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悲しみに答えはあるのでしょうか?
悲しみへの答えとは誰が与えてくれるのでしょうか?
悲しみへの答えとは言葉なのでしょうか?
涙とは、悲しみへの答えなのでしょうか?

さまざまな悲しみがあります。
悲しみを通過して答えがあったとするならば、どのようなものだったのでしょうか?
悲しみの底を通して、生きるということを明らかにしてみたいと思います。
事例ではない抽象論でも結構です。

A 回答 (16件中1~10件)

幸いなことに人間は自分の内奥の性格などよりも、行為に頼っているもの。


涙するのは精神が本能の対象(もの)に貴賎しているのでしょう。
行為に拠って逆らったり、
過ちを犯したとして祈願や演技のようなもの。
愛や正義は種族保存、恐怖は自己保存、それはその両本能よりは下位であると。

この回答への補足

補足します。

私は直感的認識という立場から物事を見てしまう傾向があります。
それは、理詰めの分析は後からでよいという、哲学的には一種のだらしなさでもあります。
まとまりや体系を成さない、思い付きにしか過ぎない雑学の類に属するものなのでしょう。
それでも一つの視点を皆さんに提供できるのならばいいのかもしれません。
この補足を、今回の質問の最後の補足にしたいと思います。

自己流的には
負の閃きから悲しみが生まれ、命の働きの認識という答えになってゆく・・・
そんなふうに考えてきましたが
悲しみを表すもの、悲しみの造形、といったことを思った時に浮かんだのが
阿修羅像でした。
興福寺の阿修羅像です。
その阿修羅は、悲しみをこらえる少年の姿です。
帝釈天に何度戦いを挑んでも勝てなかった悔しさ、惨めさの悲しみなのでしょう。
狭量で未熟であることの悲しみが、少年の姿として見事に表現されていると思います。
湧き上がってくる悲しみを耐えようとしている姿が印象的です。

この阿修羅像の印象から思ったのは
悲しみもまた一つの閃きではないのか・・・
それは本能に近いものなのかもしれない
また、悲しみに耐えようとする意志は
本能に近い働きと共にある理性なのかもしれない・・・
感情と理性は切り離すことのできない人間的なもの
悲しみへの答えとは・・・理性を呼び覚ますこと

であるならば
質問文のすべてへの答えとして当てはまるように思います。
人が生きるというのは、理性によって支えられ成しうること・・・かもしれません。

皆さんも阿修羅の姿からお考えになってみてください。

補足日時:2012/06/03 18:50
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この回答へのお礼

>人間は自分の内奥の性格などよりも、行為に頼っているもの。
涙するのは精神が本能の対象(もの)に貴賎しているのでしょう。


行為の本質を業とみれば、貴賎という情報によって涙が生じるとは思えません。
むしろ業における貴賎の違いが、涙の違いとなっているのではないでしょうか。
命の働きの等質を感じ取れるかどうかが貴賎ではないでしょうか。

お礼日時:2012/06/02 22:08

悲しい時、大いに悲しむことで本能は充足されます。



自己保存と種族保存の両本能の背反概念ではなく、
両本能の延長線上にある粋な悲しむだと思うので
本能に対して選り好みをしてもどこにも正当化する答えはないでしょう。
人間として例外なく覚える悲しいであるなら本能です。
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この回答へのお礼

>本能・・・
近い
でもそこに逃げ込んではならないと思います。

お礼日時:2012/06/02 21:49

4です。

どうやら質問の意図は、文章の表面的な意味とは違うところにあるのかなと感じます。
少し前になさっていたインスピレーションの質問と通底しているとみたほうがよいのでしょうか。

自己焦点化という言葉があります。
自己焦点化とは、自分を状況の中に置き、予期を踏まえ、ゴールを目指すような志向性を持たせてくれる心の働きのことです。
わたしたちの自分というのは、物や人や出来事などを認識対象とすることにおいて、
「感じたり信じたり願ったりする自分」
「自分の存在感の連続性」
「自分の経験の中心にいる自分」
をもとに、自分についてのアイデンティティ情報もまた汲み取っています。

人が、愛すべき対象によって幸福感を得ているときには、
自分の感情や感覚はそれとの関係によって引き起こされ、自分もそれも一様に時間にひたされ、受け入れやすい未来が自分に属しています。

しかし、対象が負の情報である認識するとき、
対象は自分の能力を超え、想定どおりでなく、不可能性に包まれています。
ところが、自己焦点化がゴールを放棄しようとせず志向性を手放しません。
望ましくない予期のなかでゴールを見続けなければならないという連続性と経験が、
まさに自分自身の情報に覆いかぶさってきます。

それからどうなるかは、自分自身が自分を続けうることをゴールとするところまで後退し、
その志向性を生かす努力を、人の心は惜しまないでしょう。
心と行動の傾きには傾くだけのメリットがあると、しばしば心理家たちは言いますが、
それは皮相の利得ではなく、自己存在の獲得を賭けているはずなのです。

