「安土桃山時代」というネーミングの謎
平安時代→鎌倉時代→室町時代→安土桃山時代→江戸時代
全て当時の有力者が権勢を奮った地名から名付けられたと解釈できるのですが…
「安土桃山時代」において「安土」が織田信長であるということには合点がいくのですが、「桃山」が豊臣秀吉であることに、シックリこないのです。
木幡山の伏見城のことを指すのでしょうが、隠居地として1年くらい滞在しただけで、なぜこの名前が選ばれたのでしょうか?個人的には秀吉が最も力を入れた「大坂」を取り上げて「安土大坂時代」とするのが妥当だと思うのですが…なぜ「大坂」が取り上げられなかったのでしょうか?
この「安土桃山時代」というネーミングの由来をご存じの方、載っている文献やサイトをご存じの方、また、推測でこうではないかと思われる方。私と同様に疑問に思われる方も気軽にご意見下さい。
回答(7件)
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No.7ベストアンサー20pt
飛鳥以降江戸までの時代区分のネーミングは、政権の所在地がその名称になっています(飛鳥は地域なのでちょっと特別かもしれませんが・・・)。
ご指摘の通り、桃山だけ違和感がありますよね。確かに桃山は木幡山の異称なのですが、『国史大辞典』によると、この呼び方は江戸時代以降のもののようです。1623年の家光将軍拝任式の後に取り壊され、いつしか多くの桃の木が植えられるようになったためにこの名が付けられましたが、なぜ桃なのかは不明だそうです。
そもそも豊臣秀吉の時代を「桃山」と呼ぶようになったのは、美術史家が最初だそうです。豪華絢爛な雰囲気が「大坂」や「伏見」「木幡」よりも、「桃山」という言葉にイメージがあっているため、政治史の分野でも「桃山」が使われ出したそうです。
時代の名称一つとっても、奥が深いなあって改めて感じます。自分で思った場合なかなか調べないのですが、あっ同じ疑問を持った人がいるって思うと調べる気になるから不思議です。勉強させていただき、ありがとうございました。
この回答へのお礼
ご回答、ありがとうございました!
当方、宗教史からヒントを得られるのではないかと脱線しておりました。美術史はノーマークでした( iдi )
言われてみれば、芸術の大発展を遂げた時代だけに真っ先に美術史に目を向けるべきでした。こちらこそ勉強になりました。ありがとうございます。
No.5ベストアンサー10pt
安土には、外壁内壁とも豪華絢爛な安土城の存在や、セミナリオ建設、楽市楽座の設置・・・など信長が行った政策・戦略・文化的価値がよく現れており読み取ることができます。安土と歴史に表記される事に、とりあえず疑問は無いと思われるので特に触れない事にします。
一方で秀吉の大坂は、旧領主本願寺の寺内町として商業、陸海の運輸システムなどある程度形成されていました(焦土に帰しましたが・・・)。秀吉はそれをさらに発展したと言うべきとし、現在の大阪にある文化を形作ったと言うと江戸の元禄文化などによると言えるでしょう。
では秀吉が活躍した頃の文化と言うと、それが花開いたのは、大坂から新居を移し始めた聚楽第(これは新居ではないですが)や伏見城に見られます。これらは安土を凌ぐほどの豪華絢爛な建築物、障壁画などが特徴として挙げられます。事実、これらのお城の建築物、建築材などが、後に寺社仏閣の楼門に移転されたり、新しく築かれるお城の櫓や御殿の一部として流用されています。
実際、秀吉の築いた大坂城は夏の陣により焼失しており、その残った建築物を転用したと言う話しは聞いたことがありません(自分が知らないのかもしれません・・・その時はご容赦のほどを)。
このような経緯もあり、文化的背景からの視点で安土桃山時代、安土桃山文化と歴史的に表記するのではないでしょうか?
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。興味深く読ませて頂きました。
文化的背景からの視点からですとやはり江戸文化となる「桃山」という地名に疑問を感じるのです。
政治面、文化、貿易面等総合的に考え、首都機能をも果たした大坂を交えて「安土大坂時代」と名付けられてた方が良かったんじゃないかと思ったんです。
安土城も焼失しており、全容は文献からの判断だと思うので、焼失した大坂の地も選択の余地があったと思うんです。
織田信長は那古屋城から清洲城、小牧城、稲葉山城(岐阜城)、安土城と進んでその後は石山本願寺の跡に天下人の城を作る予定だったそうです。
本能寺の変で予定がなくなったのを、豊臣秀吉が遺志をついで大阪城として作ったということらしいです。
まあ、それとは別にそれぞれ織田信長が最後を迎えたのが安土城にいたとき、豊臣秀吉が最後を迎えたのが伏見桃山城にいたときということで死んだときにどこにいたかでそういうネーミングになったのではないでしょうか?
この回答へのお礼
wildcat様ご回答ありがとうございます。
なるほど信長の天下一統プランを重臣秀吉が後継者として忠実に再現したとみるのが自然のような気がしますね。朝鮮出兵までも信長のプランに入ってたのでしょうか…。またまた歴史ロマンが広がりました。
栄華と盛衰を迎えた地とみると筋が通りますねぇ~。それで一つの時代とみなす…。納得!
伏見は不死身、宇治川は三途の川とし対岸の平等院を極楽浄土と見立てた城割。秀吉も家康も最後は神になろうとしたのも信長プランの追随なのでしょうか。ただいま戦国ロマンにドップリ浸かっております。
織田信長が安土城にいたのは6年ほどであり、その前にいた岐阜は10年以上いたわけですが、岐阜時代と言わないですね。
安土のほうがインパクトがあるといえます。
大坂は、奈良時代の前に難波の宮があったように、歴史も長く、大坂時代と言ってもインパクトがないのが事実だと思います。
伏見時代でもよいのでしょうが、安土・伏見時代よりも、安土・桃山のほうが語呂がよいのでそうなったのではないでしょうか。
あくまで、憶測です。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
う~ん‥語呂ですかぁ…無きにしも非ずですねぇ~
時代名はその時代背景を壊さないように、やはり江戸期にできた「桃山」という地名を使うべきではないと思うんです。
大昔のことで記憶がはっきりしませんが、学校の歴史で習った言葉は「安土・桃山時代」ではなく「安土・桃山文化」だったような気がします。
「安土・桃山」とならべて言うのは、もともとは、安土城や伏見城に集められた建築・書画・工芸品等に代表される文化を指す言葉だったのではないでしょうか。
この回答へのお礼
ご回答ありがとうございます。
たしかに安土、伏見は当時の文化的特色が強い土地ですよね。ですが文化として捉えても「桃山」という名前はすでに江戸文化であるので、違和感があると感じたのです。
安土大坂文化でもいいじゃんって思ってしまうのです。(^.^;
私も知らなかったのですが、興味がわいたので調べてみました。
桃山は秀吉の晩年の居城だった伏見城のことだそうです。
後の時代に居城あとに桃が植えられたことが由来だそうです。
勉強になりました。
この回答へのお礼
pentakun様、ご回答ありがとうございます。
>後の時代に居城あとに桃が植えられたことが由来
そうなんです。元和9年(1623年)に地名の由来があったとすると「桃山」という地名になるまでに最低でも秀吉の死後25年の歳月が経っているわけです…
すると江戸時代のことを後年の地名である「東京」を使用して東京時代と呼んでいるのとなんら変わらないんじゃないかと違和感を感じてたんです(^.^;
秀吉が生きていた時代の空気から遠ざかっているようでなにか淋しいネーミングだなと…
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