめて」生きている人もいます。そういった生き方を障害者に強制できるはずはありませんが、消えようのない"手を借りる場面が多い"という事実、これをしっかりと見つめていただければ、もう少し違う答えにたどりつく気もします。

もちろん私に対して、「こいつは障害者を馬鹿にしている。私は障害を持っているにもかかわらず努力して身の回りのことはすべて自分でこなすし人の手を借りることも無い。仕事も人並み以上にやっている。」というような批判がおありかもしれませんが、「手を借りる」の意味を広く考えていただければこれがあたらないことはご理解いただけるかと思います。設備、手当、年金等々・・・。

補足日時:2010/02/09 14:20
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この回答へのお礼

ずいぶんと長いコメントになってしまいました。すいません。
意見としてこういうものがある、ということについては認めていただきたいのですが(もちろんこれが完璧に正しいというわけではありません)、cowstepさんに不愉快な思いをさせてしまったことをお詫びします。大変申し訳ありませんでした。

お礼日時:2010/02/09 15:41

厳密にいえば特別支援学級(養護学校)で通常の教育を受けるのは難しいと思います。


生徒ひとりにひとりの先生が付く訳でもなく、障害も様々な為にどうしても重度の生徒に合わせた授業になりがちですね。
あくまで私の場合ですが、自分の子供は知能的にはさほど遅れていないので、勉強の部分は家庭教師で補っているというよりメインになってますね。
学校の授業では全く進まないのが現状です。
ただ身体障害の場合は通常の授業だと思いますよ。

通常の学校に周りの迷惑を無視して無理やり通わせるのは、障害者を持つ方々の中でも意見は割れると思います。
正直、私は否定側です。
発達障害や自閉症またダウン症の子供って、自分が障害者だとの認識がない場合が多いので健常者についていけない可能性が大きいんですね。
まわりは出来るのに自分は出来ないなどの劣等感が積み重なり、本人の為になるかは判りません。
親が健常者と同じ経験を積ませたいなどの気持ちも判らないわけではないですが難しいところです。
親によっては子供に障害があるというのを認めず、学校から指摘されてもきかない親もいるようですしね。

ただ障害者への福祉は厚く保護されていますが、社会の受け皿は少ないのが現状です。
もっと社会の受け皿が広がれば、障害者自身も自立できるようになるので国の負担も減ると思うのですが、いまは健常者でも生活するのに余裕が無いですからね。
結論からいえば、障害者をなくすことはできないので、もっと障害者を自立させる世の中に変えていくのが大切だと思います。
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この回答へのお礼

非常に興味深いお話をしていただき、どうもありがとうございます。
こうして画面に向かって好き勝手にモノを言うのは簡単ですが、実際の障害者の方、その周りの方の努力を考えると頭が下がります。

ところで、「障害者を自立させる世の中」というものについてよろしければご意見をお聞かせください。
社会の受け皿、というのは簡単に言うと仕事のことですか?「障害者も自分で稼いで自分で食べていく」というような社会が「障害者を自立させる世の中」であるということでしょうか?もちろん健常者と全く同じ仕事内容を求める、というのはなかなか難しいことでしょうからなんらかの配慮が必要でしょうが。

実際当事者として、どのような環境や制度があれば「障害者を自立させる世の中」が実現すると思われますか?ご意見をお聞かせください。

お礼日時:2010/02/09 15:37

>>まれに(1)を選択する親もいます。

もちろんこれは違法なことではなく権利です。権利を通すか通さないかの問題です。
とのことですが、これはどのような権利に当たるのでしょうか。申し訳ありませんが説明していただけると理解の助けになります。"普通教育"をうける権利と言うことでよろしいのでしょうか。

