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旦那の姉が熱心な仏教徒です。
実家の近くに嫁入りし、姑舅と同居し、月に一回は実家の墓の掃除をしているそうです。
実家の仏壇に線香をあげているところを見ましたが、ただ手を合わせるのではなく、ブツブツとお経ではない言葉(お守り下さい・・的な)を口にしていました。

そんな義姉は、私の旦那に言わせると「ちょっと神がかっている」そうです。ずっと義姉を見てきた旦那だからわかるのでしょう。
ちなみに旦那も私も特に宗教にこだわりはないタイプです。
でも義姉はお寺さんをとても大事にし、実家の祖父母の13だか17だかの回忌の法事も熱心にやりたい様子。
まあ、仕切るのは義姉ではないのでいいのですが。

で、素直に質問なのですが、普通「宗教」と聞くと「怪しい」と身構えてしまいます。特に今の住んでいる地区では、いろんなおばさんが朝からなにやら話を聞かせたいとやってきます。
仏教とは違う印象を持ちます。

ちなみに、私の寺に対する見方は「仏教の教えを広めることを忘れ、ただの職業としてしか寺として機能していない。死人に戒名をつけるのに、なぜ金額の大小があるの?それは金を積まないとあの世でいい暮らしが出来ないと言うことでしょ」・・・という感覚でしかありません。

でも義姉は違うようです。
ただ、私は最近旦那と結婚して、旦那の実家から駅2つ分の所に住んでいます。でも姑は実家のご近所への挨拶回りを私にさせたいそうです。その時、義姉がお寺さんへも挨拶に行くべきだ、でないとどうのこうの・・・と言っているのをちらっと耳にしました。
住職に挨拶しなければ立場がなくなるのでしょうかね?そんなことにケチをつける住職なら、仏教に携わる資格がないんじゃないの?とも思うのですが。

つまりは考え方が田舎なのです。ですから「宗教を大事にする事」と「近所の目、住職の目を気にする事」がごっちゃになっているのだと思うのです。でも彼らにはそんな事は理解出来ませんし。

自分でも書いている内容がよくわからなくなってきましたが、
質問は「仏教をとても信仰する人」の気持ちはどんなものか、です。
新興宗教と同じなのか、ちがうのか?

ちなみに、私の友人も義姉と同じような姉を持っていて、「あの人達はあの世へ行っても仏様が守ってくれると真剣に信じているのよ。田舎だから」と言っていました。

宗教にすがる、という心情が私には皆無なので、でもそれを無駄とは決して思いませんが、同感出来ません。おそらく、単なる信仰心だけじゃなく、田舎特有の人間関係の面倒臭さがプンプンと臭うからだと思います。

よくわからない質問ですみませんが、ご理解いただけた方だけ、御回答よろしくお願いします。

A 回答 (10件)

世の中みんながあなたのような見識をもっていればいいンですが……。


寺へあいさつへ、というのは江戸時代から続く檀家制度をそのまま踏襲しているからです。以前は集落の住民台帳をなんと寺が所有、管理していましたから。いまは「墓がある」という一点でなんとか法事や葬儀を獲得して生計をたてる手段にしています。
義理のお姉さんは信仰というより奉仕、貢献する自分の姿に心のよりどころを求めているように思います。
ただ、前述したとおり法事や葬儀、供養は多額の出費を強いられますから、あとでトラブルにならないよう普段からルールを決めておいたほうがいいですよね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
昔の寺というのは、村になくてはならない存在だったのですね。

>義理のお姉さんは信仰というより奉仕、貢献する自分の姿に心のよりどころを求めているように思います

…この文章は、とてもピンと来ました。義姉は仏様だけでなく、義親にも奉仕してきたようです。いわゆる田舎の嫁としての責務を果たしてきた人ですから。私なんかより、とても真面目な人なんです。

でも宗教関係の事となるとヒステリーを起こすのです。こればかりは本末転倒だと思うのですが。義姉も奉仕の心に縛られて、自分の心を蝕まれる事のないようにしてほしいです。

