日本が本格的な統一国家になって、大和政権が、平地でない奈良“盆地”に成立しました。
その後、都は、同じような地形の京都盆地に移りました。
そして、都は、海岸近くの鎌倉・大坂・東京に移りました。
規模がまるで違いますが、4大文明は、黄河やナイル河などの大河沿いに発生しました。
質問は、大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良“盆地”という地形が、関与していますか?

A 回答 (15件中1~10件)

舒明天皇の、有名な国見歌があります。



「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち
国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ
うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」

天の香具山から飛鳥地域を見ての歌ですが、海原、かもめ、などが歌い込まれています。

山の辺の道が「山の辺」の道であるように、奈良盆地には、縄文海進の名残り的な、湖沼、池沼が、ここかしこに残存し、人の日常の居住活動が困難な、大湿地帯だったことを推測させます。

また、遣隋使・小野妹子の帰日時、同行した隋使・裴世清の一行は、大和川を、舟でさかのぼり飛鳥の宮を訪問したと、日本書紀にあります。

つまり、奈良盆地は、縄文海進の名残りと、大和川を中心とする諸河川の氾濫原とで、たいへん水や水運と縁の深い地域だったのだと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
奈良盆地は、当時は大湿原地帯だったのですね。
また、大和川などが水運に役立っていたのですね。
水に恵まれていないという、盆地のイメージ(これはあくまでも私のイメージですが)は修正しなければならないのですね。

お礼日時:2013/05/01 12:27

ところで、京都盆地についてですが、南部と北部では違いがあります。

平安京のおかれた北部は、北部・東部・西部を山に囲まれ、高野川・賀茂川・白川の扇状地上にありました。これに対して南部は、琵琶湖の唯一の流出河川である宇治川が、京都盆地南部の低地で、巨椋池という遊水地を作り、そこから淀川に流出します。流出地点付近には木津川や、高野川・賀茂川・白川などの平安京の東側を流れる川を合わせた桂川も流入します。平安京は北・東・西は山に囲まれた地形でしたが、南部には湖水地帯が広がっていました。湖水地帯の中心となる巨椋池が戦前に干拓により姿を消していますので、情景に変化が起こっています。また、賀茂川(白川・高野川を合わせた後の賀茂川)が桂川が合流する地点が鳥羽で、平安京の中央道路である朱雀大路から羅生門を通って南下した地点にもあたり、平安京の外港(川港)として栄えました。鳥羽から淀川を下り、淀川河口付近の神崎川との合流点の江口、神崎川の神崎、兵庫、大輪田の泊などの港と結び、西国・大陸の水路として利用されました。淀川は水量も多く、難所もなく、大和川に比べると水運には適していましたし、瀬戸内海に出るのも容易でした。土佐日記などを読んでも船舶の海上運行は、陸地を目印に航行し、海賊の襲来などの関係もあり、日中の航行で、夜は港に停泊するような運行であり、港港を伝って航行する状態で、周りを陸地に囲まれた瀬戸内海をメインルートにしていました。
平安時代だけでなく、奈良時代からは官道が整備されており、東国へは陸路が中心でした。東国では僦馬(しゅうば)という輸送業者の存在がありましたが、西国は船運、東国は馬が輸送の中心と考えられています。
ともかく、律令制が成立し、更にそれが公領荘園制に変質しても、都に年貢などの物資が集まり、人の交流の起点ともなりますので、武家の都を含む都や、地方の拠点都市(城下町など)などは交通路の近くに立地するか、新たな交通路の開発を考えなければ成り立たなくなってきます。時代が下るにつれて都及び類似都市では人口が集中し、周辺地だけでは食料の供給もままならなくなってきますので、その意味でも物流路としてのて道や湾港・航路の確保は欠かせなくなります。これは武力でも同じで、時代が下ると共に軍事規模が拡大し、兵士の供給地も拡大せざるを得なくなります。
さて、平安京に戻ると、院政期には七条町に武具や馬具の生産集団の居住が確認されています。この地は平安京の東市の周辺地帯にあたり、東西市の設置時からその周辺には商工業者の存在が考えられ、当時としては先進的な工業地帯でもあったわけです。
宗教施設については平安京の場合、既存の上下賀茂社だけでなく、延暦寺や教王護国寺(東寺)などの設置も相次ぎます。鎌倉も鶴岡八幡宮を勧請して宗教的な中心としますし、江戸も寛永寺などを造営しています。
平安京に限らず、鎌倉、大坂、江戸(都とは言い難いとしても武家の都の意味で)なども、食料供給などのようにその条件が時代と共に満たせなくなるものもありますが、奈良盆地とヤマト王権にあげた条件を大なり小なり持っていますし、欠けている条件は満たそうとしています。それらの条件の中でも、時代により中心となる要件はあるように思います。武家の最初の都である鎌倉は、鎌倉城と言われることがあるように、要害の地でもありますし、背景地に関東という武力の供給地を控えています。難波・大坂の地は、海外との関係が重要な時期に都に選ばれる傾向があります。明治維新時にも遷都の有力候補地に挙げられています。
江戸で言えば、城郭の建造(天下普請としての拡大)、五街道の整備、東回り・西回り航路の開発、武具職人などの技術者・商人の招聘、製塩業・醸造業などの地回り経済の育成などが条件整備の主要なものとして挙げられますし、上知令にも防衛の面だけでなく、経済上、食料供給上の要因もあったとされます。都として要件の整備はどの都でも大なり小なり行われています。
奈良湖
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/img/narako.jpg
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/img/kinkisui …
纏向遺跡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%8F%E5%90%91% …
巨椋池
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/22/0000199 …
河内湖
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85% …
http://www.geocities.jp/waikoku/snaniwahorie.jpg
日本の古代道路
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
飛鳥
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5
延喜式左右京職・東西市司
http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/rituryou/e …

