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密教の思想だと思うのですが
ものごとが空だと、なぜ清浄になるのでしょうか?

空の思想と清浄がなぜ結びつくのでしょうか?

A 回答 (42件中1~10件)

日本仏教の、禁断の経典とも言える《理趣経》を読み始めているんですか。

。。。
ひょっとして、眠り猫の影響だろうか? 僕は、「理趣経は絶対に読まない方がいい」と注意した記憶があるのですが。。。。

たしかに、十七清浄句に引き続いて、「一切法自性清浄故」という言葉が出てきますよね。これが《十七清浄》の根拠。
しかし、《清浄》とは《空》の積極的・肯定的な表現だから、これは「一切の法の自性は《空》」の意味であって、「すべての存在に自性なんてございませんがな」と言っているんです。「空性や清浄性という何か特別な性質があって、それがモノ・コトを空や清浄にしているわけではない。そんなモノはありはしませんがな。事物は、そのまま《空》、《清浄》なのでげすよ」と言っているわけ。理趣経は、密教経典であるのと同時に、「一切の存在は空である」とする般若経の経典なんでげす。
「一切の法は《空》だよ。一切の法は《無相》だよ。一切の法は《無願》だよ」という、空観に基づく《三解脱門》を他のところでちゃんと書いてあります。「すべてのモノは平等なんだよ。差別なんか何処にも存在しないんだよ。みんながみんなを支え合っているんだよ」と書いてあります。

「しかし、これではあまりに大乗的な解釈。密教にはならない。十七清浄の句はそのまま受けとるべきだ」というインド後期密教の研究者の意見もあります。
え~やん、そのまま受け取れば。密教とは、清濁すべてを併せ呑むオシエなんだから。。。。
と。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

そうです。眠り猫さんの影響です。

まあ、以前から密教にも興味がありましたので
ちょうどよいきっかけになりました。

お礼日時:2012/11/10 20:00

No.40 お礼欄 >>>


理趣経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%

ちょうど理趣経を読み始めていたのです。
wikipediaによると
真言密教は自性清浄ってのが重要な概念みたいですね。

密教が仏教かどうかとかは、今回別にどうでもいいです。
<<<

なるほどね。。。

仏教は最初期から、
「この世をも かの世をも 望まない」
とあり、般若心経では
「色即是空 空即是色」
ですし、
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7718307.html

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7741854.html
でも触れていますが、空を否定的な「無」として捉えないのであれば、逆説的にあらゆるものごとを含むと見なさざるを得ないのではないでしょうか?

ご指摘の理趣経は、「真なるもの」(例えば空)を一つの視点からみた場合に否定されるべき側面があることを、逆説的に言い表していると考えるべきかも知れないですよね。
「真なるもの」というものに片方から光を当てたときにできる影の部分。。。
逆方向から光を当てると異様な雰囲気が醸し出されるけれど、それもまた真であって、切り捨てるべきものではない。
「真なるもの」に影ができないように、あらゆる方向から光を当てようとするなら、複数の視点は必要不可欠になるのでしょう。

そういった観点から生み出された思索なのかもしれません。。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>空を否定的な「無」として捉えないのであれば、逆説的にあらゆるものごとを含むと見なさざるを得ないのではないでしょうか?

まあ、そんな気もします。

お礼日時:2012/11/13 18:27

本当にそうなのでしょうか?


といっても、それぞれの宗派によって、解釈が異なるのかも知れませんが。。。

とりあえず、私の持っている書物にて、清浄について記している部分を列挙してみます。

>>>「ブッダの言葉(スッタニパータ)」(中村 元 訳、岩波文庫)
891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。
893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。
<<<

>>> 般若心経
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
<<<

どう考えても結びつかないのですが、「宗教的なもの」を求める人々に対し、いきなり「空」と言われてもだれも見向きもしないから、とりあえず「清浄だよ」とか「良いものだよ」とか言ったのか、あるいは、そんなことは誰も言わなかったにもかかわらず、「空」の真相を知るまでの間、求めようとする思いの裏側には「清浄なものに違いない」という誤認があったのかもしれません。

勝手な解釈で、申し訳ない。。。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>本当にそうなのでしょうか?

これは是非、真言宗の人に質問してみてくださいな。

理趣経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3% …

ちょうど理趣経を読み始めていたのです。
wikipediaによると
真言密教は自性清浄ってのが重要な概念みたいですね。

密教が仏教かどうかとかは、今回別にどうでもいいです。

お礼日時:2012/11/10 08:18

ものごとが空だと、なぜ清浄になるのでしょうか?