子どもなら、息が止まって胸や頭が痛み、自分が打ち砕かれたように感じたあと、
「悲しみを感じている自分を保護者に訴える自分」
「悲しい自分はいまここにいて悲しみ続けていると訴える自分」
「悲しみの経験の中心に自分はいると訴える自分」
を当分譲らないでしょう。

でも大人は、こんな絶対的依存による存在ではないかもしれません。
負の情報に心痛み、精神の苦痛をもって、時空に連続し経験している主体であるということも受け入れるでしょう。
たぶん、予期はhetanosukeさんの言うインスピレーションに似ていると思います。
変化は状況から訪れるのか、予期から訪れるのか、ゴールから訪れるのかはわからないものの、
悲しみが志向的に根を下ろすのと同じくらい、悲しみは志向的に変化するということは確かなのです。
ご参考に。

この回答への補足

悲しみの瞬間は、この世界の全否定です。
それでも人は死のうとはしない
なぜでしょう?
慈悲という超越的な無意識の働きかけを受けている・・・という考えも或いは正解かもしれません。
しかし、もっと考えられうる実際面に踏み入ってみたいと思うのです。

負の閃き、の中身は
命の能動性の消失そのものではないかと思うのです。
(大部分においてですが)
間接的にではなく、消失を直接感受することから、負の閃きが生じてしまうように思えます。
間接的という二次的情報によるものであっては、負の思考はあっても、負の閃きには中々至らないと思います。
命の能動性の消失そのものを直接感受するところに、負の閃きが生じ、悲しみという感情を招くのではないでしょうか。
問題はそこからなのです。

試しの答えですが・・・
命の能動性の消失という負の閃きに対して、命の能動性の認識なるものが呼び起こされてくるのかもしれません。
負の対象は消失したままであっても、命のもつ能動性は様々な別な形となって顕れているというものです。
負の閃きを通して見た、命への実感という再認識です。

負の閃きがもたらした命の働きへの帰結が、悲しみへの答えである・・・

感情的に言えば
悲しみはなくならないが、悲しみを通して見えたものは、悲しみを乗り越えさせてくれる・・・
となるような気がします。

補足日時:2012/06/02 20:13
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>変化は状況から訪れるのか、予期から訪れるのか、ゴールから訪れるのかはわからないものの、
悲しみが志向的に根を下ろすのと同じくらい、悲しみは志向的に変化するということは確かなのです。

以前に述べた言葉です。
個人の存在状況の変化における一種のピークにおいて閃きはもたらされる。
それが自覚されなければ、閃きとは偶然の産物に過ぎないものとしか認識されない。
そこまでは確かだと思っているのですが・・・
感情と直観的認識との関係は
まだ定かではありません。

お礼日時:2012/06/02 20:30

 どうやらhetanosukeさんの“答え”は貴方自身の心の中に在るようです。


 
 その心の中に在る答え、を見出すには“時間”が必要かと思います。

 ここで“答え”を得られても“悲しみ”はすぐには消えないと思うから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/02 19:13

悲しみの答え?




理屈をつければ、それらしき答えがいくつもあげられるのかもしれないけど…


それを口にすること自体が悲しいなあー


いろんな理由付けはできてもこの悲しみを、感じることはできないことだろうし、

仮に切り裂いて開いて胸の中を見せたところで、この悲しみを目にすることはできないだろう…


「悲しみ」そんなもの本当にあるのか?


そうだね、本当にそうだね。


ないのかもしれないね。


滑稽だね。


いつしか悲しみが可笑しみに変わってく。


先に逝くもの後に残る者


所詮、人は一人。


一人でも生きていかねば


甘えられる相手がいる内に思いっきり甘えていたいね。


そうだよ、ある場面では一人で生きていかねばと気を張って生きてはきているけれど、

たまに肩の荷をおろしたくなる。この先の人生まだまだ続く、途中休憩入れなきゃバテちゃう。

ときに人にこの身を委ね張りつめたこころ解きほぐす。

先は一人、よりよく一人で生きていけるようしばし人の肩をかりる。


ほんの少しの間だけ、寄りかからせておいて。


目が覚めるまで。



まわるまわるよ 時代はまわる
別れと出会いを繰り返し
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ
今日は倒れた旅人たちも
生まれ変わって歩き出すよ
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/02 19:13

「悲しみ」とはやはり「何かを失ったことからくる感情」だと思われます。


なくなったものが「愛する対象」であれば、悲しみの度合いは増すでしょう。

愛する者を失って悲しみに沈むとき、世界は貧しく空しく感じられるものです。
自分の投ずる思いの行き場がないので、その手ごたえのなさが空虚感を構成するのかもしれません。

あるべきところにあるべきものがないとき、その空虚を「自分」で埋めることがあるのかもしれない。
いわば「愛する対象」がいた場所に「自分」を代理的に置くわけです。
こうした自己愛的な契機を経て、そのうえで、その「自分」を「空無化」し「自己処罰」して、もとの「悲しみ」を埋め合わせしようとするかもしれない。

悲しみにあって、「世界が貧しく感じられる」情態から「自分が貧しく感じられる」情態へと転化する場合があるのは、だれにも覚えがあることではないでしょうか。
この自己破壊的な方向へひたすら突き進んでしまえば、いわゆる「メランコリー」患者(病者)になってしまいます。

