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あなたは、かの文明開化の時代「明治」にどんなイメージをお持ちでしょうか…。

1868年から1912年、つまり、昭和、大正を飛び越えた明治という時代、幕末明治と呼ばれた時代
も終り、西欧の文化文明の流入によって、この日本が急速に変革を遂げて行った時代、そうした
文明開化華やかなりし頃に、わたしはとても魅力を感じるのです。

文学でいうなら、文明開化を直接語るようなものでなく、たとえば大仏次郎の『霧笛』とか、夏目漱
石の『三四郎』などに見るように、物語の舞台や背景に、いかにも明治らしい光景が書き込まれて
いる、そういった作品が好きなのです。

わたしが住んでいる港町には、今もなおたくさんの「明治」が残っています、それらを訪ねると、まる
でわたし自身が「三四郎」の美禰子のように明治生まれになったような気さえします。

A 回答 (6件)

こんにちは。



るろうに剣心
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

『るろうに剣心』… 「週刊少年ジャンプ」でヒットした劇画とその映画化。明治時代初期の日本
が舞台。ストーリー自体はオリジナルのものだが、赤報隊や新選組、紀尾井坂の変など、史実
や実在人物を物語に絡ませている…ということらしいですが、わたし、見てないんです。

それに、わたしが好きな明治とは、こうした明治初期の幕末明治とよばれる時代を過ぎたあた
り、つまり維新にまつわる生臭い時代ではなく、その後の明治ロマンとよばれた時代、勝手な思
い入れで質問を立ててしまってごめんなさいね。

お礼日時:2012/12/10 09:59

>文明開化の時代「明治」にどんなイメージをお持ちでしょうか…。


鹿鳴館、汽車、・・・
等の西欧文明の模倣と近代化のポジティブな側面と
西南戦争や足尾鉱毒事件
等の近代化に伴う国内の矛盾や軋轢の顕在化
さらには、
という近代化の正負両方の側面が色濃く出た時代だと思います。

個人的な感覚をいうと、
それなりに魅力は感じますが、他の時代との優劣はあまりない、というところです。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

>それなりに魅力は感じますが、他の時代との優劣はあまりない…、それはそれでいいと思います。
人誰しもが同じ思い入れや価値観を持っているわけではありませんから。

ただ、お書き頂いたような事実、たとえば司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」などを読んでも、小説な
がら、こうした事実をひとつひとつ、まるで映像のように、読むものに具体的なイメージを与えてくれ
ます。

さらには、漱石の「三四郎」、この中に主人公三四郎が、同郷の先輩である野々宮を、帝大の彼の
研究室に訪ねて行くシーンがあります。そこで野々宮が研究していたのは光の圧力…。

漱石が描いた野々宮とは、実は彼の刎頚の友であった寺田虎彦がモデルであったと言われてい
ますが、「三四郎」が朝日新聞の連載小説として掲載されたのは明治41年(1908)のこと、も
はやそんな時代に、すでに光の圧力、つまり光が波動であり物質でもあるということを研究してい
たというその事実に驚かされるのです。

たしかに、ほかの時代にはその時代なりの素晴らしい事実があるし、優劣はつけ難いものでしょう。
でも、ただこうしたちょっとした記述にさえ、明治という時代のロマンに、わたしは嬉しくなるのです。

お礼日時:2012/12/10 11:13

火中の栗で有名な風刺。

これは、列強の極東地域の侵略合戦の縮図でもありました。とにかく、日本はギリギリの綱渡りで生き延びたのです。

大政奉還から明治維新の一連の流れの中で、列強各国を巡った使節団が諸国の文化、とりわけ産業革命の影響を速やかに取り込んでいかなければ、日本は侵略されて植民地化されていたのかもしれません。

私の明治に対するイメージは、文明開化であり、背水の陣で必死に発展せざるを得なかったもの、です。
でなければ、明治天皇を形骸化した権力者として祭り上げたりはしません。明治天皇は、教育勅語を代表として実際は名ばかりの象徴として使い回された、可哀想な天皇なんですよ。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

>日本はギリギリの綱渡りで生き延びた…。明治に対するイメージは、文明開化であり、背水の陣で
必死に発展せざるを得なかったもの…。たしかにその通りだと思います。当時の近隣国などの状況を
見る限り、日本もまた侵略され植民地化される危機に瀕していたというのも分かります。

でもだからこそ、そこには、幕末ながら幕府という施政組織の堅固さ、一方開国を志す者たちの熱意、
ともに、近隣の他国に見られない、いかにも日本らしい矜持と組織と、的確な判断力があったことが
見て取れる。背水の陣ではあったけれど、結果的に、西欧諸国にして、日本だけはちょっと違うな…
と思わせしめた、それだけの気概が幕末の日本人にはあった。そうした角度から見れば、日本人はも
っとこの国を愛し、もっと大切に考えてもいいのではないかと思うのです。