○空の意味が分からないとなんともならんでしょうね。
空海さんなら、六根清浄で無我ならそれを空というと教えるでしょうね。
それだけのことです。
禅宗の坊主であれば、「明鏡止水」が清浄で無我の状態でしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます

六根清浄と明鏡止水ですね。

お礼日時:2012/11/09 22:54

こんにちは。





☆☆☆☆☆☆
ありとあらゆる思考法の中でも最も世界否定的なものをばその奥底まで見ぬき、見下ろしたことのある者、
――――それももはや、仏陀とかショーペンハウアーのように、道徳の束縛や妄執に囚われてではなく、善悪の彼岸に立ってそれを見下ろしたことのある者。
――――こうした者は、おそらく、まさにそのことによって、もともと彼がそれを欲したわけでもなくても逆の理想にたいする眼をひらいたことであろう。すなわち、剛胆きわまる、生命力にあふれたぎる世界肯定的な人間の理想にたいする眼を。
☆☆☆☆☆☆
「仏陀とかショーペンハウアーのように、道徳の束縛や妄執に囚われてではなく、善悪の彼岸に立ってそれを見下ろしたことのある者。」

「道徳の束縛や妄執に囚われてではなく、仏陀とかショーペンハウアーのように、善悪の彼岸に立ってそれを見下ろしたことのある者。」
とすると、ニーチェのブッダとショーペンハウアーに対する評価が理解できます。

《仏陀とかショーペンハウアーのように、》で
なんで《、》が付いているのか?

これは、《仏陀とかショーペンハウアーのように》が《善悪の彼岸に立ってそれを見下ろしたことのある者。》を修飾するからなんです、た・ぶ・ん。
《、》は伊達についているわけではない、《飾りではない》と思います。《修飾関係を明確にするために》、わざわざここに《、》を打っている。

そして、
《こうした者は、おそらく、まさにそのことによって、もともと彼がそれを欲したわけでもなくても逆の理想にたいする眼をひらいたことであろう。すなわち、剛胆きわまる、生命力にあふれたぎる世界肯定的な人間の理想にたいする眼を。》
と続くんですよ、たぶん。
つまり、《仏陀とショーペンハウアーはエラい》となる。
こうでないと、文脈が繋がらないと思うのよ。

ニーチェの著作を一切、読んでねぇんだ、わたくし、眠り猫(ポリポリ)。
「ツァラトゥストラ、かく語りき」の第一部を読んだけ。そこで、挫折した。
だから、《らしい》と付け足した。

原文のドイツ語で読むと、この修飾関係がどうなっているのか、分かるんじゃないのかな。
動詞の人称活用と名詞の単数・複数の違いでさ。



☆☆☆☆☆☆
にしても、
かざみどりさんは、スゴい読書量だね。
普通、《善悪の彼岸》までは、読まないでしょう。

何をやっている人~?
学生さん?
で、哲学か何かを専攻しているの?

仏教はとにかく、
普通、グノーシスなんか知らないって。
オレ、《ネコ》だっけ、普通じゃない。《人間》ですらニャ~!!
(笑い)



☆☆☆☆☆☆
ところで、
ゴータマは、真の《虚無》を見ていると思うのよ。その《深淵》まで。
仏伝によると、滅尽定に達する前の《無色四定》で、《虚無》・《虚空》を見ているのよ。
ヨーガによって、物質的存在もない、ただ虚ろな空間をさ(心的世界で、だけれどね)。
この圧倒的な《虚無》に直面し、それを克服したところに、ゴータマの偉さ、スゴさがあるんじゃないのかな。
そして、仏教は生まれた。

で、
ブッダであること、その状態を保つとは、どういうことなのか?

すこし考えてみたのだけれど、やっぱ、分からない。
煩悩はキレイさっぱり無くなっても、《ココロもどき》が残っていれば、外界にある何らかの《所縁》(認識の対象)が増上縁となって、《ココロもどき》に何かを起こさせることは分かったのだけれど、たぶん、それに対する反応は、コンピュータやロボットのようなモノになるはず。人間味っていうのは、《煩悩》がなければ駄目だから。《優しさ》や《思いやり》も《煩悩》がモトだから。「習慣性の残滓、余臭というモノが無いと、《人間性》は出てこない」と思うのよ。

この点を、《唯識》なら何とか克服できないことはない。それは、受けとる側の能力(機根)の違いによって発生する。成道後のゴータマは、まったく機械仕掛けのような存在であったけれど、煩悩だらけの人間の目にはゴータマの行動が違って見え、それでその行動に人間らしさがあるように見える。。。。
成道後のゴータマの行動についての《仮現説》になってしまう。ゴータマなる存在は実在したが、人の目には違った存在として映った。う~ん、これでよいのか。。。。
やっぱ、ムズカシイは、この問題は。

《滅尽定》という定を解くと、外界の刺激によって、ブッダといえども、《心がふたたび汚れ始める》のかね~。
それとも、有余涅槃では、前世での業(習慣性の残滓)は完全に断ちきることができず、僅かに残っているのかね~、肉体が残っているから。
生きている人間が《ブッダ》であり続けるには、《滅尽定》の状態を解くことができない。だから、成道後、ゴータマは、滅尽定を解かずに、そのままの状態を保ち、肉体を滅ぼすことによって、この世界から消え去ろうとした。そして、《梵天勧請》と続く。。。。

