
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
捏造の可能性が高い史料が多い、という指摘なら首肯する。
小生は、学生時代に戦国末期の東北情勢について郷土史料を交えて研究する機会があったのだが、多くの史料において、上杉家のインフレ評価が散見されるように感じた。
特に、羽州探題『最上家』(その家系全般)に対する上杉家の史料は虚偽・捏造をベースにしたものが多いように思われる。
では、それは上杉家だけに通じる傾向か?と言われれば、勝ち残った側の歴史記述上のエゴイズムであろう。
要は『歴史は勝者のもの』が通用してしまう部分があって、幕府に従属的姿勢に変化した上杉家の史料が口伝含めて残っていることもあろう。
ただし、小生の知己も指摘しているが、上杉家は、越後長尾家の時代から史料の改ざん・捏造が多く散見される、とのことである。
そうならざるをえない当家の政治背景もあろうが、歴史家が上杉贔屓な場合も指摘できよう。
もっと言えば、上杉贔屓の方が”立ち回りやすい”こともあろう。
(立ち回りやすいというのは文献上だけではなく研究者としての価値などの領分である)
いずれ宇佐美定満などはそれこそ怪しい史料ばかりなのだが・・
越後長尾家のインフレ評価は、それこそ知っている人だけ知っていればいいように思うので、小生は史実性については、常に「怪しいなぁ」と認識している。
以上
No.5
- 回答日時:
信長公記は絶対的な史料ではありませんので、そこに載っていなくても史実が疑われるわけではありません。
また、質問者のあげる本願寺書状がいつの年代のものかわかりませんが、当時の史料では毛利・本願寺・上杉が連携して織田への攻撃をしていたことは明らかですし、本願寺関係者の書状でも上杉氏の北陸への出兵は確認できます。もう少し勉強されたほうがよいかと。
よって、質問の例で上杉家に捏造があったと考えるのはナンセンスであり、上杉家に捏造が多いのはなぜかという質問には応えようがありません。
ただ、手取川の戦いに関してはよく知られているような上杉の大勝であったかは疑問とされています。当時の史料がほとんどないためです。今後の検証が期待されるところです。
No.4
- 回答日時:
No.3
- 回答日時:
基本的には「史料と史料批判」の問題ですね。
先ず「史料」ですが、定義としての「史料」は『ある事実を記録したモノ』であると同時に『ある事実に関して、それを見聞した人間が記したモノ』の両方の特質があります。両者共に「事実を語る」点は同じですが後者には前者にない部分が加味されています。一般的に「評価」と呼ばれる「歴史叙述」の根幹をなす部分です。
Aという史実に関して、Iという史料には記載があるがIIという史料には記載がない。或いは異なる記述がなされている、ではどちらの史料を信用すべきかとの問題が新たに派生する。
これは歴史学を専門とする者が常に直面する「史料批判(テクスト・クリティーク)」の基本的問題ともいえます。
問題の「上杉氏」に関する史料記述の性質ですが、これを具体的に語る問題ともいえます。「越中=一向一揆」を例にしてお話しします。
「越中一向一揆」は単純な対立関係の構図で説明できるモノではありません。「衆としての一揆」が持つ階層の複雑性を内包し、当初は隣国である加賀の一向門徒衆が領主である富樫氏の抑圧を回避する目的で越前に逃げ込んだことを発端としています。
これに対する越中側の対応は、門徒衆が立て籠もる瑞泉寺に攻撃を仕掛けるものの逆に返り討ちに遭うとの経過を辿ります。この時に門徒衆と実際に対峙したのは福光城主の石黒光義です。謙信ではありません。
その後の一揆の顛末ですが、越中の砺波から加賀に掛けての影響力を行使する形になりますが、蓮如の後継者間による内部対立が原因となり加賀の一向門徒衆と本願寺の間での内部一揆に変質し、最終的に加賀一揆は本願寺の支配下に入ります。
さて「一揆組織全体」と領主の関係がどうなったのか、との最初の問題に戻りますが、一揆と上杉は和睦の形を選択しました。互いの利害が一致したことに起因します。
石山本願寺にとっての主たる敵対相手が信長であり、地理的要因としてその拠点の背後にあるものまた大阪湾の先にあるのは毛利といった状況の中で打開策を見出すなら、北陸一帯に位置する信長への歯止めとして上杉との関係を良好なものとせざるを得ないとの差し迫った脅威への対応 、敵の敵は味方に基づく選択肢です。
歴史上は最終的に本願寺が信長に屈する形となりますが、そのプロセスには表面をただ撫でただけでは現れてこない部分か幾つもあることにお気付きでしょう。
ですから「『信長公記』に書いてあることは全て事実である」との判断も性急であり、逆に「『信長公記』に書かれていないから、それは事実ではない、架空の可能性が高い」との判断も成り立たないことになります。『信長公記』で対象として描かれているのは信長であり、信長とその権威にとって都合の良くないことは書かないことなどは暗黙の前提です。
「史料」の性質には幾つもの区別とレベルがあります。
(1)全面的に信頼しうる
(2)部分的に信頼しうる
(3)信頼するに全く値しない
ある史実に対して「史料I」はこの様に記しているが「史料II」には全く逆のことが記されている、更に「史料III」には何も記されていないとの場合、質問者様は対象となっている「史実」をどう受け止めますか。そのために「史料I・II・III」それぞれの問題点をどのように整理しますか?。
歴史学を専攻する学生ならば「史料吟味」と即座に回答するはずです。史料I・II・IIIに対しそれぞれの成立過程、史料に対する傍証となる同時代の別の史料からの検証などから「史料自体の信憑性」を検証する地道な作業の連続です。
膨大な史料の山との格闘と時間の求められる作業であり、さらにその史実に対する研究者側の立ち位置といった「歴史に何を求めるか」といった自らの価値観を問われる大問題にも直面せざるを得ないとの背景を抱えることとなります。ですから極端な話「一点の史料の信憑性」に生涯を捧げる研究者もいるほどの世界です。
単純に「誰それが○○を行った」だけで済む性質の問題ではありません。歴史趣味の方にとっては厳しい言い方になりますが、「『学』としての歴史学」と「『趣味や教養の一環として楽しむ』歴史」では大きな隔たりがあることだけは確かです。
因みに「一向一揆」に関しては井上鋭夫の『一向一揆の研究』笠原一夫の『一向一揆の研究』新行紀一の「中世後期の農民闘争一向一揆」(『歴史の理論と教育』所収)、70年代後半から80年代にかけての研究の到達点を示す『講座 一揆』および日本の中世を理解する上での基本概念である「大名領国制」に基づく永原慶二の諸論稿、毎年次の研究動向を知る情報源として「史学雑誌 5月号」。
史料として「中世政治社会思想」(『日本思想体系-21・22』)『中世法制史料集』『史料綜覧』『大日本史料』『大日本古文書』『山科家礼記(『史料纂集』所収)』『後鑑(『国史大系』)』は御覧になりましたか?。でしたらこの様な質問をなさらないはずですが。
僕の「史料に対するスタンス」は、ふ~ん、では別の史料を見てみようか、との相対主義であり卑俗な表現を許されるなら「引っ剥がす目」で見るだけです。
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