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苫米地英人の「なぜ、脳は神を創ったのか?」という本を読みました。
その中に、パトリックグリムという人が「神は存在しない」と証明
したと書いてありました。その概要は、(ゲーデルの不完全性定理などから)
完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、ということらしいです。
しかし、考えてみたのですが、「完全な系は存在しない」というのは、あくまでも
人間の言語から構築する系についての限界のことであり、人間の思考を超えた
完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか?
つまり、全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと
しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか?
まあ、そうだとしても、今ある宗教は神の言葉ではなく、人間の言葉の積み重ねにすぎない
ことになるので、宗教における神の否定にはなるとは思いますが。
人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか?
私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが。
肝心のグリムやらゲーデルやら全く無知なので、そういうとっかかりでも
教えていただけたら幸いです。よろしくお願いします。

A 回答 (18件中1~10件)

ゲーデルは、不完全性定理の前に、完全性定理も証明しています。


限定された“正しさ”が与えられれば、その展開において完全な
論理的世界像は成立する、というものである。

不確定性原理は、そうした構成の元となる“正しさ(ある言明が
Aと非Aを同時に導かない)”について、それ自身の公理系の内
においては証明不能である、という証明をしたものです。

つまり、単に「公理系は無矛盾ではあり得ない」という話ではなく、
「公理系では証明できない公理(たとえばユークリッド幾何学の
平行線定理、確定性を記述する物理学における不確定性原理)
が入り込む事で、その公理系は無矛盾たり得る」というものです。
つまり「公理系が不完全であるか、その言明が無矛盾たり得ない
かのどちらか」という事で。

つまりある意味、神という公理系外の外挿要因によって、有限な
世界は誕生した、という話につなごうとすればできます。
ただ、そうして「誕生」した世界自身に不確定性原理によって、
絶対的確定化において無限不確定性=無に還元するという、
自己完結的第一原因が存在する、という奇妙な事になります。

もし、神が創ったにしては、自分の存在が完全に不要であり、
信じるに値する痕跡を全く残しておらず、そうした本質的認識
のできない低認識において、安易に第一原因(世界の起源や
生きる意味)を求める怠惰において、神は生まれるように見える。
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神の存在について議論する前に、まず我々が自分たち自身(の存在)をどのように意識するか理解しなければならないでしょう。

なぜなら我々が、他でもない人間が神を意識するからです。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と主張しました。我々は自身だけでなく他人も、あるいは動物や植物も、我々の世界と宇宙、そして神でさえも意識する能力があります。

我々の脳は、感覚器官を使用することによってそういったことを認識します。しかしながら人間のそういった「センサー」では、我々の「真実の世界」を意識するためには限界があるはずです。実際のところ、我々の目は赤外線を見ることができないし、我々の耳では超音波を捕らえることができません。この意味は、人間にそれを認識するための適当な「センサー」が欠けているため、我々が「真実の世界(万物)」の様子を確認することができないということです。

視覚・聴覚・味覚・臭覚・平衡感覚・存在感覚・深部感覚などの知覚を介すことによってのみ、我々は自身の確かな肉体や万物の存在を感じることができるのです。その結果によって我々の意識は始めてそれらを認識すことができる。すなわち神をも含めた万物の存在は、我々、つまり人間の意識によっていると言えるでしょう。

したがって世界や万物は、宗教が主張するように神によって創られたのではなく、人間の意識によって創られたというわけです。神は脳内で起こる幻想(妄想)にすぎません。ここで付け加えれば、天国や地獄、悪魔と天使といったことも存在しません。

実際には、「人間の集合意識」ないし「知的生命体の集合意識」と言うべきなのでしょう。なぜなら世界や万物の存在は、一個人の意思によって構成されているのではなく、多数の意思が互いに影響しあうことによって我々の世界を実現しているからです。もしも人間が保有しない、「真実の世界」を見ることができる特別な「センサー」を持った者が存在して観測したのなら、我々の世界はヴァーチャル・リアリティーのようなものかもしれません。

けれども、以上の主張を皆さんに納得してもらうためには、私は何らかの科学的な証拠か、それなりの原理や説を挙げなければならないでしょう。実のところ、人間の集合意識について明らかにした情報があるのです。それは人類の「あの世」における「魂のネットワーク」に関してです。

もし上の情報に興味があるのなら、インターネットで探してもらえばそれが得られるでしょう。さらには、上記のことをイメージするための科学的な根拠として、皆さんは量子理論についても考える必要があるでしょう。
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人の脳内には二人の人格が存在しています。