分かんねぇ~や、全然。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私のことはさておき

グノーシス主義は一時期、はまってました。
ほとんど忘れていますけど。

キリスト教と仏教の両方の影響を受けている
私にしっくりくるのはグノーシス主義かもなあ。

すっかり遠ざかってましたけど
いい機会なんで、またそのうち調べてみます。

お礼日時:2012/11/09 06:10

 No.36を承けます。



 ◆ ~~~~~~
  ◆ 《非経験》にそのような意味があるのか。
  ☆ 《神》や《愛》という言葉の概念内容は 歴史的に変遷して来ています。
 ~~~~~~~~
 ☆ この応答の意味は 《非経験》についてもその定義内容を歴史的に変えて行けばよいと見ているという意味です。
 わたしの案を あたらしい定義とすればよいだけです。


 ◆ Wikipediaにある無神論の定義
 ☆ は ふるい《非経験》ないし《神》の定義によっています。《分かるか分からないかが分からないもの》 これが《非経験の場》を想定するときの定義内容です。
 有無や善悪を超えており因果関係から自由な場だと捉えられますから そこに神が《ある》とも《ない》ともどちらとでも 人間からは 表現しうることになります。よって 有神論か無神論かが人によって自由にえらべる。こうなります。
 もしじんるいが《かみ》という言葉を死語にしてしまったときには いちいち《非経験の場》という概念を想定する必要もなくなります。

 議論というのは ふるい準拠枠の中でにしろその準拠枠じたいをあたらしいものとしてにしろ その論者の見解を示してたたき台とするわけですから そのたたき台の言っている内容に即して 反論や批判を加えないと ただの〔ふるい〕権威主義に落ち入ります。

 わたしのたたき台はすでにパラダイムそのものをもあたらしいものに替えて話をしているはずです。



 神とは何か? について
 ◆ あえて言えば、人間であり、《わたし》という一人一人の個人(観測者)です。
 ☆ と定義なさるのでしょうか?

 (ひ) だとすれば 《かみ》という言葉は どうするのでしょう? 神という言葉は すべて《人間》あるいは《〈わたし〉という一人一人の個人(観測者)》と解釈して用いるという意味でしょうか?

 ☆ マチガイかどうかの前に きわめて面倒なことになるという理由で その定義案は省みられ難いでしょうね。
 有神論や無神論とあるとき 有人間論や無人間論と読み替えるということでしょうか? もしそうだとすると 面倒なだけではなく 意味があいまいになってしまいます。
 神は 現代の世界においては 人間とは別だというひとつの共通の理解があるはずなのです。



 ◆ 「《人間》は神にはならない」と思いますけれども。。。。
 ☆ 《人間が神になる》という命題を提出したことは わたしは ありません。ほかの人の見解として引いたことはあってもです。



 ◆ ですから、わたくしは、これまでに何度も、この哲学カテで「ゴータマの思想は、自然主義的なものに基づいている」と申し上げてきました。
 ☆ そのことと 《ホトケやブッダあるいはニルワーナ》その他その他の専門用語がまったく要らなくなるということとは 別です。後者のことまで こんかいは分かったわけです。

 となると 人生論とか生活の知恵論とか そんなたぐいの議論になります ブディズム全般がです。
 それなら もう放っておきます。
 哲学として見て いいものもありましょうし くだらないものもありましょう。そして それだけの思想です。自然科学や近代の哲学も 《神》について触れないでその学問的営為をすすめるという立ち場がありますから そのたぐいに分類されるはずです ブディズムが。




 ですから
 ◆ ゴータマが解脱したかどうかは
 ☆ という問題も 生活観の一環として あの人はなかなか知恵がはたらく人だなぁというかたちと中身で その《解脱》という言葉が解釈されておしまいということを意味します。
 自然主義的なものにとどまるというわけです。
 あらためて言って それなら詐欺師だとかペテン師だとかは 言っても詮無いので 言いません。放っておきます。


 次の発言内容には ここまでのようなやり取りの経過を見ようとしていないキライがあります。
 ◆ わたしたちは、経験を通じてしか、何かを知ることはできません。その経験や経験の集積を茶飲み話や趣味だとおっしゃいたいのでしょうか?
 ☆ わたしがそう言ったのではありません。わたしはそう解釈したのみです。

 言い方は通俗的だとしても 《おばあちゃんの知恵》は 歴史をつうじて綿々と伝えられて来ています。

 さとりと言いニルワーナと言い成道と言いブッダと言い それらはすべて《心の平安》として解釈すればよい。ということだとうかがいましたから。生活日常における自然にもとづき読み解いて行けばよい。こうなるのではないですか?

 
 《神論》がある・ない。この一点が分岐点です。





 ◆ ~~~~~
 Wikipediaの無神論の記載によると、ニーチェは、仏教を宗教ではなく(精神)衛生学ととらえて、高い評価を与えていたそうです。
 わたしは、それはそれで、まったく構わないと思っています。
 ~~~~~~~
 ☆ ニーチェは 神をただただ《あたまの中のイデアとしてとも言えるような・あるいはまた すでに触れておられたように〈実体〉化してしまったかたちの・要するに〈観念の神〉》としか捉え得ず この《観念の神》は死んだと言ったまでです。
 その代わりに 《大自然・大河・超人》などの別様の《観念の神》を据えようとした。ここまでの思想です。
 ▼ (ヰキぺ) 仏教を宗教ではなく(精神)衛生学ととらえて、
 ☆ は 要するに上で触れましたように 《神論の無き世界観》だというものでしょう。ニーチェとかいう人間が
 ▼ 高い評価を与えていた
 ☆ かどうかは どうでもよいという評価をします。上に理由を述べました。つまり やはり神を知らない阿呆だと見るという意味です。