お礼日時:2012/02/21 12:30

墓参りうんぬんをするというのは、先祖のため人のためではありません。

本人のためです。

それはなぜなら、人間の生きる意味とは、何かを感じて今よりもよりよく活かしていくことだと思うんですが、それは裏では人は死ぬということが前提になっています。

だから、人の死、墓などを大切にするんだと思います。

それはまぎれもなく本人のためです。

そこで、「本人のため」ってのが難しい。何を感じてよりよく生きるかを自主的に考えるならば、確かに仏にすがりすぎて頼りすぎても本末転倒なんですね。何を感じてよりよく生きるかを自主的に考えるために、裏の前提として死ぬことを再認識するために墓参りうんぬんするなら良いとは思います。

死ぬことを再認識することでよりよく生きる何かを得られることは、
宗教に依存しすぎたり傾倒しすぎたりすることとは違います。

でも、何にもすがらすぎないで自らの改善点を見つけずによりよく生きるための何かを感じようともしていない状態よりかは良いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

おっしゃることはとても理解できます。
墓掃除をする、先祖に手を合わせる、という行為は自分の生を確認する意味でもあるのですね。
そうですね、寺のためではなく、自分のため。

超ドライな私ですが、この質問でたくさんの方にご意見を頂戴でき、大変勉強になりました。

お礼日時:2012/02/21 13:46

>つまりは考え方が田舎なのです。

ですから「宗教を大事にする事」と「近所の目、住職の目を気にする事」がごっちゃになっているのだと思うのです。

私は仏教徒ではありませんし、私の地域では質問者様のお義母様のいらっしゃる地域のようではありません。
しかし、「それはそれでいいのでは?」と思います。

TVの歴史番組の受け売りなので別の説があるかもしれませんが、室町(だと思った)以降、幕府は民衆の戸籍管理を地元の寺にさせていたそうです。だからA宗派信徒だった人がB宗派の寺の管轄地域に引っ越してくると、自動的にA派の門徒からB派の門徒になり、その寺の檀家として登録されていた、と。

だからその流れを考えると、地元のお寺に挨拶に行くのが奇異でない地域もあるだろうなぁ、と思います。そういう地域では寺の住職は「相談役」「ご隠居」的存在なのでしょう。
「男はつらいよ」で登場する御前様が地域の事を詳しく把握していたり、何かあった時に彼に会いに行く様子は自然で微笑ましい感じがしませんか?

考えが田舎、とおっしゃいますが、別に挨拶に行く事で質問者様に不具合が生じるわけではないのですから、「地域のご隠居に挨拶に行くのがここの慣わし」と思ってはいかがでしょうか。

お寺が金儲けしているかのような印象を受けられているようですが、これは他の国・他の宗教でも見られます。

何故かと言うと、「神仏事で飯を食っていくなんて不純だ。宗教に従事している人間は清貧でなければならない」という人々の考えがあるからです。

宗教施設に従事している人間は霞を食べて生きているのではなく、自分が食べ、家族が食べて「生活」していかなければなりません(妻帯者の場合)。どこか本部から給料が入るならいざ知らず、大概の宗教施設はお寺で言う檀家さん達のお布施等でやっていくのでしょう。地域の人達が「神仏に従事しているくせに人並みの生活をしようと(=収入を得ようと)しているのか、嘆かわしい」という考えの場合、内職をしたり極貧生活をする宗教関係者は沢山います。

それでいいのでしょうか?

彼らは(大概の人は)金儲けのためではなく、信徒の人達のために宗教に従事しているのだと思います。
そんな「世のため人のため」に働いている人は最低限の収入も得てはいけないのでしょうか。

このようなお寺事情では、戒名や冠婚葬祭での「臨時収入」を得ても仕方ないのではないでしょうか。
お寺の場合、檀家のお布施が月極・年極であるわけでなく、「冠婚葬祭でもらうだけ」という場合も多いらしいです。
仏教講話を定期的に開いているお寺もあるようですが、「宗教って怪しい」「面倒だ」「別に知りたくもない」と倦厭して参加される方も限られているのではないでしょうか。