一人は『我思うゆえに我在り』という『我=自我意識』です、顕在意識とも言います。

人間にはもう一つ意識があります、『無意識時の自分の心と身体を支配している意識です。』

メンタル面が強いと言う場合の『自分自身を支配している意識です。』メンタル面が強いという場合では『顕在意識たる自我意識がでしゃばらないで要られる時です。』

その逆のメンタル面が弱いという場合では『自我意識のみの対応で、無意識の自分の出番を封印している場合です。』

意識する自分は『身体と心の支配権を』無意識の自分に切り替えた時を『意識出来ません』何故なら、意識が無くなっているからです。

こういった『交替制である、二つの意識が出会う時の事を』自分自身を知ると、ソクラテスは表現していると思います。

禅で言うところの見性体験です。

メンタル面が弱い事による症害が、治まる場合です。メンタル面が弱いという意味は、封印された、自分自身の『無意識の意識』が、自分の出番を要請している事を意味します。

その科学的なデータを二つ程紹介しますので、ご自分で考えてみて下さい、尚右脳の意識は『無意識時の、自分を支配している意識ですが、自律神経等や、ホルモンの調整等や、その他生命維持装置として機能している機能も兼ね備えています。そうしてその機能は、生命の発生装置も兼ねています。』

言葉を替えた言い方をするなら、『命そのものの働き』です。

死を受け入れられないで苦しんでいる場合では、『我』が苦しんでいる事を意味しますが、『死を受け入れた瞬間から、命そのものの働きの支配下に入る事を意味します。』

命そのものの働きは、生まれた訳ではない事から、滅する事も無い存在です。つまり『永遠の命としての存在です。』『我』は死を受け入れた瞬間に『自身の永遠の命も同時に手にする事を意味します。』

是が『禅』の見性体験です。『生死の問題が解決する瞬間です。』


”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”


もう一つは脳の血管が破裂した事による症害に拠った体験の動画です。二つの意識が交互に表現されています。


URL:

宗教の根本は『心の矛盾の解消です。』自我が折れる事によって、『命の働き』と二度と争う事をしなくなる、個人的な体験です。

その体験以後『自分の脳内での心の争いは終結します。』心が限り無く静まり返る事を意味します。仏教において『涅槃』と言われている現象です。キリスト教では、『(神と和解して)神の僕となる。』と言う現象です。

医学的な表現方法を取るなら『右脳と左脳の人格の間に(脳梁)ホットラインが構築される事』を意味します。その功徳は、自律神経失調症や難治性の症候群等、検査をした場合では異常ではないと診断されているものです、従がって神経症や心を病むという場合も含まれます。

検査では異常が無い場合で、本人のみが異常感を訴えている場合は『心の矛盾』の産物として『違和感を訴えている場合が多い事を意味します。』その違和感をめぐって二つの意識が争っていると言う意味になります。
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 ★ 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか?


 ☆ この
 ★ 人智を超えた
 ☆ という命題は むろんその内容を人間がその人智で表象することも理解することも出来ないことです。
 
 言いかえると それは 人間が想定するものです。

 なぜ想定するというかたちになるか?
 《神》ということばが どの言語にもあって その言語習慣の中で用いられているからです。
 
 少なくとも 哲学は なぜ《神》ということばがあるか? どういう意味において用いられているのか?
 これを説明するつとめがあるはずです。

 その結果 《神》は《人智を超えている》と想定する。
 むろん 公理のごとくにです。

 これが 人間という存在にとっての条件となっている。こういうことではないでしょうか?
 《有る・無い》をも超えているので この神を呼ぶとき どんな名前で呼んでもよいはずです。
 しかも 《存在する》というだけではなく 《存在しない》という言い方をしてもかまわない。
 とは言っても それは 《無い神》が存在するという恰好になるだけですが。

 おそらく善い悪いや 正しい正しくないをも超えて 人間と生まれたなら受け留めなければならない 人間の条件である。こういう話になっているはずです。
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「人間の思考を超えた××は存在するか?」という問いは擬似問題ではないでしょうか。



擬似問題とは、最初から答えられないことになっている無意味な問いのことです。
そのような問いは問い自体がそもそも成立しないものとして却下されます。

思考を超えた何かについては、定義上、「ある」とか「ない」とかいうことを思考することもできません。

つまり、答えは「ある」「ない」のどちらでもなく、「そもそも問えない」だと思います。
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仰っている全知全能なる神には 全く実感がありません。