 ◆ 煩悩が神だ。
 ☆ この命題が 茶飲み話だという意味ですよ。神は 人間のことだそうですから。つまり 煩悩が人間だという表現が意味を持つとしたら そのときには この煩悩についてどう考えどう扱うかなどという方面は まったく関係ないという意味になります。煩悩とともに生きてゆけという茶飲み話だという理解です。
 《煩悩のなくなった状態》などと言っても それは そのようにいちど言ってみる。というだけの話だとなります。いろいろ言ってみる。また いろんな言葉を使ってみる。そういう趣味の同好会であると理解します。 ヨーガもあるでよぉと言うわけだと思います。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
ニーチェが仏教について言及している箇所がありましたので
参考にとりあえず引用してみました。

補足日時:2012/11/08 05:46
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この回答へのお礼

ニーチェ 道徳の系譜 信太正三 訳 ちくま学芸文庫

第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか?

 540ページから543ページ

以下引用。


仏教徒は言う、「善と悪、――これは二つながら繋縛である。達悟の人はこれらいずれもの支配者となる」。ヴェーダンタの信仰者は言う、「所為も非所為も、彼を苦しめることはない。悟れる者たる彼は善をも悪をもわが身から振るい落とす。彼の住持する世界はもはやいかなる所行によっても害されることはない。善と悪、その二つともを彼は超脱する」。――これがすなわちバラモン教徒にも仏教徒にも共通なインド全般にみられる考えである。(インドの考え方にあっても、キリスト教の考え方においても、徳の催眠的価値があれほど高く評価されているにもかかわらず、あの<解脱>がその徳によって、すなわち道徳的精進によって達成されるとは考えられていない。このことはきつく心にとめてもらいたい、――のみならこれは完全に事実と符合してもいるのだ。この点にあくまでも真実に踏みとどまっているということ、これこそはおそらく、他の点ではじつに徹底的に道徳化されてしまった三大宗教における最上の現実主義的要素と認められてしかるべきだろう。


中略

けれどもわれわれは、ここにおいてもあの<解脱>の場合におけると同じく、次の点を心にとめることにしよう。すなわち、それらの言句は、いかにはなはだしく東洋風の誇張の文字で飾り立てられていようとも、
畢竟するに、あの明徹で冷静な、ギリシア的に冷静、がしかし苦悩するエピクロスのそれと同じ評価を表現しているにすぎない、ということだ。要するに催眠的な虚無感情、至深の眠りの安息、つまりは憂苦滅尽
――これこそが、苦悩者や全くの失意者どもには、まさに最高の善、価値のなかの価値と見らるべきものであり、これは彼らによって積極的なものとして評価され、積極的なものそのものとして感じられねばならぬものなのだ。
(これと同一の感情の論理によって、すべての厭世主義的宗教においては虚無が神と呼ばれる。)