ついでに言うなら、わたしは明治天皇もまた、立派に素晴らしい明治時代を築き上げた一人であった
と思っています。天皇が形骸化された象徴であるのはいつの御代も同じこと、そうした中にあって、
ほぼただ一人、施政に直接口を挟み携わった天皇であったからです。

お礼日時:2012/12/10 11:58

富国強兵。

突貫工事。

欧米の植民地にならないためには肩を並べるしか無いと、今までの自分を捨てて丁髷まで切り落とした英断。ある日突然、自分たちの生き方は間違っていたと認めるのはいかに大きなことかと思う。

大工場組織がなくても早急に繊維工業を立ち上げるために各家庭で蚕を飼わせた、皇室が未だに蚕を育てているところにその名残が見られる。

永遠に続くであろうと思われた江戸時代を断ち切り、新時代を発足させたが選んだ国歌は君が代。和歌の調べに実は日本の心は残したのだと「千代に八千代に」思う。

太平洋戦争も終わり、昭和も終わり、平成は困難を抱え、日本は様々な衣を纏っているが、芯には誰にも媚びない大きな意思があるものと信じたい。明治はそれを見せてくれた気がする。やればできるじゃん、と。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

そうなんです。明治維新とはただの無血革命ではなかったのです。

>欧米の植民地にならないためには肩を並べるしか無いと、今までの自分を捨てて丁髷まで切り落と
した英断。ある日突然、自分たちの生き方は間違っていたと認めるのはいかに大きなことかと思う…。

まさにそうだっと思います。当時の日本人にとっては「日本人」という意識はまったく無かったのです、
あったのはただ藩の感覚だけ。しかし、世界に肩を並べるには、なによりも国民が日本人であることを
等しく認識しなくてはならない。その感覚が欠けていては富国強兵もあったものじゃない。つまり、明治
維新とは単なる文化革命ではなく、とてつもなく大きな意識革命だったと言えるのではないでしょうか。

意識を転換し考え方を改めると、そこではじめて「文明」というものの大切さが見えてきた。養蚕の奨励
と繊維工業の推進、その産品を輸送するための鉄道の敷設、それに要する製鉄技術、こうして、文化と
ともに、物質的な「文明」の進捗が、あの明治時代の一番顕著な特徴だと思うのです。こうした国を挙げ
ての文明開化、それはまさにイギリスの例にならぶほどの産業革命と呼んでよいものだと思います。

でも、本当はね、ことわたしにとっては、こうした時代背景を、むしろ下世話な風俗といったものを通じて、
そのなかに“風”として捉えたいのです。

たとえば、東京の新橋から横浜に向けて敷設された日本初の鉄道、当時の浮世絵を見ると、列車は海
の中の堤防の上を走っています。当初計画された路線図ではたまたま薩摩屋敷にかかってしまう、しか
たなく品川沖の浅瀬に堤防を築き、その上に線路を敷設した…といったような。

でも、わたし、「太平洋戦争も終わり、昭和も終わり、平成は困難を抱え、日本は様々な衣を纏っているが、
芯には誰にも媚びない大きな意思があるものと信じたい。明治はそれを見せてくれた気がする。やれば
できるじゃん…と」というお言葉、すばらしいと思います。そうした気持ちにふと戻ることが出来る、それが
明治という時代、天皇から一市民まで、日本人は立派です。

お礼日時:2012/12/10 12:34

“散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする”とは、日本が開国した頃に流行った文句ですが、太政官布告によって、今までの武士、農民、町人の身分の象徴だった髪型と服装が自由になって、さらに武士の身分の象徴であった帯刀も許されるという身分制度からの解放がなされました。


急速に西洋のいろんなものやことが導入・浸透して、数百年続いた江戸時代の後に、よくもまあこんなにすんなり柔軟に庶民が受け入れたものだなぁーと驚いたのですが、一方で廃仏毀釈は半ば寺社破壊運動となって、今もし現存していたら法隆寺レベルの国宝であった内山永久寺のような寺社も跡形もなくなくなって、宗教美術・芸術品が海外に流出してしまった残念な部分もあった時代だと感じます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

ほんと、考えてみれば面白いことですよね。数百年続いた江戸時代の後に、よくもまあこんなに
すんなり柔軟に庶民が受け入れたものだなぁ~と…、たしかにそう思いますよね。

ただ、文明開化というものは、それが多分に物質面や、あるいは習慣、風俗などといった面での
変革が大きな割合いで作用した革命であったといってよいのでしょう。それゆえに、庶民といって
も、いち早くそうしたものの恩恵に浴したのは限られた一部の階層、そして新しいもの好きな学生
たちといったところが中心であったのではないかと思うのです。

たとえば地方はおろか、東京と名を変えたお江戸でさえも、下町などはご一新にも新文明にもそ
れほど関心もなかったようには感じます。たしかに抵抗こそ無かったにしても、やはりそこには伝
播に要する時間というものがあったからこそ、一般庶民にとっても西欧の文明も咀嚼しやすく受け
入れやすかったのではないでしょうか。