質問の主旨は「大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良盆地という地形が、関与していますか?」ということでしたが、主旨だけでなく、後になるほど都の要件の要素が強くなり、主旨を外れてしまいました。参考までということで、ご容赦ください。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございました。
大作ですね。お疲れ様でございます。
都の成立には、
<時代により中心となる要件はある>
ということですね。
鎌倉は、要害の地であり、難波・大坂は、海外との関係、ということですね。
京都は、幾多の河川に恵まれ、水運の便が良かった、のですね。
具体的な・綿密な説明を頂き、納得しております。奈良盆地に関しての質問を契機にして、歴史に関する視野が少しとはいえ、広くなったような気がし、感謝しております。

お礼日時:2013/05/01 22:06

上記の「狭義の大和」とは、同書の中で、直木孝次郎の論を引用しつつ、「狭義の大和は奈良盆地の東南部、旧郡の式(磯城)上、式下、十市郡から一部山辺郡を含む地域をさし、これが本来の「やまと」の範囲」としています。

この地域の中心が纏向の遺跡群で、三輪山を西麓一帯の地域であり、ヤマト王権の揺籃の地であったとされること上記した通りです。記紀では応神天皇の時代に難波に宮が遷り、王朝交代説では、前の王朝を崇神王朝とか三輪王朝とよび、後の王朝を応神王朝とか河内王朝と呼びます。王朝が交替したかどうかはともかくとして、応神からの皇統は、倭の五王に比定される皇統で、朝鮮半島南部を中心として高句麗などと争い、鉄資源などの争奪と、文物・人間(渡来人など)の入手など半島との関わりの多くなった時期にあたります。ヤマトにあった王権が時代の要請で半島との行き来に都合の良い難波の地に遷ったのか、王朝が交替したかどうかはともかくとして、河内・和泉の地と大和とは一体の関係ではなかったかと思われる点がいくつかあります。「アスカ」という地名があります。現在では奈良の「飛鳥」が有名ですが、これは「遠つ飛鳥」と呼ばれます。これに対して「近つ飛鳥」と呼ばれる飛鳥は、現在の羽曳野市にあり、顕宗天皇の宮が置かれたとされています。飛鳥の「遠近」は、難波宮からの遠近だとされます(逆の説もあります)。また、後代になりますが、物部氏の館が河内の渋川にあるなど、大和の王族・豪族が領地を持つ例が多くあり、大和と河内で、どちらが本貫地かわからない豪族もいます。河内王朝、倭の五王の時代と呼ばれる時期はヤマト王権の発展期にあたり、河内・大和の一体化が深まり、また、難波の堀江の掘削が、干拓地の拡大、食糧増産を狙ったものとの指摘もあり、河内湖の干拓や、それまでは狭い海浜部以外は海であった上町台地の西側も、海退が進み、耕地の拡大、生産力の向上がはかられたようです。ヤマト王権はこの地域の経済力・人的資源を基盤に、半島に度々出兵し、権益の確保を図ると共に、国内にも影響力を拡大(戦いの有無はともかくとして)していったことは、「倭王武の上表文」からもうかがえます。
半島との関わりは先進的な文物の流入のみならず、先進的技術を持った人間の渡来も意味しました。渡来した大きな集団としては、秦、東漢(やまとあや)、西漢(かわちあや)が上げられますが、東漢が大和の檜隈を中心に、西漢が河内の古市・丹比郡中心に移住しています。秦のように山城を含め(秦の存在が平安遷都の要因の一つと言われます)、大和・河内に分散移住したように、この2国以外にも移住していますし、他氏族の渡来もあります。このような渡来系の人々が農業・建築・土木・工芸・文化などの多くの分野で、先進的な技術集団としてヤマト王権に貢献したことは記紀の記述だけではなく、鞍作(鞍部-くらつくり)などの氏姓名に残っています。また、白石太一郎の「古墳と大和政権」の引用になりますが、「新しい河内南部や和泉北部を基盤とする王権は、大和・河内にまたがる、邪馬台国以来の政治統治の機構やそれにかかわる生産機構などをそのまま継承したと思われる。