もちろん普通教育の権利ですよ。
障害者だからと言って普通の学校に入ってはダメとの法律もありません。
ただいろいろな事情を考慮して学校側で拒否する場合もあります。
また聞いたことあると思いますが、プロ市民により学校側で拒否しても権利を主張して通る場合もありますよね。
これは良いか悪いかは別にして、かかわった先生、生徒に通常ではないいろいろな変化があると思われます。
たとえば授業中でも常に親が付き添っているなどですね。

この回答への補足

不勉強ですいません。

と、するとやはり養護学校のような場所では「普通の教育」がなされていないという認識を持つべきなのでしょうか。
逆に私は、より障害を持った人々に適した教育が行われている場所がそうした学校であるべきと思っていたのですが実態はやはり違うのでしょうね。
普通学級にわざわざ入学することでその学校が改めて負担する問題について、あらかじめ解決できるような設備が整えられている、そんな特別な学校はないのですか?もちろん教育の内容についてはパンやクッキーを作るだけでなく、極力普通の学校と同じような勉強をする。もしもそういった学校があるならば、わざわざ普通の学校に行く意味も薄れる気がするのですが。

これは私の体験談ですが、中学校の頃クラスに"こころのびょうき"というものを持っていた人がいました。彼は普段の授業の時間は特別学級に言っていました。彼が私の前の席に座っていた頃、彼はよく私にこう言ってきました、「消しゴム貸して」と。断る道理もありませんので貸しましたが、彼がやっていることはいつも一緒。なぜか消しゴムを机にこすり、消しかすでねりけし(ご存知でしょうか、消しかすをねったものです)を作って遊び始める。
ここで対応に困ってしまう訳です。怒ってけんかをしても、相手が普通の子どもならばただのけんかで終わる。にもかかわらず、相手が"こころのびょうき"を持っているだけで自分が悪人になってしまう。当時は納得できなかったものです。

障害を持っていることがまわりに与える影響について配慮する、それがあるからまわりも本音であれ建前であれ「おもいやり」を持つことができる気がします。逆に、なにか特権であるかのように「障害者なんだから」と主張する、こうした態度をとる相手に対していい気持はしません。

もちろん、これは私の感じ方です。一般の人々がどう感じているかは分かりません。ただ、uuron1さんのような選択は非常に良識があるものでありがたいと思います、少なくとも私は。

補足日時:2010/02/08 13:20
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>学校側は余計な負担を強いられますし、そのしわ寄せは生徒・保護者に及ぶのです


将来その設備が他の方にも活用されることを考えれば無駄ではないでしょうね。
駅にあるエレベーターや車いす用のリフト、歩道にもある点字ブロック、これらの設備は今現在必要としない人にとっても将来は有用なものとなるかもしれません。
それと同じ事です。

>他の障害者を「普通でないお友達」であるととらえているからに他ならないのではないでしょうか
そうかもしれませんね。自分の状態が「普通」であるとも考えていないでしょうし。まあ、それで何か問題があるとも思えませんが。
で、普通のお友達ができるかどうかはまた別の話です。

>試験の公平性が保てるかは疑問であり
疑問ですね。
このお話が事実に基づいたものであるのならそこのところにどういった折り合いをつけようという理屈があるのか詳細にちょっと興味があります。

>ある種の逆差別が発生している場面があるのではないかと思います
そういうこともあるでしょうね。
それはそういう場面場面で見直すべき問題ですね。
ああ、こりゃ行き過ぎたかな、とか。これは既得権益を失っただけで被差別感情を訴えているだけだな、とか。

>障害者をこれほどまでに"保護"しているのは人間くらいのものではないでしょうか。
その通りでしょうね。群れの弱った個体を手助けするのはゾウくらいのものでしょうか。他の動物には無い特長ですね。

