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イスラム教過激派によるアルジェリアでのプラントテロがニュースを騒がせています。
無論、それらの容疑者たちがイスラム教徒の思想を代表しているわけではないと思います。
しかしながら、イスラム教徒は一般的に厳しい戒律を日常的に遵守し、信心深い印象があります。そこで、イスラム教徒の方々は戒律をどのような存在とみなしているのかについて気になりました。具体的には、「戒律を守ることにどのような意義があるか、倫理観はどこに根ざすのか」という点について教えていただければと思います。

A 回答 (8件)

まず最初に、アルジェリアで起きたテロとイスラーム(の戒律)にはつながりがありません。



ムスリム(イスラーム教徒)の戒律に関する考えには、かなり個人差があります。

例えば有名な1日5回の礼拝。
勿論きちんとしている人もいれば、「やれる時だけやる」「やろうと思った時だけやる」「特別な日だけやる」という人もいますし、全くしたことがない、やる気がない人もいます。

更に有名な女性のベール(最小限顔と手首から先以外はすべて隠す)。
これも個々人によって、更には国の、社会の通念からどこまで(見せても)OKかが違います。

なので、一般論としてお答えするのはとても難しいです。

しかし戒律を守る意義に関して、例えて言うなら「幸せなら手をたたこう」のようなものだと思います。

「私はアッラーを信じている。アッラーを愛している。だからその証としてアッラーの定めた戒律を守るのだ」と。

その際個々人がどこまでそれを守るのかに個人差や地域差が出てくるかもしれませんが。

倫理観は世界中の人達と基本的には同じです、ムスリムも。
人間として当たり前のことをして、人間としてしてはいけないことはしない(イスラームの範疇での話ですが)。
誰かが困っていたら可哀想だと手を差し伸べ、嘘はつかない、騙さない、盗まない、殺さない。

しかし、その「倫理観の源」は何か、と尋ねられたら、「(良い事をしたら)アッラーがお喜びになるから」「(悪い事をしたら)アッラーがお怒りになるから」という答えが戻ってくるかと思います。

例えば私達は隣人を愛する時、普通は「仲良くしたいから」「隣人がいい人だから」という理由で愛しますが、ムスリムの究極的理由は「アッラーが喜んで下さるから」です。

最後におまけで…

以上の文をお読みになり、「だからムスリムはコーラン(クルアーン)に『異教徒を殺せ』と書いてあるから殺すのか」とか「コーランには男尊女卑の発言があるから、イスラーム諸国では女性の地位が低いのか」とは思わないでください。

クルアーンにはそれぞれに細かい注釈(タフスィール)がされていて、無条件に殺人や男尊女卑をしているわけではありません。
たとえば、男尊女卑の発言として取り上げられている文章(「不貞(不倫)の妻を…叩け」や「男性は女性より一段上である」)は、決して男尊女卑ではありません。

「不貞の妻を…打て」は、注釈と前後の文から、「不貞の妻には最初に諭し、それでもだめなら臥床に置き去りにし、それでもダメなら(注釈より:アザが残らない程度に)叩け」とあり、DVレベルの暴力は認めていないのです。
「男性は女性より一段上」というのも、「男性は家計を稼ぐために体力的に女性より一段上にした(家族を養う義務は男性が負うのだ)」という説明の文が、別の部分で書かれています。
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私はイスラム教徒ではありませんし、むつかしい宗教の話はわかりません。

しかし、仕事の関係でイスラムの人とはいろいろな付き合いがあります。最も戒律の厳しいサウジアラビアやその他の中東の国々に行ったこともあります。
そこで感じたことはイスラム教の人たちも、われわれ日本の人たちと大きな違いはないということです。いずれも平和を愛し、家族を愛し、不正や悪を憎んでいます。

イスラム教の戒律は厳しくて不自由なものと考えている日本人は多いと思いますが、イスラムの人たちにとっては、生活の中に組み込まれた習慣に近いものです。

朝、夜明け前にコーランの声で目を覚まし、礼拝に行って一日が始まります。一日に何度か決められた時間に礼拝をします。お酒を飲んだり、賭事をしたりしてはいけません。肉は教えに則って と殺 されたもの(ハラル)しか食べてはいけません。豚肉はだめ。女の人は人前で顔を見せてはいけません。

日常生活で我々日本人が違和感を覚える戒律はこの程度です。もちろん、イスラムの教えでは、人を殺してはいけないとか、人のものを盗んではいけないとか、売春や麻薬は禁止とかの「戒律」がありますが、これは日本と同じでしょう。(イスラム教では複数の妻を持つことができますが、実際には一夫一婦がほとんどです。)
さらに、この戒律を厳格に守っているのはサウジアラビアやイランのような一部の国だけで、他のイスラム諸国では、守らない人も大勢います。インドネシアやマレーシアではお酒を飲む人も多いですし、売春や賭事も比較的緩いですよね。