たとえば王権による伝統的な鏡や玉の生産は五世紀になってもそのまま奈良盆地で行われた。鏡の生産については、考古学的調査は未着手であるが、奈良県俵町本町の鏡作神社付近で行われていたことは疑いなかろう。玉生産については、橿原市曾我遺跡で五世紀の大規模な玉生産遺跡が見つかっている。一方朝鮮半島から伝えられた新しい技術による鉄器生産や須恵器生産の工房は、河内南部や和泉北部に置かれた。大阪府柏原市の大県遺跡などでは五世紀の鉄器生産遺構が検出されており、大阪府の堺市から大阪狭山市、和泉市にかけての地域では、五世紀初頭にはじまる古墳時代最大の須恵器生産地である陶邑窯跡群が知られている。」としています。初期ヤマトを邪馬台国と考える部分は除いても、大和・河内(和泉については716年までは河内国の一部)が、玉・鏡・鉄器・須恵器などの生産地でもあったことになります。
以上、奈良盆地と、その延長線上にある河内について述べましたが、ヤマト王権における奈良盆地とは、決して水辺になかったわけではありません。大和川という河川を通じて難波、西日本、大陸と繋がっていました。平城京が平城山を越える木津を川港とし、平安京が淀川に流入する鳥羽を川港とします。飛鳥の宮は大和川の水系(飛鳥川)の中にあります。長岡京は東南部が淀川に接していたとされます(そのために水害が多く、平安遷都の原因の一つともなったとされます)。鎌倉は相模湾に面し、和賀江島を築いて港湾施設とし、また六浦を外港にします。安土は琵琶湖に接し、大坂は難波にあります。伏見も小椋池や宇治・淀水系を背景としています。都(武家の都も含め)を考えると、陸上交通だけでなく、水上交通も必要と言えます。
ヤマト王権にとっての奈良盆地の意味について考えると、次のようなことが要件として挙げられるのではないでしょうか。
1、財政基盤である耕作地を持ち、富の集積と、軍事力の源泉たる兵士の供給地。食料の供給地。
2、防衛が容易な地形。(飛鳥地域は二重の防衛地)
3、西日本・朝鮮半島との水路、東日本との陸路の結節点であり、物資と人の流通・交流システムの要の位置を占めていた
4、玉・鏡(鉄器・須恵器)などの生産地であり、当時の工業地帯でもあった。
5、先進的な技術を持った渡来人を受け入れ、活用した地。(技術者集団の存在)
6、三輪山を中心とする宗教的な地。
ヤマト王権は、専制的というより、豪族連合的な要素の強い政権であったことは定説化していますが、葛城・和邇・平群・蘇我氏などの大豪族が豪族の位置に留まったのは、大王家の宗教的な権威と血統にあったように思われます。その、宗教的な権威と、三輪山の存在はリンクしていると考えられ、三輪山のあるヤマトであり、その三輪山の祭祀を司るヤマト王権に宗教的な権威と血統的な尊厳が付与されていたのではないでしょうか。血統的な尊厳について、継体天皇には安閑・宣化・欽明天皇の三名の男子があります。欽明天皇死後に何度かの皇位継承の争いがありますが、宣化天皇には皇子があるにもかかわらず、その皇位継承の候補者になった形跡がありません。継承争いの前に亡くなったことも考えられますが、前の王朝?の血を引く手白香皇女を母とする欽明の血統が尊重されたと考えられます(現在の皇統は、欽明天皇と、宣化天皇の皇女の石姫皇女の間に誕生した敏達天皇の流れ)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
労作には頭が下がり、圧倒されます。
<大和川という河川を通じて難波、西日本、大陸と繋がっていました。平城京が平城山を越える木津を川港とし、>
ですね。盆地と言われていても、それを正確に把握しないといけないのですね。
<都(武家の都も含め)を考えると、陸上交通だけでなく、水上交通も必要と言えます。>
ですね。後代も含め、都が設置されたということは、逆に水上交通も必要な要件を満たしていた、と考えられるのですね。
今のカ感覚でいうと、奈良盆地あたりは、ぱっとしない場所ですが(これはあくまでも私の個人的な感じかたです)、1から6項のように詳細に分析してゆけば、都があったのは必然的と言っても良いのですね。