>現在の日本での「障がい者」の扱いについてどう思われますか
私が子供のころ比べればずいぶん良くなったと思います。
駅前の道路工事で道に穴を掘っていても健常者で無ければ往来できないような歩行者用の足場しか無くて囲いや誘導する人員(費用がかかりますね)の配置なんて無かった70年代に比べれば。
盲学校の最寄駅だ、っていうのにそんな状態で良しとされていましたからね。
でも、一応のところ不自由の無い生活を送っている自分には気づかない様々な不便さや障害が世の中にはゴロゴロしているんだろうなあ、とも思います。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>>一応のところ不自由の無い生活を送っている自分には気づかない様々な不便さや障害が世の中にはゴロゴロしているんだろうなあ、とも思います。

確かにそうですね。我が家の祖父も車椅子で生活していましたが、"行きづらい場所"がたくさんあったことを思い出します。

お礼日時:2010/02/08 13:40

私は身体障害者です。

あなたは今は健常者かも知れませんが、もし交通事故で両足を切断して、車椅子生活者になった時、あなたはどういう扱いを受けたいと思いますか。他人事だと思うから「障害者をこれほどまでに"保護"しているのは人間くらいのものではないでしょうか」などと言うのであって、自分自身がその立場になっても、そういい続けることができますか!!!
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この回答へのお礼

まず、思慮のたらない言葉遣いで傷付けてしまったことをお詫びします。大変申し訳ありません。

ただ、「あなたがその立場になったら云々」の批判はよくわかりません。
私は確かに健常者ですが、実際障害を持ってみなければ分からない苦労や思いが当然あると思います。しかし、それがどんなものかはやはり実際障害を持ってみなければ分かりません。

その上で、「障害者をこれほどまでに"保護"しているのは人間くらいのものではないでしょうか」という言葉を言い続けることができないかもしれません。しかし、言い続けることができるかもしれませんね。ある種のあきらめとして。

今回質問文のほうで2つの例をあげましたが、あなたはこれらの事例についてどのような考えをお持ちですか?辛いから優先されてしかるべき、と?

お礼日時:2010/02/08 12:22

障害の子を持つ親です。


小学2年生で正確な診断は受けていませんが、広汎性発達障害及びアスぺルガー症候群の疑いがあります。
この子が小学校に入学する際、どの学校に入学するか選択しなければなりませんでした。

1、通常の学校を入学する。

2、通常の学校の特殊学級に入学する

3、児童支援学級(養護学校)へ入学する

です。

これは親の意思で決めることができます。

たとえばここで(1)通常の学校へ入学を選択するとどうなるか?
答えは通常の態勢では対応できないため、専属の教員を別に置く・対応できる設備にするなどの必要が出てきます。

(2)の場合はどうなるか?
障害の程度にもよるが学校には対応できる環境にあります。
しかし、登下校は親の送り迎えが必要になります。

(3)の場合は?
教育環境及び、登下校の環境も揃っています(大学付属系などは親が登下校をサポートする場合があります)

私も選択に悩みましたが(3)にしました。
やはり子供の為、まわりへの配慮を考えるとこの選択が良かったと思いたいです。

まれに(1)を選択する親もいます。もちろんこれは違法なことではなく権利です。権利を通すか通さないかの問題です。

しかし私が考えるのは、子供も大切ですが同等にまわりへの配慮も大切だと考えています。

はっきり言って障害者はある意味恵まれた環境にあると言えます。
皆さんが納めてくれた税金を沢山使わせていただいているのは事実です。

ここに甘えてばっかりではいけないと思いますね。
なので某市長の発言は理解できる部分もあります。

障害者とは自然界で言うと淘汰される立場にあると思います。
昔の時代もその傾向はあったと思います。

この回答への補足

コメントありがとうございます。

確かに健常者と比べて優遇されている面があるのかもしれませんが、「弱者は保護する」、そんなことができるのが人間の特徴かもしれません。もちろん、障害者=弱者との認識は適切ではないかもしれませんが。

>>まれに(1)を選択する親もいます。もちろんこれは違法なことではなく権利です。権利を通すか通さないかの問題です。

とのことですが、これはどのような権利に当たるのでしょうか。申し訳ありませんが説明していただけると理解の助けになります。"普通教育"をうける権利と言うことでよろしいのでしょうか。