引用ここまで。

お礼日時:2012/11/08 05:42

こんにちは。


No35の問題提起について、私の考えを述べます。


☆☆☆☆☆☆
~~~~~~
 ◆ 《非経験》にそのような意味があるのか。
 ☆ 《神》や《愛》という言葉の概念内容は 歴史的に変遷して来ています。
~~~~~~
どちらも、人間の心理(活動)に基づく抽象概念だからです。状況や遺伝的性質、自然的・文化的環境要因などに応じてその都度、変わっているだけです。「心理は経験事象」とおっしゃっているわけですから、これらは非経験には該当しないはずです。



~~~~~~
 ◆ 《信じる》を、《神(の存在)を仮定しない》《神を説明原理として採用しない》と解釈してください。
 ☆ その場合には 《神とは何か?》について定義が必要になります。次の場合にも 同じくです。
 ◆ 《非経験の場》なる神の存在を仮定していません。同時に、《ない神》なる《神》の存在も仮定していません。なので、批判はあたらないです。
~~~~~~
あえて言えば、人間であり、《わたし》という一人一人の個人(観測者)です。
Wikipediaにある無神論の定義
広義には、また歴史的には『一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場』を指すが、
狭義に『神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべてを認めない立場』を指して無神論と呼ぶ。
にしたがえば、「《人間》は神にはならない」と思いますけれども。。。。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%A5%9E% …


~~~~~~
 それなら とにもかくにも 経験思想としてのみ ああだこうだと説いている。ということなのでしょう ブディズムは。言いかえると これらの定義内容のことを経験思想において論じるために 《ホトケ・ブッダ》なる用語は要らないという結論がくだされましょう。ニルワーナも要らないと言っていいでしょう。
 つまり 例の《ニルワーナは 心のやすらぎ》説で済ませ得ます。
~~~~~~
ですから、わたくしは、これまでに何度も、この哲学カテで「ゴータマの思想は、自然主義的なものに基づいている」と申し上げてきました。



~~~~~~
 ◆ ~~~~
 また、経験という個人的性格を考えれば、ある特定の個人の経験と同じ経験を他者が経験できる保証はどこにもありません。たとえ、どんなに詳しく説明されたとしても、ある特定の個人の経験を完全に共有化することはできません。そこから、誤解や食い違いが発生すると言っているのです。
 ~~~~~~ 
 ☆ というのは こちらの言い分ですよ。
~~~~~~~
ゴータマが解脱したかどうかは、彼が生きていた時代は、彼の行動や言説から判断されたのでしょう。そして、現在では、仏典を頼りにする以外にはありません。そこに書かれた記述をもとに、解脱したと考えるか、解脱しなかったと考えるか、それは個々人の判断です。その《オシエ》を信じるかどうかは、個人の自由意志です。決めるのは一人一人の《わたし》です。



~~~~~~
 ☆ ということで その定義を持って来ても すべては 経験事象として修行とやらをおこなっている。つまりそういう体験だということですから けっきょく一般的な議論にはならないでしょう。趣味のお話にしかならないでしょう。
 滅尽定を体験したと言われても ああ たいへんでしたねと応答するだけになります。同好会に入っている人は もっと熱心に反応するでしょうけれど。
~~~~~~
わたしたちは、経験を通じてしか、何かを知ることはできません。その経験や経験の集積を茶飲み話や趣味だとおっしゃいたいのでしょうか?
だとしたならば、物理学や精神医学、心理学などの学問もすべて趣味や茶飲み話ということになりませんでしょうか。
と同時に、《聖書》を読むという経験にもとづくキリスト者の思索や探求行動も、それと同列ということになるのでしょう。

Wikipediaの無神論の記載によると、ニーチェは、仏教を宗教ではなく(精神)衛生学ととらえて、高い評価を与えていたそうです。
わたしは、それはそれで、まったく構わないと思っています。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
ニーチェが仏教をどう考えていたかなんですけども

これを読むと、どちらというと
ニーチェは仏陀をショーペンハウアーと並べて
批判していませんかね。

補足日時:2012/11/08 05:04
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この回答へのお礼

ニーチェ 善悪の彼岸  信太正三 訳 ちくま学芸文庫 



104ページ

以下引用。
 

私と同じように、何かしら謎めいた欲情をもってペシミズムを底の底まで考えぬき、そしてペシミズムをば、それが今世紀になって結局はショーペンハウアー哲学の形態をとって
現れるにいたったあの半ばキリスト教的な、半ばドイツ的な狭苦しさと素朴さから解放しようと、永いあいだ骨折ってきた者。また、本当に一度はアジア的、超アジア的な眼をもって、
ありとあらゆる思考法の中でも最も世界否定的なものをばその奥底まで見ぬき、見下ろしたことのある者、
――――それももはや、仏陀とかショーペンハウアーのように、道徳の束縛や妄執に囚われてではなく、善悪の彼岸に立ってそれを見下ろしたことのある者。
――――こうした者は、おそらく、まさにそのことによって、もともと彼がそれを欲したわけでもなくても逆の理想にたいする眼をひらいたことであろう。すなわち、剛胆きわまる、生命力にあふれたぎる世界肯定的な人間の理想にたいする眼を。


引用ここまで。

お礼日時:2012/11/08 05:00

 No.34を承けます。



 ◆ 《非経験》にそのような意味があるのか。
 ☆ 《神》や《愛》という言葉の概念内容は 歴史的に変遷して来ています。


 ○ 不可知
 ☆ について例示します。(まちがっていないと思いますが)。

 ○ (ヰキぺ:不確定性原理) ~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA% …
 ある2つの物理量の組み合わせにおいては、測定値にばらつきを持たせずに2つの物理量を測定することはできない、という理論

 ○ (ヰキぺ:アーベル-ルフィニの定理) ~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC% …
 五次以上の代数方程式には解の公式が存在しない、と主張する定理である。より正確には、5以上の任意の整数 n に対して、一般の n 次方程式を代数的に解く方法は存在しない、という定理である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《知り得ない》と知っている場合であり それは 経験事象です。ゆえに《非経験》とは別です。



 ◆ 《信じる》を、《神(の存在)を仮定しない》《神を説明原理として採用しない》と解釈してください。
 ☆ その場合には 《神とは何か?》について定義が必要になります。次の場合にも 同じくです。
 ◆ 《非経験の場》なる神の存在を仮定していません。同時に、《ない神》なる《神》の存在も仮定していません。なので、批判はあたらないです。


 ◆ 神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのです。人が神に似ているのではなく、神が人に似ているのです。
 ☆ これは すでに答えました。
 こちらの示した定義を採用しないから 答えにならないというのであれば そちらからあたらしい神の定義を示してこそ反論になります。


 ◆ 《ホトケないしブッダ》の定義:ニルバーナ、《心の平安》、または、《煩悩のなくなった状態》のことです。 
 ☆ ニルワーナは さらに定義しないと共通の用語になりがたいと考えます。
 ですが おそらく これら三つの定義内容はいづれも《経験事象》であるということだと解します。
 
 それなら とにもかくにも 経験思想としてのみ ああだこうだと説いている。ということなのでしょう ブディズムは。言いかえると これらの定義内容のことを経験思想において論じるために 《ホトケ・ブッダ》なる用語は要らないという結論がくだされましょう。ニルワーナも要らないと言っていいでしょう。
 つまり 例の《ニルワーナは 心のやすらぎ》説で済ませ得ます。


 ◆ 《非経験の場》を想定していません。すべては、経験事象で説明が可能だと言っているのです。
 ☆ でしたら 上の問題と同じ扱いになります。

 ☆☆(回答No.32) ~~~
 (て) 
  3. ホトケないしブッダが 経験事象だとしますと その中身を聞いてみないと ほかの人間がその同じ経験をしたのか・しうるのかは 一向に分かりません。つまり《未経験》ですと判定することさえ出来ないはずなのです。定義がないからです。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ つまり《定義があっても》です。《心のやすらぎ》は 単純にああ そうだと納得する人もいれば それだけでは分からないと言う人もいるでしょう。《説明が可能》だとはとても思えません。
 つまりたとえば ではどうして その《ホトケ=ブッダ:心のやすらぎ》をめぐって いくつかの宗派に分かれるのでしょう?


 ◆ ゴータマの経験したことを、他者は経験していない、ということで(他者は)《未経験》と言ったまでです。
 ☆ いいえ。不用意に わたしは経験したと言う人もいるはずです。何の根拠も理由も示さずに そう言う人もいるでしょう。そして 未経験だと言う人もいるはずです。定まらないと言うべきです。すなわち
 ◆ ~~~~
 また、経験という個人的性格を考えれば、ある特定の個人の経験と同じ経験を他者が経験できる保証はどこにもありません。たとえ、どんなに詳しく説明されたとしても、ある特定の個人の経験を完全に共有化することはできません。そこから、誤解や食い違いが発生すると言っているのです。
 ~~~~~~ 
 ☆ というのは こちらの言い分ですよ。