お礼日時:2013/04/30 19:39

長くなりますが、


地球は1万年前からの沖積世(完新世)初期は氷河の融解で海水面が上昇し、その後、海水面は緩やかに下降し、紀元前後から現在までは安定し、河川から流入する土砂によって、沖積平野が拡大したとされています。日本列島も同じような経過をたどります。現在の日本の日本列島の海外線と、奈良時代以前の海岸線は大分様相を異にしています。現在の平野部のほとんどが、縄文以降、奈良時代以前に、何らかの形で海中に没した部分を持っていたと考えられます。例えば、関東では現在の東京湾が陸地に深く入り込み、海岸線は現在の埼玉県春日部市辺りであったとされます。それが、旧利根川、荒川などの河川からの土砂が堆積し、陸地が拡大し、江戸時代以降の干拓もあり、現在の海岸線を形成したとされます。そのようなことから、大宝律令制定時には武蔵の国は東山道に属し、道も、上野国府から下野国府に至る主道から分かれた支道が武蔵国府に通じていました。逆に東海道は武蔵国から下総国へ入らず、相模の走水から上総へ海上の道を使い、その後下総の国府という順でした。古事記や日本書紀のヤマトタケルの実在性はともかく、東征神話でも、走水からの海路をとっています。
現在の地形と異なることは内陸部でも起こっています。奈良盆地についてですが、弥生時代までは盆地の中央部分を奈良湖(大和湖とも)と呼ばれる大きな湖が存在したとされます。これは、弥生時代の遺跡がある等高線以上にのみ存在し、等高の低い地点にはその存在が確認されないことから考えられた説で、ヤマト王権の揺籃期の遺跡とされる纏向遺跡も、三輪山の西部山麓で、奈良湖との間に存在したとされます。また、弥生中期の大規模遺跡の唐子・鍵遺跡が、纏向西方にありますので、弥生中期には、奈良湖は縮小していたようです。さらに、古墳時代の遺跡が盆地西部の低地にも存在するようになりますから、そのころまでには奈良湖は消滅したと考えられています。このような湖の消滅は、その後に広大な平野部を形成しますから、湖の消滅という自然現象(亀の瀬から排水路をつくったとの説もあります)は、干拓と同様な効果を上げたと考えられ、耕地・人口の拡大と富の集積が可能となったと考えられます。揺籃期のヤマト王権にとっての財政基盤の拡大を図ることができたと思われます。後ほど交通路についても述べますが、交通路があっても交易に必要な富が無いことには交易に参加できませんし、軍事的な行動にも限界があります。安定した農業生産は古代における政権の基盤であったことは忘れてはならないことだと思います。
さらに、奈良盆地の地形は、周囲を山に囲まれ、出口が、西方は奈良湖の排水路でもあった大和川およびその周辺の山道や、竹内道と呼ばれる古道によって河内方面と結ばれる道。北部が奈良坂を通じて、木津、山背国方面の道。東部が竹内道の延長上でもある伊勢への道。南部が、吉野熊野山塊に続く道と限られ、防衛上の利点を持った地形でもありました。後の事になりますが、現在の京都が多方面に開けた地であり、守るに難しく、攻めるに容易なため、多くの攻防戦に守備側が不利になったのとは対照的な地形でした。その上、飛鳥地方は更に小丘に囲まれ、奈良盆地を外郭とすれば、内郭に相当するような構造でした。奈良盆地は、中国における関中平原(渭水盆地)にも比すべき構造でした。関中は東に函谷関・南に武関以外にほぼ通路が無く、内部の平野部は農業に適した土地で、秦は中国西部の現在の甘粛省から、関中平原に進出し、農業生産を増大させ、兵を養い、戦国の七雄を統一したとされます。また、前漢も漢楚の戦いに関中を兵站地として、負け続ける漢の劉邦に、兵員・兵糧等を送り続け、最終局面に勝利し、前漢帝国の成立に結び付けています。関中の農業生産力・富・人口が秦漢帝国の成立の大きな要素であったことは、古来指摘されています。奈良盆地もヤマト王権にとっての関中ではなかったかと思います。