教えを伝える場を提供しているのに反応が薄い、安定した収入がなくお布施をもらうという「権利」を行使すると「坊主のくせに金儲けするとは」と嫌がられる。

私自身も私の親族にも宗教関係に従事している者はいませんし、私は仏教徒ではないのですが、宗教施設関係者の方々が可哀相に思います。

どの宗教でも都会ほど宗教色は田舎に比べて薄いです。宗教を通した地域交流も薄いですよね。
逆に言えば、地域性なのだか信心深いのだか分からない面倒くささは田舎の方が強いかも。

「そういう地域なのだ」と思って「郷に入っては」で進むしかないのかもしれません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「今の宗教の在り方」と「義姉の考え方」は別問題として考えなければいけませんが、
「寺に挨拶」は、いいのです、別に。でも行く理由が「立場がどうのこうの」と言われては「やっぱり田舎の人間だ」と言いたくなるのです。そして「信仰している宗教に縛られていませんか」と言いたくなるのです。

回答者様のおっしゃる今の寺の生計については、それも現実問題のひとつでしょう。
それでも「寺の改修費だ」「寄付だ」でお金を一方的に要求する現実も事実。
「お布施額は不明瞭」という葬式の度に頭を悩ませる料金システムも煙たがられる一因だと。
寺のシステムも、現代社会に取り残されないように変わっていくべきなのかもしれませんね。

お礼日時:2012/02/21 13:39

こんばんは。



貴方の感性は概ね良好と感じました。私も家の墓を守らねばならない立場として兄弟や親との概念の違いを感じずには居られない状況ですので。

信仰心はとても大事な事ですが、自分の価値観を他人に押し付ける事はナンセンスです。突き詰めれば宗教感の違いが個人から国家の争いまでに発展します。

大事な事は形式や風習・習慣ではなくいかに祈る(意乗る)事が出来ているかだと思います。わたしも今の宗教法人の形骸化や商売ありきのお布施等には大いに疑問を持っています。

ただ自分の主張を押し通すのは得策ではないと思いますので、今生のシステムではそこそこ流れに乗ることも時には必要とは思っています。

貴方の確たる信念は内に秘め、付き合いという部位では“いなす”スタンスが良いかと存じます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

旦那も長男で、頼りない弟には任せておけず、実家の世話をしようと頑張っています。
旦那はいわゆる現代風の感覚を持っている人なので、だから私も文句を言わず(言うと悲しむので言わない)理解していくつもりです。
どうせ私もなんだかんだとあの世にいくのですから、ある程度の流れに乗るのは必要ですね。

お礼日時:2012/02/21 13:28

”「仏教をとても信仰する人」の気持ちはどんなものか、です。


新興宗教と同じなのか、ちがうのか?”
  ↑
基本的には同じだと思います。
新興宗教は、まだ市民権を得ていないので
胡散臭さが強いだけでしょう。

宗教も、己を律する為にやっている分には
いいのですが、そんな人は見たことがありま
せん。

皆、自分の利益「だけ」を求めているだけのように
思われます。
お寺さんなど、完全に商売です。
宗教産業株式会社ですよ。

口の悪い人は、仏教は、死体に群がるハイエナ産業
だと言っています。

織田信長が比叡山を焼き討ちした気持ちが
理解できます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
これまた、きっぱりばっさりしたご意見ですね!さっぱりします!!

私の周りにも、「法事の度に坊さんが3人も来る。なんでそんなに来るのかね?1人1人にお金を包まなくちゃいけないし」とぼやく人がいました。
テレビでも、商売寺の事を問題にした特集も見ました。

仏教も新興宗教も基本的には同じ、とはやはり怖いですねー。
そうですね、己の心の問題なんですよね。
義姉は救われているのでしょうか?
それとも「田舎の考え方」が悪いのでしょうか?

お礼日時:2012/02/21 13:23

私の考えは、宗教を信じている人は、欲深い人たちと思っています。


お経を唱えれば、お布施をすれば、神様が、仏様が多くの幸せを自分にくれると信じています。
自分は、何もしないでも?

