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江戸時代、明治時代に外国との交渉ごとは多くなってきたと思いますが、その際の交渉は何語で行って来たのですか? 日本に通訳がいたのですか? それとも外国からの日本語の分かる通訳を同行させたのでしょうか?条約を結ぶと言っても何語で書かれたのか、どう書いてあるものに納得してお互いにサインをしたのでしょうか?

A 回答 (3件)

・まず正式な幕府の外交といえば、オランダ、中国、李氏朝鮮だけでした。

この場合「通詞」という世襲の役職があり、幕臣がそれぞれの役を務めていました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9A%E8%A9%9E

・最初に正式でない外交関係を持たざるを得なくなったのはロシアでした。この場合はすでにロシア語を解する商人(名前を失念しました)が交渉に当たりました。またロシア側はすでに日本語会話者の養成を行っていました

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96% …

 以下別リンクwikより

☆伊勢国出身の大黒屋光太夫ら漂流者6名と出会う。父の支援を受け、光太夫を連れてペテルブルクの女帝エカチェリーナ2世と謁見し、光太夫送還の許しを得たラクスマンは、女帝の命により光太夫、小市、磯吉の3名の送還とシベリア総督の通商要望の信書を手渡すためのロシア最初の遣日使節となり、1792年9月にオホーツク海を出発して根室国に到着した。

☆地理的に日本に近いこともあり、日本に関するロシアの関心は高かった。すでに1705年(宝永2年)にはサンクトペテルブルクに日本語学校が設立されている。


・次にやってきたアメリカでは日本側の事情をよく知っており、英語とオランダ語を理解する通訳を自ら連れてきました。交渉は幕府側は、オランダ語-日本語、アメリカ側はオランダ語-英語にそれぞれ翻訳して行われました。
 タウンゼント・ハリスが下田に米国領事館を構えた時、よく知られたヘンリー・ヒュースケンを通訳として同行させています。

 開国後は英語を習得する幕臣、藩士が増えて英語でのやりとりとなっています。


 最後に様々な条約文等は、それぞれの国の言葉で文書化されそれが正本とされます。これは今も同じです。
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eroero1919さま無茶振りですな


その危機をシーボルトは「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人なので訛りがある」と言って切り抜けました。
御存じのように灌漑の国オランダは低地ばかりですが、知識がない日本人ばかりだったので大丈夫でしたという事です。よね。

参考になれば幸いです。

参考URL:http://bit.ly/ZQLaJr
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基本的に江戸時代における江戸幕府の第一外国語はオランダ語です。

オランダとはお付き合いがありましたので、通詞(通訳)がいました。だから基本的にロシアから船が来ようが、アメリカから船が来ようが「オランダ語なら分かるが、他は知らん」という対応になります。手元に資料がないのでうろ覚えですが、確かペリーとの交渉は、英語→オランダ語(米側通訳)→オランダ語(日側通訳)→日本語、だったと思います。

ところでこの江戸幕府側の通詞、文字を学ぶことは厳しく禁じられていました。だから、言葉はすべて代々口伝で伝えられてきたのです。あの解体新書を翻訳するときに杉田玄白と前野良沢がオランダ大使と同道してきた通詞に添削を依頼したら「僕ら文字は読めないっす」といわれてしまったとか。
しかし、耳で学習しているだけに発音に対する注意力は人一倍で、あのシーボルトが来日したときに、シーボルトのオランダ語の発音がおかしいことを一発で見抜いたそうです(シーボルトはドイツ人)。それで、「(禁止されている)外国人を連れてきたのではないか」と大騒ぎになったそうですが、シーボルトはいかにしてこの危機を乗り越えたか。これがなかなか傑作なんですけどね。正解は他の回答者さんから。
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