さて、次に交通路ですが、まず上げられるのが水運です。一般に奈良の水運は大和川と、木津川が上げられますが、木津川水系には奈良坂を越えて、木津までの陸路が長い上に、木津・淀水系と、大和川水系は古墳の形式が違うとの指摘があり、平城京が成立するまではあまり使用されていないようです。これに対して、大和川水系は、前記の纏向遺跡の中に幅5m、深さ1m、長さ200mの水路が発掘され、推定の設置距離は2600mに及び、大和川につながる水運に利用されたのではないかとされています。この大和川の利用は、奈良盆地を出る地点の亀が瀬付近が難所であり、ここを船で越えられなかったとみられており、この部分は陸路を利用したと考えられています。奈良盆地を出た大和川は、石川と合流して、北流し、河内湖に流入していました。
河内湖は、生駒山系と上町台地の間に広がる湖で、古くは北側が大きく開いた河内湾と呼称される湾(海)でした。生駒山塊の北部先端に淀川の当時の河口があり、上町台地の北端が瀬戸内海とつながる地点でした。その後、淀川・大和川からの土砂の流入で北部に砂洲が発達し、一部を残して湾を閉鎖し、両水系の流入により、淡水化します。さらに土砂の流入で徐々に湖は消滅をたどります。ただ、消滅は奈良湖より遅く、倭の五王時代にも存在し、草香江と呼ばれており、仁徳天皇により、排水路としての難波の堀江が掘削されたと伝えられています。この堀江の途中に難波津と呼ばれる港湾施設が設けられ、難波津の東で、上町台地の先端部分からは倉庫群の遺跡が発掘されるなど、古代の重要港湾施設でした。つまり、奈良盆地から大和川を下って河内に出、草香江から堀江、そして難波津に至り、瀬戸内海航路を使って西日本、更に朝鮮半島などの大陸に至る水の道があったことになります。奈良盆地の出発点は纏向や飛鳥に近い海石榴市であり、難波津は、ヤマトの外港の位置にありました。
陸路は、三輪山の南麓から西に、横大路と呼ばれた官道が二上山に向けて通り、二上山の南の竹内峠を通る竹内街道と、北の関屋を通る長尾街道に分かれ河内に入り、道は1本になって、住吉津に至る官道が推古朝に整備されたと日本書紀に記載されていますが、それ以前にもこの官道のもととなったような道があったとされます。また、三輪山の南麓からは横大路に接続して、伊勢街道と後に呼ばれる道が通っていました。纏向遺跡などからは多量の東海系土器が出土しており、東海地方と、ヤマトの関係・交流が考えられています。つまり、白石太一郎が「古墳と大和政権」で述べているように、「河内・大和が瀬戸内海航路の終点であり、また広大な東日本への交通路の起点であるという、物資と人の流通・交流システムの要の位置を占めていたことによるものであろう。狭義の大和、すなわち「やまと」の地は、まさに大和川(初瀬川)を遡り、伊賀をへて伊勢に至る交通路の起点の位置を占めているのである。」ということになると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
労作お疲れさまでした。
<海水面は緩やかに下降し>
ですね。当時は、奈良湖が大きかったのですね。そして、それが縮小していく過程で、
<干拓と同様な効果を上げた>
ということですね。奈良盆地は、水から離れていたわけではないのですね。
奈良盆地は、地形的に守備には好都合だったですね。
水路は、大和川が活躍したのですね。
歴史を動的に・ダイナミックに説明して頂き、良くわかりました。
この回答No20を咀嚼してから、No21と22を読ませていただきます。