その崖っぷちでおしとどまって、死の風に一瞬ほおを撫でられて、からくも死の淵からこちら側へ還って来られるかどうか、
その分かれ目はどこにあるかは、よく分かりません。

そのまま闇へ落ちてゆくのも一つの生き方ではあります。

悲しみとは、そういう生の根源に触れる瞬間であろうと思われます。

以上はフロイトの「悲哀とメランコリー」という論文をヒントにしています。
あるいは、上記のようなことは、フロイトを持ち出さなくても、モンテーニュやシェイクスピアなどの作品のなかに、人間心理として描かれているとも思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2012/06/02 19:12

 解答No.6の捕捉を見て思いました。


 hetanosukeさんの言っている“悲しみ”とは、愛する人を失った悲しみの事らしいと。
 また、“通過”とは“乗り越える”という意味合いらしいとも。
 そして“答え”とは“通過=乗り越える”その後の状態の事を指しているようですね。
 
 生きるということを明らかにしてみたい、と云うことは悲しみの世界に居続ける事への是非を明らかにしたい、と云うことのように思います。

 もし、この見方が当たっているならば、
 悲しみに答えは有るし、誰が与えてくれるのかと云えばそれは神仏であり、言葉なのかと云われれば、言葉を通して答えられる、と云えると思います。

 涙とは私の、前の回答に在るように、悲しみへの答えであると云える、とも思います。
 神仏の慈悲の心を知ることが出来れば、生きるという意味も明らかになるように思うのですが。

 悲しみの心は大切に。神仏の慈悲の心につながって(同質)いるのだから。
 その悲しみの心を、生きて行く上での“大地”としたいですね。

 その先に“答え”の輝きを見ることが出来るのだから。
 
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この回答へのお礼

慈悲とは後回しの情けです。
先回りでしたら人は悲しみを背負うことはないのです。
或いは、慈悲の具現化とはすでに用意されていたものなのかもしれません。
後回しとしか思えないのは、子供だからかもしれません。

お礼日時:2012/06/01 18:40

すべての悲しみの素はブツダの説く『欲望と愛着』の中にあり、それが『四苦八苦』という苦しみに変わるのです。



ブツダやその弟子たちはその悲しみの素である『四苦八苦』を滅尽するために出家したのです。


(註)**********************************************
四苦=生・老・病・死
怨憎会苦(会いたくないものに合う。強盗、脅迫者、暴力団などすべて)
愛別離苦(愛するものと離れる。家族、ペット、家など無機物を含む)
求不得苦(求めても得られない苦。金・衣・食・住など。)
五盛陰苦(この七つを略して、五盛陰苦という。)
つまり、四苦八苦はまちがい、四苦七苦が正解です。
**********************************************
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この回答へのお礼

>欲望と愛着
ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/31 20:14

もう一度。



人の心の悲しみの感情は、ほとけの慈悲の現れ。
なぜならば人の心は宇宙の精神が宿ったものだから。

悲しみの心は自分に向けられる時もあれば、他者にむけられもする。
その感情を良く見つめて見れば、慈(いつく)しみの心であることが分かる。

体験者は知っていると思いますが、号泣したあとはなぜか心はスッキリと、さっぱりとするものです。
素直な気分にもなっています。

それを、心が洗われたように感じますが、実際、心のわだかまりが洗い流されたのです。
涙によって。
ほとけの慈悲の涙が人の悲しみの心を流し、癒やすのです。

★ 人の悲しみの心は仏の慈悲の心。
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この回答へのお礼

>癒やす
ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/31 20:12

 こんにちは。



 《かなしみ》というのは 自己の能力や努力の限界を知ることです。もともとの意味は。

  ・ゆく(行く)→ ゆかし(そちらのほうへ行きたい思いである)
  ・をく(招く)→ をかし(招きたい思いなり)
  ・よる(寄る)→ よらし・よろし(寄って行きたい)
  ・かぬ(かねる)→ かなし(しかねる=しようとしても力が及ばない思い)

 ですから 
 ★ 悲しみへの答え
 ☆ は わが力が及ばないと認識するのみのことです。




 問題は 究極において考えるならば 嫌われたり憎まれたり あるいは いぢわるをされたり迫害を受けたりすることにあるのではなく――つまりそのような情況に落ち入ったことがかなしいという問題にあるのではなく―― 無視されることにあります。シカトと言うのでしょうか。あるいは 干される。まったくかまわれることがなくなる状態です。
 意志疎通がかなわない。といった場合も 入ると考えます。
 あるいは いわゆる敬遠されるということ これがつづき常態となれば 究極の問題です。

 そのときには 答えはありません。まったくありません。




 そうして その《答えがない》というところにじつは おそらくひとは答えを見い出すようです。 
 不条理 あるいは 無根拠ということ ここに確かな答えを むしろ あたえられるもののようです。
 (この抽象論のままにてです)。
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この回答へのお礼

>わが力が及ばない
ありがとうございました。

お礼日時:2012/05/31 20:11

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