 そうして このようにすべては《経験事象》をのみ扱うということになれば 話は ただ茶飲み話に近いものとなりましょう。
 ◆ ~~~~
  ☆ ブディズムが成り立つかどうかの前に 《解脱》も《滅尽定》も 一向に定義がなされておらず 議論にはなじまないと考えます。

  ◆ これらの定義は、参照リンク先に示されています。
 ~~~~~~
 ☆ ということで その定義を持って来ても すべては 経験事象として修行とやらをおこなっている。つまりそういう体験だということですから けっきょく一般的な議論にはならないでしょう。趣味のお話にしかならないでしょう。
 滅尽定を体験したと言われても ああ たいへんでしたねと応答するだけになります。同好会に入っている人は もっと熱心に反応するでしょうけれど。


 もし議論に一般性・公共性を持たせようと思えば けっきょく《解脱・滅尽定・ニルワーナ・心の平安・煩悩のなくなった状態》を実現した人は いったいどういう思想を持ち どのように自己表現をおこなっているか? こういった実際の側面から 接触し話し合いを持ち 対話をすすめて行く。これしかないと思われます。
 類型としての梵我一如なる信仰の形態 ここから話を始めるというわけには行かないからです。
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こんばんは。


No32の質問に対してお答えします。



☆☆☆☆☆☆
まず、素朴な疑問です。
《非経験》にそのような意味があるのか。
ネットで調べたのですが、《非経験》という言葉は、ラテン語の「ab initio」の訳語らしく、第一原理、もしくは”最初から“、”はじめから”という意味なのだそうです。日本語としての用法を見ても、《未経験》と同義、あるいは、《経験(実験値)に頼らなず最初から計算する》の意味で使われています。日本語して《非経験》という言葉を使ってよいのかという疑問が浮かびます。