お礼日時:2013/04/29 10:36

NO.2です。

議論が賑やかになっていますね。ご質問は、
「大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良“盆地”という地形が、関与していますか?」
でした。その時代と,懸け離れた後世の時代状況も引き合いに出されていますが,いささか,焦点がずれた意見も見られるかと思います。
自然の地形と環境は日本特有の自然と気候の影響で,百年もすれば著しく変化します。人々の暮らしも,自然環境の変化は勿論,社会環境の進展と共に変貌します。
自然の恵みに預かって暮らしていた縄文の狩猟・採集生活から,稲作を中心とする農業依存の生活への転換が,元百余国と言われた小国分立の状態から,卑弥呼を中心とする倭国へと戦乱の中で統一(小国家連合)され,次第に国家らしい姿を見せ始めたのが弥生時代,戦乱が収まりを見せはじめ,安定した統一国家形成の芽生えが古墳時代とするなら,その間の時代に相応しい検討が望まれます。王族間の肥沃な耕作地の争奪戦を思わせる武具の強力化,土地の自然変化と工作・土木技術の進歩による農業生産力の発展,利用可能な自然環境の変転(自然災害と新しい土地の出現)と物資運搬技術の発達など,総合的な面から時代に沿って検討すべきで,大和王権の成立期を,いきなり戦国末期の状況と比較しても無意味かと思います。現代の東京都と,一面の芦原を切り開き,築島・埋め立てをもって発展させた江戸時代初期とを同一に論じることは出来ません。
鳥取県の麦木・晩田(むき・ばんだ)遺跡群には,縄文期から古墳時代にかけての住居跡,工房,楼閣,のろし台,山陰特有の四隅突出墳墓群,初期石室式古墳群,法隆寺と時期的に重なる上淀廃寺跡など,重層的な人々の営みの後が発掘され,やがて廃棄されていった痕跡が明瞭に残されています。一つの小国家が形成されていた要害の地が廃墟と化すに至るには,自然地形の重大な変化が伴っています。
現在の米子市淀江町に当たる地域が,麦木・晩田遺跡群の重要港湾を成していたことが確認されています。大山の崩土が流出し,美保湾の海流によって砂が堆積した結果,入り江が消えて港の用を果たせなくなった為に,都市的機能が出雲地方へ移転せざるを得なかったというのが,現段階でのこの地方の歴史観です。
島根県荒神谷遺跡に,北九州を特徴付ける数百本の銅剣・銅矛と,関西の象徴である複数の銅鐸が,出雲の神宝の如く埋蔵されていたことの歴史的意味の検討も,未だに終わっては居ません。
前回触れましたように,大和盆地が元湖であったことと,阿蘇など九州での諸火山活動をも考慮してこそ,古代を望見し得るものと考えています。
箸墓古墳の被葬者が果たして卑弥呼と言えるのか,卑弥呼の宗女壱与のものか,はたまた神武の如く東征して,卑弥呼の王統を打ち破ったかも知れない狗奴国男王卑弥弓呼のものか,安易に断定すべきではないと思われます。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
<鳥取県の麦木・晩田(むき・ばんだ)遺跡群>
のご説明から、No2の説明にありました
<奈良盆地は太古湖でした。>
が、何を意図されてお書きになったのか、遅ればせながら分りました。
そして、懸け離れた時代と比較することは、あまり良くないことも分かりました。ただし、自然科学では再現するための実験ができますが、実験のできない歴史では、比較もある程度やむを得ないのかな、とも内心思っています。