サウジアラビアに行って気づいたことは、とっても治安が良いということです。どこかのキリスト教国のように、ホームレスが街をうろついていたり、一人で歩いていると若者がすり寄ってきて、1ドルくれと言われたりするようなことはありません。
飲む、打つ、買うが禁止されているわけですから、人々の楽しみは家族団らんを楽しむことで、休日の公園ではピクニックをする家族づれやデートをする若者たちでにぎわいます。サウジの人は一般に家族思いの人が多いように思えます。

イスラム教というのは非常によくできた宗教だと、言われることがあります。戒律さえ守っていれば、争いごとはなくなり平和な社会を築いていくことができます。また、戒律は非常に細かいことまで決められているため、考える余地がありません。

しかし、それが近代化を阻害しているようにも思えます。戒律は「神の教え」ですから勝手に変更することができません。戒律を盲目的に信じて、戒律を守らない人や異教徒を攻撃しようとする人たちもいます。このような人たちは一般に、田舎者で、知識が狭いため、指導者のいいなりになってしまいます。アルジェリアのテロはこういう人たちが起こしたのだと思います。
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戒律を守ることと倫理観とを対比して考えることは、一神教においてはありえないことでしょう。


一神教であるからには、神は「天地創造主」「全知全能」「人との特別契約(入信の儀式)によって不思議な恩寵を与えてくださる主人」であります。ですから人生の最大関心事は「神の言葉を守る。神を讃える」ことであります。倫理が出てくる場面はありません。あるいは戒律をどれだけ厳しく守るかということだけが倫理でしょう。特に倫理を強く主張する者(原理主義者)に対して、教徒でいくぶん世俗的な人々は説得力を持つことが出来ないようですね。
天地創造を認めない仏教徒と一神教徒とが互いの平和を祈る場合にも、一神教徒は必ずこう祈るわけです「私の神だけが貴方と私の間の平和をもたらしてくださることをお示し下さい」と。
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「イスラムと戒律」ということで、一口に答えるのは難しいけれど、


こちらの慶応SFCの奥田先生の授業映像はわかりやすく
かなりおすすめです。

時間がなければ、以下2回でも見てみてください。
第06回2010/05/21 神について考える
第12回2010/07/02 ジハードとは何か

https://gc.sfc.keio.ac.jp/cgi/class/class_top.cg …
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夫がサウジアラビアに赴任中です。

心配ですから、あれこれ本など読みまして、ご近所のモスクを訪ねて、女性信者の方に、お話を伺ったこともあります。

イスラム教の最終目的、というのは、死後、モハメッドの昇天したという天国に迎えられることでしょう。それとともに、モハメッドの残したコーランの教えに従って生きることにより、人間として、ありがちな罪を犯すことなく、堕落することなく、生涯を全うできます。

人間の考えや行いは未熟なものである、よって、先賢の教えに従って、間違った道に踏み込まない。子供達にも、正しい教えを敷衍することができる、という、ありがたいものなのです。

私はキリスト教徒ですが、まぁ、イスラム教も、似たようなものだと、(口には出せませんが)思っています。仏教の融通無碍なところは他の二大宗教とは趣をことにするので、わかりにくいところがありますね。
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日本人にとり、イスラム社会を考えることは、一般論では大変説明が


難しいと思います。あなたは何か、イスラム世界と接点が、ございますでしょうか?

私は嘗てインドネシアのジャカルタに出張で行き、表面社会では何も感じ
なかったのですが、偶然下町の路地を夕暮れに抜ける時に、彼らの祈りの風景に遭遇し、
俄然興味を持つようになりました。

インドネシアには2回行きました。日本人が好きなバリは、ヒンドゥーで
イスラム世界ではなかったのですが、社会のうねりは豪州人観光客の多い
バリにも押し寄せています。
あとはトルコから汽車で、バルカン半島を横断したことが、あります。

キリスト教世界を、日本人は普段どんな風に、考えているか。
そこから、ムスリムの対岸を考えていく方法も一つあると、思います。

ムスリムは、ネットワークだと、松本健一は解釈しました。
これも当たっていると思います。教義や戒律も大切ですが、一般のムスリムにとり、
それは生きる世界の空気みたいなものだと、私は解釈しています。
その空気が脅かされると、自爆テロが起きたり、その前に教義解釈の原点に戻ろうとする、
原理主義が過激化することがあります。
この辺りから日本人には、大変理解の及びにくい価値観になると思います。