自分の欲を実現するために、貴女も巻き添えを食っているだけです。
新興宗教も、同じようなものだと思います。
欲が深ければ、深いほど、はまれば抜け出せなくなります。
それに伴い、お供えするお金も大きくなります。

欲のない人は、他人から騙されたり、宗教をする必要はありません。
自分のことは自分でします、神様、仏様に頼み事をする必要はありません。

私も信仰心はありません。
人は、死ねば、自然に帰り、無になります。
屍は、鳥や動物のえさになり、木々の肥料になります。

これは以前90歳の和尚さんから聞いた教えです。

今の自分があるのは、ご先祖さんがいてくれたからです。そのことには感謝しましょう。
そんな気持ちで、お墓参りするようにしています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

欲とは怖いものですね。
私ももちろん欲はありますが、お布施を多く出すならそのお金で自分の欲を満たす方がいいと考える超現実派なので、それで私には頼み事をする習慣がないのですね。

私は人に頼ることがあまりない、頼ることになれていない人間かもしれません。

>人は、死ねば、自然に帰り、無になります。
屍は、鳥や動物のえさになり、木々の肥料になります。

…そうですね。私はつねづね、食べ食べられ関係の生態系からはみ出した人間という生き物だけが死んでも何も残らない、ただ食べるだけで、地球に恩返し出来ない、と思っています。

八百万の神はこれは私の心の中にも存在します。仏に感謝するよりも太陽や空気に感謝する方が私には性に合っているのかもしれません。
そして、今の幸せな暮らしをさせてくれる両親や先祖にも感謝しなければなりませんね。

お礼日時:2012/02/21 13:17

日本は紛れもなく宗教後進国です。


精神性の教育などが遅れていますので、信仰をもつ者が珍しがられる数少ない国なのです。
ただ、日本人に受け入れられるのは冠婚葬祭でのアクセサリとしての宗教なのです。
いわゆる葬式仏教と揶揄されています。

信仰とそれ以外を曖昧にしてきた、数十年前の典型的な日本人なのです。
だからこそ回忌系のイベントをやりたがるのです。寺社の営業と思いましょう。

仏教と神道のいちばんの違いは、いちばん尊重すべき者を自身の内に求めるか
自身の外の神に求めるかの違いです。ただ、どんな宗派であれ、善い事をした人間は
称賛されるべきですし、その反対であれば結果も同様でしょう。

結局、宗教というのはポリシーが濃厚になった物であり、無宗教も靖国も、一つの宗教と
捉える事が出来ます。ざっくばらんに言えば肉食主義と菜食主義の違いでもいいですね。

質問者が嫌うのは、在家信徒(檀家)が寺社を支える図式ではないでしょうか。
しかし、僧なんて存在はあってもなくても宗教そのものとは関係ないのです。

ただし、理屈に合わない事は、俺は嫌いです。あの世で救われると唱える宗教がありますが、
そう発言する輩が自殺したなんて話を聞いた事がありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
わかりやすい説明です!

信仰とイベント。
そうですね。私もクリスマスが大好きですし、海外へ行けば教会に行きまくります。正月には神社で柏手を打ちます。で、葬式の時だけ数珠をもって線香をあげます。

ポリシーはわかりやすい言葉です。物事の本質をしっかり見ることが出来れば、義姉も穏やかになれるかもしれませんね。

お礼日時:2012/02/21 13:07

どちらかというと、あなたが宗教に偏見を持っているようにも見えますが。



義姉さんが仏教徒であって、何か迷惑を被っているのでしょうか。
今のところ住職に挨拶をするよう言われて、行くのが面倒とかその程度では?
義姉さんにしてみれば、お世話になっている住職に
新しい身内と顔合わせて挨拶して欲しいというのは、別におかしい考えだとは思いません。
まあ田舎的といえば田舎的ですが「住職」が「町長」や「地主」に変わってもあることでは。

もし義姉さんがやたら仏門に入ることを勧めてきたり
何かと金を要求してきたり
壷だの何だのを買わせようとしたら、その時に非難すれば良いでしょう。
新興宗教が嫌われる理由は、そういうことをする輩が多いからではないかと。