~~~~~~
  3. 《不可知》とは 人間の能力と実験によってそのことが《知り得ない》と知ったものごとを言う。

  4. 《非知》あるいは《非経験》とは 《知り得るか知り得ないかが知り得ず 経験事象だと見做し得るか見なし得ないが決められない》ものごとを言う。
~~~~~~
この定義に従うのならば、《非知》あるいは《非経験》は《不可知》に含まれるはずです。ことさら、《非知》あるいは《非経験》なる用語を使用する必要はないと思います。《知り得るか知り得ないか》を《知りえない・決められない》ことは知っているのであって、それは《不可知》になります。

もし、直接、経験された事象に対して《不可知》であることをもって《非経験》であると定義するのならば、それは《経験事象》であって、《非経験》の定義に反すると考えます。

何故、《不可知》だと言わないのですか。
神は《不可知の場》に存する、と言えば済むだけのように思えますが。。。。
わたしには、ただ、《非経験》なることばを使って、いたずらに議論を混乱させているだけに感じられます。



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 1. 観測しうる《経験事象》とその認識は あくまで《考える》のです。思考の対象です。《信じる》とは言いません。信じるは 非経験の場についてのみ ――文学的な自由な表現をのぞけば――使います。
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《信じる》を、《神(の存在)を仮定しない》《神を説明原理として採用しない》と解釈してください。


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 2. 《非経験の場》なる神は《不要なんです》という表明は その神を《無い神》として捉えたことを意味します。なぜなら 非経験の場は 《知り得るか知り得ないかが知り得ない》のですから 《必要か不要か》を人間が決められるほど認識しうるものではないからです。

 3. 想定にもとづき 《非経験の場》は 神と呼ぶときそこから具体的には 《有る神》と《無い神》とに便宜的に分けられ 人それぞれの《信じる》にとっての対象(じつは 非対象)として自由にえらぶ。こういう仕組みになっています。
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《非経験の場》なる神の存在を仮定していません。同時に、《ない神》なる《神》の存在も仮定していません。なので、批判はあたらないです。



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 4. 神などというそんなものは要らん。という表明は ではなぜじんるいは神という言葉を持って使っているのか? に答えていないでしょう。
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無知だったからでしょう。
古代の人々は、自らが有する知識では説明のつかない《死》や《神秘的事象》、宗教的トランス状態などを《神》あるいは《神の業》と呼んだに過ぎません。
原初的なアニミズム信仰を見れば、そのことは明かです。

このことは創世記を見ても明らかでしょう。神が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのです。人が神に似ているのではなく、神が人に似ているのです。



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 1. 《ホトケないしブッダ》を定義していないからです。
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ニルバーナ、《心の平安》、または、《煩悩のなくなった状態》のことです。


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 2. もしそれは経験事象でなく非経験の場のことだとしますと 第一文は 自己矛盾です。
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《非経験の場》を想定していません。すべては、経験事象で説明が可能だと言っているのです。


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  3. ホトケないしブッダが 経験事象だとしますと その中身を聞いてみないと ほかの人間がその同じ経験をしたのか・しうるのかは 一向に分かりません。つまり《未経験》ですと判定することさえ出来ないはずなのです。定義がないからです。
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ゴータマの経験したことを、他者は経験していない、ということで(他者は)《未経験》と言ったまでです。
また、経験という個人的性格を考えれば、ある特定の個人の経験と同じ経験を他者が経験できる保証はどこにもありません。たとえ、どんなに詳しく説明されたとしても、ある特定の個人の経験を完全に共有化することはできません。そこから、誤解や食い違いが発生すると言っているのです。
経験論的にそれほど不自然な説明ではないと思いますが。。。。



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 ☆ ブディズムが成り立つかどうかの前に 《解脱》も《滅尽定》も 一向に定義がなされておらず 議論にはなじまないと考えます。
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これらの定義は、参照リンク先に示されています。
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 No.32からつづきます。




 ◆(回答No.31)  ~~~~~~~~~~~~
  (と)☆(回答No.29) ~~~~~~~~~~~~
   無神論ゆえに 神を 《ブッダの抽象的にして究極の状態としてのブッダター(仏性)》と言いかえて 議論をしなければならなかった。ただそれだけのことだと言えましょう。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (な)◆ 《ブッダター(仏性)》、《自性清浄心》も《如来蔵》も、これらは、(心から)煩悩がなくなった状態を言っているのであって、すべてを経験世界内で語っているのであるから、《無神論》です。