お礼日時:2013/04/22 20:05

https://www.jstage.jst.go.jp/article/arp/27/1/27 …

水田生物多様性の成因に関する総合的考察と自然再生ストラテジ 

P22 表1

古墳時代までは「山麓緩斜面」が稲作の中心です。

大和政権といえば、古墳時代であり、飛鳥地方のような傾斜面が農業生産の中心と言えます。

古代(7世紀から12世紀)に「沖積平野,盆地など平野全般」の開発が「ため池など灌漑施設の造成と区画化」によって進んだ。

No9の繰り返しになりますが、「生産可能な対象域は時代によって変わるから、当時の技術で一番いい場所はどこよ?」としないと、現代の高度な農業土木技術を前提にすると誤解になってしまいます。

交易の結線という意味では、中国史において洛陽あたりがどうして先進的?(夏王朝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8C% … このへん

http://www006.upp.so-net.ne.jp/china/point47.html

http://www.ouj.ac.jp/hp/kamoku/H25/kyouyou/B/nin …

黄河流域の農業生産物
淮河流域の農業生産物
長江流域の農業生産物

これらの農業生産物が混在して遺跡から発見されているそうです。
理由は、気候の大変動時代で、基本的に農業生産が不安定。多種多様な農産物を生産するやり方が生き残るためには重要で、上記の遺跡からは多種多様な農産物の跡がわかるそうだ。
洛陽平原は、単に商業という意味での交易だけでなく、農業の情報のセンターでもあったのだそうだ。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。
<古墳時代までは「山麓緩斜面」が稲作の中心です。>
ですね。
<当時の技術>
が大切なのですね。この質問に限らず、歴史では、現在の視点から眺めるのは、正しくはないですね。
あくまでも、当時の視点から、が必要ですね。しかし、初心者にはつらい。
そして、洛陽も面白い地形に位置しているのですね。

お礼日時:2013/04/21 08:50

4大文明は、黄河やナイル河などの大河沿い



現代の治水の技術が上がっている時代から見ると 四大河文明なんて言われると川岸にあるように思えてしまう。(そもそも 最近はそういう言い方もあまりしないようだし)

大きな河に注ぎ込む小さな(人間が古代に管理しやすい大きさの)河川にそって都市国家ができました。大きな川にはたくさんの小さな川が流れ込むので、都市国家がたくさん出来ます。
※ 川はなくても天水で農業OKという文明もある。
大河って結構人間が管理するのは大変。

○ 黄河
殷墟から黄河まで
今の黄河で100キロくらい
洛陽から黄河まで 30キロくらい
※ 黄河で渡河可能領域はこのへんくらいなのだそうだ

○ インダス川
ハラッパーからインダス川まで
100キロくらい
モヘンジョダロ
川岸

○ チグリス・ユーフラテス
ウル
河口部

○ ナイル
メンフィス
ナイル川、カイロの南


※ 水辺に近いかどうかなんてのは関係ない。
※ 農業生産センターのその他の地区との交易の結線となるような地域に首都機能が置かれると言ったほうが外れていないように思う。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
文明が成立するには、
<大きな河に注ぎ込む小さな(人間が古代に管理しやすい大きさの)河川にそって都市国家ができました。>なのですね。
また、
<交易の結線となるような地域に首都機能が置かれる>
ということですね。この結線が、川の場合もあるのですね。

お礼日時:2013/04/20 17:46

 一つ補足します。

京都は同時に「水の都」でもあったことです。
現在の京都市南部にある伏見区は酒造元であることも有名な話ですが、酒造りには水と米そして麹が必要です。中世都市京都はその全ての要件を満たしてもいます。「座」の一つに「酒麹座」があり、酒造りに従事する商人による事業者別組合組織のような性質を持つ集団です。
 その伏見に注ぐ川筋は琵琶湖に水源を持つ淀川水系として平安京の地下深くを経て鴨川から宇治川へと流れ注ぎ、やがて淀川に至ります。
 水は大地を潤し農耕の営みをもたらす恵みとなると同時に、水上を利用しての運送手段ともなります。陸路を行くよりも大規模な形そして速度で物資の運搬が可能となり、商業圏経済圏の拡大につながります。
 現在でも京都から伊丹空港を結ぶ高速バス路線は桂川そして淀川に並行して走る高速道路を経由していますから、これが陸路としては最短距離であることもわかります。
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この回答へのお礼