今回のアルジェリアの事件は、市井の一日本人として、私も考えさせられました。
私の亡父もプラント技術者として、アルジェに行ったことがあるのです。

チュニジアのジャスミン革命から始まったアラブの春、アルカイーダの象徴であった
ウサマ・ビン・ラディンの殺害と、2つのステップが近年、西側社会を驚かせる
影響がありました。
今回の石油プラント包囲は、かなり複雑な背景があると思いますが、中東に比べて
ヨーロッパに近い地中海世界の対岸で起きた事件であるだけに、戒律や倫理だけでは、
とても解釈できないと思います。
イスラム3.0(第3段階)に入ったと言う意見もあり、日本人としてはよく考えていると
思いました。

戒律という言葉は本来、仏教用語だと思います。もちろんイスラムにも、それに当たる
解釈がありますが、私は「祈り」と求心力がイスラム世界の中心を占める価値観では
ないかと、考えます。
倫理については、前近代的な道徳観のことがよく取沙汰されます。女性に対する
社会のポジションと、純潔性でしょうか。これは元の教えに忠実でなければという教義と
やはり現代に敷衍させなければという、流れとの解釈論だと思います。

世界一人口の多い宗教はイスラム教で、また人口増加の著しい地域の宗教でもあり、と
いうことです。富と資本と言う考え方は、キリスト教と一番隔てるところで、共栄、分配、
ひょっとしたら、「持続可能な社会」というのは、こちらの方が近い考え方なのではと、
時々思うことがあるのです。
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この回答へのお礼

長文でのご回答ありがとうございます。
お礼が遅くなり申し訳ないのですが、大変興味深く拝見させていただきました。

私とイスラム教との接点ですが、
自身はかつて、一般的にカルトと認識されているキリスト教系の宗教に属していました。その宗教はカトリックとは少し違った方向で原理主義的でした。少し前に離教したのですが、以前守っていた宗教内の戒律のうち、純潔性に関するものは本当に無意味だったのか?という疑問が生じました。
功利主義的な善悪の定義を曲解すれば「人の迷惑をかけなければ何をしてもよい」となるはずですが、それに違和感を覚えたのです。
そこで、厳しい戒律を遵守するイスラム教の方たちはどういう動機・倫理観で戒律を守っているのだろうと気になった次第です。
原理主義に1度は覚えのある身として、イスラムを論じたいと考えています。

kotaro-hさんのおっしゃる、ネットワークとしてのムスリム、外の世界(キリスト教・政府等)との接触によるイスラム教内部の思想の変遷、「祈り」について考察してみようと思います。
貴重なご経験とご意見をありがとうございました。

お礼日時:2013/02/07 12:16

もともと集団主義の色濃い東南アジアの稲作農耕(特に集約的な


ジャポニカ米)地域では、放っておいても社会性は維持されるので、
戒律の厳しくない儀式宗教(共同体意識の補強)たる仏教が普及
している。
キリスト教(毎週教会に通う)やイスラム教のように、強力な教義を
持つ一神教は、自己主張の強い個人主義の遊牧文化圏を中心に
広がっている。

もともと世界に分立していたアニミズム的な土着宗教を淘汰して、
それらの世界宗教が普及したのが、古代国家が発展し組織性が
拡大した同時期なのは、偶然ではない。
利己的な意識をして社会を維持するための足カセとしての役割が
あるのだ。
そうした「組織を維持するための足カセ」は、それが強力であれば
あるほど、そのタガが外れた時(組織外に対して)の反動は大きい。
ヒトラーがユダヤ人を生け贄に選んだように、下手クソな政治家が
内政の失敗を糊塗すべく外部に敵を作るように、異物に対して
攻撃的になる事で、内部の団結力を強め、意識の社会性を醸成
する事になるのだ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
農耕民族と遊牧民族の性質の違いについて、大変面白く感じました。
現在最大のイスラム国家であるのはインドネシアですが、信者の半数がそれほど敬虔ではない統計上のイムスリムであるという文献を見ました。
確かに、厳しい規範はコミュニティーの強い結束力を生じ、またそのような必要がある地域で繁栄する宗教は必然的に決定されるのかもしれません。

お礼日時:2013/02/07 11:31

>戒律を守ることにどのような意義があるか、倫理観はどこに根ざすのか



我々は、コーランの教えに従う敬虔な信者である。
戒律を守ることは、人類が正しい信仰へ導かれる重大な意義をもつ。
アラーへの帰依と深い信仰心に根ざしている。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。
ムスリムの方のご回答とてもありがたく思います。
人類を導くのは神であるとは、善悪を決定する権利を神にゆだねておられるということでしょうか。
そうであれば、神の倫理観と自らの倫理観は完全に調和しているのかと疑問が生じました。
もう少し考えてみたいと思います。

改めて、ありがとうございます

お礼日時:2013/02/07 11:08

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