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石田三成が生き残る方法はなかったのでしょうか。
1.秀吉が生前に うまく後継者(秀頼)への帝王学教育と権限委譲ができていなかった状態で秀頼を後継者に指名した。
2.実力、格からいって、徳川家康と前田利家が秀でていた。
3.石田三成は能吏ではあったが、不人気。
(おもに家康の戦略によるものと「天地人」では描かれているが、三成が社交的でなかったことも一因と思っています。)

の上記3点は、歴史的事実として受け入れられていると思いますが
この状況で、史実上の石田三成は 利家没後 どのように身を処すべきだったのでしょうか。

A 回答 (4件)

ご質問に歴史的事実と書いておられましたが、事実の部分もありますが


基本的に歴史的事実ではなく、後の流れを知った人間が結果から推測した歴史ですね。
それと研究が進んでいない時代に作家が想像した三成像で、今もその
流れをくんだ三成説ですね。

その歴史から考えると、武断派武将に過去のいきさつを謝罪し、
自主的に完全に隠居する事ですね。

または、関ヶ原の戦いさえ画策しなければ、所詮はただの小大名
ですから普通にしていれば死ぬ必要はなかったかもしれませんね。
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はじめまして こんばんは



利家 没後 でという事は… 加藤清正らと揉めて 佐和山にて謹慎… さらに上杉征伐も 起こるとして 三成が生き残るなら…上杉を裏切って 大人しく謹慎するしか…確実なのは 仮に潰れても高野山で生き残る?かな
挙兵するなら 遅らせて 確実に 上杉と上杉征伐軍が交戦してから そうすれば 根回しも密に出来たのでは? 毛利輝元と吉川広家も意見まとまるでしょうし

実際 吉川は輝元に総大将引き受け 辞めさせようと手紙出した時には遅かったとか 大谷義継は上杉征伐に加わる途中佐和山で挙兵の話を聞かされたり… 真田から 三成に挙兵の話が遅いとお叱りの手紙が 残ってたり 根回しはかなり不足してます。上杉交戦の報があり なおかつ毛利輝元 安国寺 毛利秀元…と 吉川広家が 固まれば さらに 佐竹も当代の意見が勝つ見込みも出てくる… 島津も動くかも
前田も…小早川、脇坂、朽木、赤座、小川も
と かなり 戦況は変わるかと…

ただ 徳川は 史実でも 関ヶ原の家康以外に 主力 秀忠 関東に結城秀康を残し そう簡単には関東まで潰せないし 長期戦に となると 奥州は 伊達最上と上杉
九州は 島津と黒田 が覇権を争い 三成にまとめる力はな
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 こんばんは。



 石田三成は非常に優秀で切れ者であったが、ことを運ぶのに根回しをあまり行わず、正論を振りかざして豊臣政権を守ろうとしたことが、煙たがられて思うようにことが運ばなかったのではと思います。

 豊臣政権を一人で背負っていると思い真剣に動き回ったが、人の心を動かすことが苦手でそれが裏目に出たのでしょう。

 毛利や小早川をもっと立てて、自分が先頭に立つのではなく、まとめ役をしながら、低姿勢でお願いして、目立たない行動を取れば良かったのかもしれません。

 でも、生まれ持った優秀さのプライドがそれを許さなかったのが結果に至ったのだと思います。

 ちなみに私は戦国武将やお城巡りも好きで、大河ドラマ「天地人」も見ましたし、石田三成が築城した彦根市の佐和山城址を訪れたこともあります。山城の入り口にある三成像が物寂しそうな感じでしたね。
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豊臣の世を存続させようとすれば道はない


ただ生き残るだけなら家康に尻尾振ればよい

秀頼が若すぎたのと秀吉存命中に家康を処分できなかったのが痛い
後、毛利をもっとコントロールできればよかったかな
結局毛利の内部分裂と出陣しない輝元に振り回された
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