  《仏性》や《自性清浄心》を実体的にとらえ、それを絶対化したところから、日本や中国の仏教で起きたアヤマチが起きたんです。それらを神の如き存在にまつりあげたことこそ問題なのです。
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 ☆ この問題は 問題としてありますからあとで取り上げますが まづ かみ合っていないということをお応えします。
 わたしの(と)の議論は 類型としての梵我一如なる信仰形態のことをあつかっています。
 無神論であるにもかかわらず 《梵》の座に何か神ないしその霊を置きたい。というときに 無神論でありつつブディズムは 《ブッダター(仏性)》を想定して持って来た。という議論です。
 もう少しくわしく言えば
  
  (に) 類型としての《梵我一如》なる信仰形態 ~~~~~~~
    【Q:空仏一如!?】(その趣旨説明欄)
     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7730857.html

   2. ゴータマ・ブッダ:無無一如
    無:空・シューナター・ゼロ
    無:無我・アン‐アートマン;ニルワーナ

   3. ブディズム:仏仏一如
    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ
    仏:如来蔵・仏性
    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようです。

 しかしながら
 ◆ 《ブッダター(仏性)》、《自性清浄心》も《如来蔵》も、これらは、(心から)煩悩がなくなった状態を言っているのであって、すべてを経験世界内で語っているのであるから・・・
 ☆ これは どういう現実でしょう? 言いかえると
 
  (ぬ) 《(心から)煩悩がなくなった状態》は 《経験世界内》のことか?

 と問うことになります。すこし揶揄して言えば 次のように問えます。

  (ぬ‐1) 神である煩悩が なくなるのか?

 わたしの捉えた限りでは 《ブッダター / 自性清浄心 / 如来蔵》 これらはみな《霊》だと思われます。つまり《非経験の場》につらなって 人間にもやどるという想定なのだと捉えられます。つまり (に)の命題のごとく 信仰の形態として持ち出されている概念であると。
 

 ◆ ゴータマ仏教が理論的に完璧であるというつもりはないですが(アラを探そうと思えば幾らでも見つけられます)、その枠内で解脱やサトリは語られるのですから、どうして「ゴータマが詐欺師」になるのですか。
 ☆ もしブッダターが 経験事象であるとすれば――《一切衆生 悉有仏性》と言うからには―― 誰もが知覚していることになります。つねにでなくても あぁ おれはきのう仏性をわが心に感じたよといった発言が飛び出してくるといった概念であり現実だとなりましょう。
 
 そこのところ・すなわち 経験か非経験か あるいはつまり有神論か無神論か 何を自説における神としているのか(何も神とはしていないか) こういった肝心の議論をまったくおろそかにしている。それが ゴータマである。ペテン師であると考えます。

 《さとり》とは何か? これについてはっきりと言わないことにおいて ブッダなることつまりさとりを説き続けた。


 ちなみに 苫米地英人は 《何ごとにも たとえそれぞれに重要度がふつうの眼から見てあったとしても ブッダは 差異を見ない。ブッダは あらゆるものごとをひとしく大切にする》 これが さとりの中身だと説いています。
 これは 慈悲・なかんづく無縁慈悲のことだとわたしは見ますが それは じつは 人間のおこなう経験行為であるとは思えない。と捉えます。言いかえると 論理的な方程式としてさとりの中身を示した。のみだと見ます。




 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~
  (ね)☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~
   ブッダターなる或る種のアートマンが わが心に宿り これと宇宙のダルマとしての神とが一体である。一体に 生身の存在において 成り得る。と説けばよいのです。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (の)◆ ブッダターは、何かを生みだす作用を有さないから、ブッダターなのです。生成力や形成力がないから、ブッダターなのです。
 どうして、梵我一如などに見られる、生成力を有するアートマンと同じになるのですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (ね)も 前段の(と)と同じように 信仰の形態として《梵我一如なる類型》を前提とした上での議論です。

 《類型としての梵我一如》というのは 個別の問題として具体的に
 ◆ 生成力を有するアートマン
 ☆ といった事柄があってもそれを捨象して かたちとして 捉えようとしたに過ぎません。
 けれども 密教の《加‐持》とやはり同じ類型です。
 ブッダターにおいて人は 菩提心を起こす。ということかも分からないのではないでしょうか? 生成力のようなチカラを有していると想定するのだと思います。




 ◆ ゴータマ自身は、宇宙のダルマなど語っていません。それは大乗仏教において発生した思想です。いや、違います。中国において、仏教の《空》と老荘の《無》がまじり合い、生まれた思想と考えるべきだと思います。なので、こうした考え方をもって、ゴータマを批判するのは、正鵠を射ていないと思います。
 ☆ 批判として言っていることは こうです。

 (は) ゴータマ批判 ~~~~~~~~~~~
  1. とにかくゴータマは 無我説を採った。アン‐アートマン。

  2. つまり アートマンを否定したからには ブラフマンをも――イーシュワラなる自在神を否定するとともに――否定した。(または 無記とした)。

  3. そうすると 一般に無神論と呼ぶべき信仰形態となる。《非経験の場》を《無い神》として捉えた。つまり《神》は もうどうでもよいとしてほうむり去った。

  4. それにもかかわらず 後世において《一切衆生 悉有仏性》という命題を立てられることになるほど 神ないしその霊については 直接にか間接にか 触れている。と人びとには受け取られた。
 
  5. その結果 《ブッダ(目覚めた)》と言っていても いったい何に目覚めたのか? いったいどういう精神と身体との境地を言うのか? これが一向に明らかになっていない。ではないか? と批判しています。
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