弱者なのか、健常者を同じに扱うべきなのか、時には弱い者としての扱いを要求し、時には同じ扱いを要求する。このギャップがふに落ちない健常者なのであります。
もちろん、だから即刻障害を持った人々が滅びるべきだとか、それらの人への保護(社会福祉)等を打ち切るべきだとは思いませんが。

補足日時:2010/02/08 12:25
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足るを知る、上杉鷹山の言葉が身にしみます。



以前大西巨人と云う作家のご子息が2人共血友病で莫大な治療費
が掛かり、大西氏が生活保護を受給者で当然、月何百万という
金額は地方自治体の負担で、その上、彼は自身が書いている人類の
宝とも云うべき作品を生み出す環境として当時の生活保護世帯の
基準の住宅手当では足りないとゴネテ特例として庭付きの家に住む
事が出来た。当時は今とは比べ物にならないくらい左側の方達の
ごり押しがきき、役所自体が左人種の巣窟でしたから
まだ書きあがっても無い作品を傑作だの、人類の宝だのと”のたまう”
異常人を崇め奉っていて、それに噛み付いた渡部昇一氏が
一人目が血友病なのに、二人目も生んでのような事を言い
物議をかもしました。
私が思うのは、お兄ちゃんが病気(遺伝の可能性が高いとしても)だから
もう一人生んで自分達がいなくなった後を頼みたいという至極当たり
まえの考えではないかとも思うし、又、子を持ちたいという事に
異議となえるのは賛成できんが、この、大西氏の俺は特別と言う
態度にはムカついたおぼえがあります。
クラスに体の不自由な同級生がいて、指導者が良ければいい結果を
生みます。おもいやり、他者を慮ることが、これは金では買えないと
思います。
が、しかしベットに縛り付けられている様にも見える子供は
本当に望んだ事なのか、親がそう言い、子はただ従っているだけ
で、辛そうに見えて親のエゴの犠牲者のように見える時
その子をかわいそうと、、、。
もうそろそろ、多くの人がきれいごとを言っても、打出の小槌が
ある訳でも無いらしいと感じはじめて来ているのでは
私は長生きが良いとも思わない人間なんで
あんまり自然に逆らうような事しても幸せでないよと言いたい。
ごめん、やはり、この問題には言葉の制約を自分が自分にかけて
しまいなんだか取り止めが無く参考にもならんね。
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この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

なかなか敏感な問題だと思います。だから実社会で思い切って話をする機会も少ない。

人間もいきものの一つである、そこまで広げて考えれば、障害を持ったものが淘汰されないのはおかしい。しかし、人間は知性やら文明云々があるからそんな考えはあたらないとかなんとかかんとかおっしゃる方々の意見にうなづかないわけにはいかない。
ただ、表面的に、きれいごとを並べ立ててものを語ることでは何も解決していかない気がするのです。

最近全く理解不能なのは、「障害者」の表記を「障がい者」へ改めろ、というもの。この文字の変更がどれだけの意味を持つのでしょう?害ががいに変わると障害は少しでも軽くなるのでしょうか?

この手の問題を考えると、決まって当事者の方は感情的に訴えます。逆に大体の健常者はなんとなくそれに肩入れしてしまうし、あまり強い主張はできない。とくに公の場であればなおさら。それはなぜか?他でもない、相手は「弱いもの」であるという認識が根底にあるからに他ならないのではないでしょうか。

おかしなものですね。本音と建前、そのずれがある限り、結局は障害者の方への真の理解は得られないのではないかと思ってしまいます。

お礼日時:2010/02/08 12:41

個性ですね、因果応報の法則ですね。

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この回答へのお礼

個性はともかく因果応報の法則と言うのは意味が分かりません。
それは何故ですか?

お礼日時:2010/02/08 01:17

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