全ての寺の人が金儲けに走っているわけではありません。
むしろ近年は檀家が減っていき、廃寺も増えています。
残念ながら、寺を維持するのにもお金がかかるのだから、どうしようもないことです。
金儲けしている坊主ばかりなら、そんな事態にはならないでしょう。

世界ではなんらかの宗教を信仰する人が殆どです。
何10億といるキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒……
あなたは欧米、アジア、中東、世界中にいるこれらの人々を
全て理解できない人種だと思っていますか。

信仰を持てとか入信しろとか言うつもりは一切ありません。私も無宗教です。
ただもう少し、ナチュラルな見方が出来るようになるべきではないでしょうか。
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この回答へのお礼

私は偏見を持っているのではなく、ただ単に宗教に関心がないだけです。

「住職に挨拶しないと立場がどうのこうの」という考えは、はっきり言って、おかしいです。
これが「住職さんにはお世話になっているし、これからも顔を合わせることもあるから挨拶しよう」と言うなら納得出来ます。この違い、おわかりですか?

>世界ではなんらかの宗教を信仰する人が殆どです。
何10億といるキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒……
あなたは欧米、アジア、中東、世界中にいるこれらの人々を
全て理解できない人種だと思っていますか。

…理解できないと誰が言いましたかね?
私は、日本の寺の役割は宗教を教え人を正しい方向へ導くお手伝いをすることにあると思います。
でも、実際はそうじゃないただの生活の糧を得るための職業でとどまっている寺も多いと聞きますし、私もそう思います。

世の中の寺の在り方については今はおいといていいのですが、私の今の疑問は義姉を見て「自分を楽にしてくれるはずの宗教なのに、逆に縛られている」と変に感じた所に端を発しています。

義姉は勧誘はしませんが(今後はわかりませんが)、寺の事について義姉と兄弟とで考え方に相違があるとヒステリーを起こします。仏教を信仰して心を蝕まれるなら私は仏教の教えは一切聞きません。

お礼日時:2012/02/21 13:02

何かを信じるということ。

それはすべての人が共通していると思います。
科学だってある意味では『科学』というものが神の宗教のようなもの。
常識だって『常識』という神を持つ宗教のようなもの。
(以下略)

まぁそういうことです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

何かを信じる。
…以下略の続きが聞きたいです!

信じる…といえば、私はとても冷静で自分で言うのもなんですが、物事は公平に、それぞれの視点で多角的に見るべきだと思い、今までずっとそういう考えで人を見ていました。
何かに入れ込む、とか、熱中する、とか、人の言葉にうんうんと頷く、とか、…ないですね。
だから、信じる、という事があまりなかったような。
今お騒がせの占いもしないし…。

時々思うのですが、朝から宗教の勧誘に来るおばさんに着いていって、話を聞くと自分はどう感じるんだろう、この人達が伝えたい事は理解できるだろうか、とか考えてしまいます。
まあ、あとで面倒な事になるだろうから、と行かないですが。

お礼日時:2012/02/21 12:43

私もすがる気持ちもありませんが、田舎ならではの当然の行動もわかります


キリスト教でも熱心な方は、結構な金額を寄付していたり、金額が多ければ信仰心が強い・教会での立場が強くなるなど、ごちゃごちゃあります。そのプレッシャーも自分にもきます。

日本に『郷に入れば郷に従え』の言葉があるように、聖書の中でも同じ内容の言葉もあります

関わりたくないのであれば、そこに立ち入らない事が良いと思います
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

私の旦那は非常によくできた人で、義姉や姑の行動を冷静に客観的に見ています。
私がいわゆる田舎の風習を嫌がっていることもよく知っていて、しかも旦那自身も「田舎は面倒」とも言っています。

ただ、旦那は「親や祖父母には世話になったから、墓など最低限の事はしてあげたい」と言います。当然の気持ちですし、私ももう少し何かに手を合わせて拝む姿勢を身につけなければいけないかしら、とも思います。

お礼日時:2012/02/21 12:34

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