話は変わりますが、かく言うわたし、学生時代、歴史は大嫌いな科目でした。なのに、わたしに
は覚えなくてはならないことはすぐ覚えられてしまう…という特殊な才能もあったのです。歴史
という科目は、当時を偲ぶ勉強というよりも、ずばり記憶が勝負の科目、それゆえに、大嫌いな
歴史は、皮肉にもいつも良い成績でした。

でも、それは嬉しくない結果でした。そんなことからでしょうか、単に歴史的な事実と、それにまつ
わる概略の概念、そんな面白くもない知識には心が満たされなかったのです。そんなわたしが満
足を求めたのが、小説の中の歴史。歴史小説ではなくて、もっと血の通った歴史描写といったも
のでした。

ここでもまた漱石の「三四郎」を例にとるなら、ヒロインの里見美禰子、闊達で、英語を口にし、
イプセンを語る、そうした美しい良家の娘、あるいは有吉佐和子さんの「紀ノ川」のヒロイン花
もそうした女性のひとり、はかま姿で自転車を乗り回し女性解放誌「青鞜」を愛読する新しい時
代の女性。こうした当時の女性の描写ですら、そこに明治が見えてくる、これが面白いのです。

この質問では、そうした、背景となるような明治の描写を、どなたかがお答えくださらないかと
立ててみたものです。難しいことではなく、老舗の看板に見る明治…とか、なにかふとした明治
を味わいたいのです。

お礼日時:2012/12/10 14:27

あなたの質問を見て、一つ気付かされました。


「日常生活の環境で、昔を想うイメージは大きく異なるんだなぁ」と。

私の住んでいる土地には、明治時代を感じさせるものは少ないのです。
以前はもっとあったのですが…最近は壊されてしまっていますからね。
個人の所有物であることと、文化財指定する気が自治体には希薄なんでしょう。
お国柄、というヤツですね。

で…私が抱く明治のイメージは「激烈」です。

文明立国の下支えをした歴史が、わが群馬県にはあります。
それは「生糸の輸出」で、その質の高さからアメリカなどで高価で扱われ、その売り上げで「富国強兵」の原動力となってきたわけです。
詳しくは
http://www2.gunmabunkazigyodan.or.jp/cgi-bin/inf …

第一次世界大戦でのバルチック艦隊の駆逐、輸出のための鉄道の急速な普及と工事。
農地や荒地に駅が作られ、街ができる。
…そうした急激な「文明推進」というもので、群馬は「踊っていた」わけです。
そしてその影で、たくさんの「悲哀の歴史」も生まれ続けてきました。

明治という時代は、群馬にとっては「乱」の時代だったと思います。
戦国時代以来の、乱世だったのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

群馬県…、>私の住んでいる土地には、明治時代を感じさせるものは少ないのです…

いいえ、わたしはそういうふうには思いません。なぜなら、あの明治の時代、地理的にはやや
東京や横浜から離れていて、ちょっと見にはあの文明の波と関係ないように考えてしまいがち
ですが、その実、ご当地群馬県こそ、明治期の産業革命と、それによる意識革命をみごとなま
でに果たした立派な立役者であったことを知っているからです。

元の上野国、つまり館林藩、七日市藩、小幡藩など9つの藩と岩鼻があらたに、明治4年に群
馬県としてスタートしたご当地、この地域は古くから養蚕と生糸の産地として有名でした。開国
と貿易、わが国が諸外国に自信を持って輸出できる産品、それはこの生糸、日本のシルクは
大変高く評価され、まさに「富国強兵」の原動力にもなったわけですが、なんと当時の生糸や
絹織物の総輸出量の70%が群馬県から供給されたものであったということです。

群馬県は明治政府の勧業によって、養蚕に力を入れる一方、さらには欧米から最新の紡績機
や織機を導入、利根川の水利によって日本初の水力発電にも成功、富岡に製糸工場を建設、そ
れまでの零細な家内工業から一気に西欧方式による生糸と絹織物の一大生産地に発展した群
馬県でした。

しかし、他面、例の女工哀史にみるような過酷な労働条件、あるいは産業の形態の変化から生
じた種々の格差、そうしたものがやがて労働争議や農民運動にも発展していった。そうした慌し
い歴史から、群馬県は自由民権、つまりデモクラシーの思想をいちはやく身に着けた県でもあっ
たのです。西の岡山県と並んで東の群馬県、いずれも高い教育レベルを示す県ですが、そうした
気運を高めたのも、その背後に開国と輸出、そのための生糸にからむ産業革命の命題がこの地
方を燃え上がらせていたからだと思うのです。

明治…、それは、おっしゃる通り、文明立国の下支え役を担った群馬県にとってはたしかに「乱」
の時代だったのだと思います。

お礼日時:2012/12/10 20:05

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