ご参考に 日本の神への体験的実感の一つを上げてみます。
つまらない話と一蹴されても結構です。

昨年の秋に京都の鞍馬寺に行ってきました。
仕事関係の人と初めて行ったのですが
鞍馬へ行った理由は そこで産出される鞍馬石を見てみたいという理由でした。
現在では数少なくなった希少価値のある鞍馬石を見たかったからです。
山道の脇にあった石材店を幾つか覗いては この石はいいなとか悪いなとか 値踏みなどしながら見ていきました。
だいぶ山道を上へと進んでしまったので 鞍馬寺が近くなってきたので ついでだから見ていこうという事になりました。
手前のお茶屋で一休みしてから ちょっとだけ見るという事になりました。
鞍馬寺といえば義経ゆかりの寺で有名です。
大きな木の板にお寺の山号が書いてあるあたりで 失礼しますと心の中で簡単な挨拶をしました。
どこの神社仏閣へ行った時もそうしています。
石畳の参道を階段に向かって少し歩いて行った時でした。
急に強い風が下横から吹いてきました。
周りの木の枝をかなり揺らすほどで、舞い上った落葉が顔に当たってきたので
両手で顔を覆うようにしました。
一緒にいた人も驚いて なんだこの風は と言ってスーツの襟を持ち上げて顔を隠すようにして凌ぎました。
近くにいた観光客の人達も 叫んだり座りこんだりして ちょっとした騒ぎでした。
その風が吹いた時間は2、3分だったと思います。
風が吹く前も 収まってからも 静かで穏やかな天気でした。
いわゆる突風だったのでしょうが 大変に奇妙な風でした。
一緒にいた人も おかしな風だな と、しきりに言っていました。
参道を歩きながら 私がその時思ったのは ご挨拶だな と思ったのです。
鞍馬寺での風の挨拶といえば 決まったものです。
そう考えると あまり悪い感じでもありませんでした。
簡単な参拝を済ませて帰ってきましたが 出口でまた 失礼しますと心の中で言いました。
以前にも 他の神社で似た事があったので 特に驚きはしませんでした。
以前の事を振り返ってみて 確かに それぞれの神に相応しいご挨拶の形があるものだな と改めて思い知らされた感じがしました。

見えない神から挨拶を受けた などと誰にも言えるはずもありません。
でも こうした体験を得ている人は 案外多いように思います。
私にとって神とは 見えない生き物のように感じます。
それは 人間以上かもしれないが 全知全能だとは とても思えない気がします。
 
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 おじゃまします。



 ★ 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか?
 ☆ つまり

 ★ 人智を超えている
 ☆ と言っている。
 ですから それを受け容れるか それともハナから受けつけないか。このいづれかにしかならないでしょう。
 そうでない場合の神は いくら持ち出して来ても それは すべて人間の想像した神でしかありません。つまり ほんとうの神ではありません。
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 こんにちは。



 ひとことです。

 ★ 人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか?
 ☆ もしこの《神の全知全能》について 《人智》が知り得るならば・あるいは人智によって批判し切れるのならば それは《人智を超えた》ことにはならない。

 こういうことではないですか?
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”人間の思考を超えた


完全な系が存在することは否定できないのではないでしょうか”
    ↑
完全な系が存在する「可能性」は否定できない、ですね?

”全知全能の神は存在しえないのではなく、仮に全知全能の神が存在したと
しても、その神の思し召しは人間(言語)には理解できない、ということではないでしょうか”
    ↑
ミミズは、人間の存在や人間の思考は理解できない
でしょうね。
それと同じです。

”人智を超えた全知全能の神を否定することはできるのでしょうか”
    ↑
全知全能という概念そのものが自己矛盾を含んでいます。
このカテで指摘されていました。
神が全知全能なら、神が持ち上げることができないバーベルを
造れるはずだ。造れなければ全知全能とは言えないからだ。
そして、そんなバーベルを造ったら、神はそのバーベルを持ち上げる
ことができない。
そんな神は全知全能とは言えないだろう。

”私は、この世界には自分たちの思惑を超えた何者かがいるようには思いますが”
     ↑
いるかもしれませんね。
しかし、それは言葉通りの全知全能ではないでしょう。
ただの宇宙人かもしれません。
人間とは無関係な存在かもしれません。

現代の複雑系の科学によると、生命や人間の出現は、総て偶然で
説明がつきますけどね。
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>完全な系は存在しないので、神という完全な系は存在し得ない、



という論理には、欠陥があると思います。
 何故なら、「神は完全ではない」とするだけで、神が存在する事が可能となるからです。
 私はその書籍を読んだ事は御座いませんが、苫米地英人氏は何の根拠があって、「神は完全である」という事を大前提とされておられるのでしょうか?

 もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければなりません。
 己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。
 ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。
 又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を受けたりする必要はない筈です。
 又、必要性の無い事をする者は、完全な存在とは言えない事と思われます。
 ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。
 又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。
 つまり、仮に、神が完全な存在だとしますと、人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になります。

 しかし、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。
 もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事が判ります。

 従って、「完全な系は存在しない」事が「神は存在しない」事の証明とはなり得ないと思います。
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