補足の回答ありがとうございます。
京都は水の都であったのですか。
TANUHACHI様のご説明により、京都の地下を流れる川のようなものについて、テレビ番組で放送していたことを思い出しました。京都に都が置かれたのには、それ相応の条件をクリアしていたのですね。

お礼日時:2013/04/20 16:38

今から説明する事は、一時、大坂書籍の中学教科書の裏表紙に載るような「定説」のはずなのだが、以外と知られていないんです。



雨の多い日本では、取水よりも排水が困難なのです。日本は通常、水余り。それ故に、江戸時代以前の日本人の多くは、水はけの良い丘陵地や盆地・平野の周辺部に住んでいました。江戸時代になって、大規模な土木工事が可能になって、盆地の中央部や平野の下流域の低湿地が開発されて、人口の多くが移り住みました。戦後の高度成長期と似た事が江戸時代にも起こり、都市が形成されたのです。教科書はここまで。

堺の大仙古墳は丘の上、飛鳥の石舞台は山麓にあり、奈良の東大寺も丘の上。通常、平城に分類されている大阪城も台地の上にあります。江戸時代以前の日本人の多くは、今よりも小高い所に住んでいました。これらの遺跡や城、戦国の山城さえ、今よりは、高度的には一般の居住区に近かったのです。

織田軍対一向一揆は、平野の下流域の低湿地帯の争奪戦という色合いが強いそうです。どちらも、土地の高低から言えば、低いところから伸びる新興勢力だったのでしょう。

なお、奈良県の大和盆地には、もうひとつ長所があります。小中学生のいる家族が和歌山から奈良に引っ越しすると、天気予報に驚きます。滅多に警報で学校が休みにならないのです。ゼロの年もあります。安定した農業生産も大きかったでしょうね。
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この回答へのお礼

早急な回答ありがとうございました。
実は、shirouuda様の以前の回答に触発され、この質問を投稿しました。
私は3月7日このカテに、”日本と西洋や中国との、城や城郭への収容について”というタイトルの質問しました。これに対して、shirouuda様からNo18で、
<昔は、盆地や平野の周辺部の緩斜面に住んでいた。関西の遺跡も丘陵地に多い。>
という回答を頂きました。それ以来、奈良盆地の大和政権のことを考えていて、質問したわけです。
時代により、土木工事などにより、地形の優劣を単純に判定することができない、ということですね。奈良盆地は、当時では、適していたわけですね。

お礼日時:2013/04/20 16:27

童話「桃太郎」で、「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ行きました。

」といった文があります。平地である必要はなくて、そういう風に山へも川へも近い方が便利だってことです。京都盆地も奈良盆地もその要件を満たしています。山に芝刈りに行く訳でもないでしょうけど、今だって人口が集中しています。山の保水機能で豪雨があっても洪水になりにくい事と地下水が豊富で井戸を掘ったら簡単に綺麗な水が出たとかそんな理由だと思います。北朝鮮はハゲ山ばかりだからあれほど洪水に苦しめられている訳です。徳川家康は関東平野を拓いたけれども、利根川東遷事業や神田上水や玉川上水などの土木事業が必要でした。その全てを徳川家康が為したわけではないが、徳川家康は江戸を水害から守り、その一方で飲料水をどう確保するか頭を悩ませたことは明らかです。古代においては、土木技術も無いし、土木作業員を大量動員する力もないし、水に関する問題はより切実であり、それが適地を選択する決め手であったのに違いないのです。今だって公共事業といえば、やれ無駄遣いだといった批判がつきものですが、古代はそもそも公共事業をする技術も労働力も無い。何にせよ古代から現代に至るまで治水・利水が国家の最大の課題であったのが日本という国です。

質問者さんがいわれるように都かどうかは別として、鎌倉・大阪・東京と政権が移動しましたが、それには土木技術の進歩、動員力の向上といった背景もあった筈です。時代と共に政権課題の重心も移動します。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
<古代から現代に至るまで治水・利水が国家の最大の課題>
ですね。
平地ばかりが良いのでないのですね。関東平野の江戸は、河川や上水に苦労したのですね。
奈良盆地は、古代というその時代なりに、山と川とが共に存在することにより、好都合だったのですね。

お礼日時:2013/04/19 22:27

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