No.6ベストアンサー
- 回答日時:
光栄の三国志はゲームですから、弱小勢力でも頑張れば勝てるように作らなければなりません。
だけど、他の方も指摘しているようにあの時点で劉備が天下を狙うってどうやったって無理なんですよ。もう国力の差が歴然としていますからね。軍隊ってのは今も昔もお金がかかります。当時は貨幣経済が普及していたわけではないすが、要するにお米が足りているか的な意味でお金がかかるんですね。んで、劉備にはもう絶望的にお金がない。お金ってか、お米がない。軍隊を率いて漢中を落とすまで軍隊を維持するだけの食糧(とそれを買うだけのお金)がないのですよ。それは馬超も同じ。
一方の曹操は、その問題を解決するために屯田兵制度を作ったのです。これが食糧確保と軍隊の維持とコスト削減の一石三鳥の効果があったのですね。
じゃあ劉備も屯田兵制度を取り入れればよかったじゃないかと思うけど、これを維持、構築するためには学問のある役人が大勢必要です。中小企業がトヨタの真似事をそう簡単にできるものではありません。劉備の勢力ってのはいってみりゃ武闘派ヤクザみたいなもんでしたから、システムを作れるような学のある人がいなかったんですよ。唯一、それができる人が孔明先生だったというわけです。
ただ孔明先生は、頭がいい人にありがちな欠点がありました。それは「部下を育てられない」ことです。部下が育つには時間がかかるし、失敗も多い。勢い、「えーい変われ、俺がやる」となってしまうのです。カリスマ経営者の会社なんかにありがちでしょ、そのカリスマ経営者が死んじゃったら会社がダメになっちゃうってやつ。ダイエーとかマクドナルドなんかがそうですよね。トップダウンが企業風土になってしまっていて、ボトムアップができない。それについでに部下を見る目がない。馬謖みたいな奴に目をかけちゃうし。
あと孔明先生は無理に北伐を繰り返し、それが国家としての蜀を疲弊させたのは事実です。しかし、魏との国力の差は日々開く一方。こちらから攻め込んで相手を疲弊させないと、満を持した魏が大軍を率いて攻めてきたらひとたまりもなかったというのも事実です。司馬懿もそれを分かっていたから、無理に攻めるようなことはせず、内戦の利で蜀が自滅するのを待っていたのでしょう。
蜀の民からすれば、別に魏の支配下になったというところで殺されるわけでもないんだから為政者はどっちでもいいというところだったのではないでしょうか。劉禅が後に「蜀の生活より魏での生活のほうが楽しいよ」といって周囲を泣かせた話は有名ですが、北朝鮮で将軍様をやるより、アメリカでそこそこ豊かで自由な生活のほうが楽しいみたいなものだったと思いますよ。
つまるところ、孔明先生の戦略は置かれた状況ではベストだが、どのみちジリ貧。司馬懿はそれを見抜いていたから無理をしなかった。というところでしょう。荊州陥落で、手詰まりではあったと思いますよ。というか、荊州が陥落したら詰んでしまうポジションにいた時点で劉備は詰んでいたといえるかもしれません。
No.5
- 回答日時:
天下三分の計は、勝ち目のない劉備が天下を狙うとしたらこれしかない、卓抜な戦略だったと思います。
劉備は、今でこそ三国志の英雄の一人どころか、主人公的に世間に認知されていますが、
当時の劉備は、吹けば飛ぶ程度の弱小軍閥の一人に過ぎず、
領地も力もなく、天下争いに参画するだけの資格すらなかったと言って良い状態でした。
その頃、曹操は既に天下の7割を手中にし、孫権が2割、益州が1割程度だったでしょう。
周瑜は、孫権が益州を取った上で中原に向かい、曹操と雌雄を決するという
「天下二分の計」に基づいて動いており、劉備なんて眼中にありませんでした。
そこに、ただの居候だった劉備が無理やりねじ込んできた、という形だったわけです。
赤壁の大戦後、曹操から荊州を切り取った劉備は益州も手中にし、
曹操6.5割、孫権2割、劉備1.5割くらいの勢力で膠着。
諸葛亮が狙った「天下三分」の状態を作り上げました。
本来は7:3で曹操vs孫権になったはずの版図に劉備が無理やりねじ込んできたことで、
結果的には曹操(魏)が天下統一するタイミングが後ろにずれたのは間違いないでしょう。
7:3で二者対決となれば、国力の差が徐々に出て、短い年月で押し切られていたはずです。
ここに劉備がねじ込んできたため、呉・蜀連携という要素が加わり、
曹操を手こずらせることになりました。
諸葛亮は、益州と漢中を奪るまでを第1段階、
漢中と荊州の2方面から北上して長安を奪取し孫権に荊州を返還、曹操5:孫権2.5:劉備2.5まで持って行くまでが第2段階、
そこから曹操を押し切って孫権を自然衰退させるまでが第3段階、
といった戦略を立てていたものと考えられます。
単に益州を奪るだけが「天下三分の計」だと理解すると下策に思えるでしょうが、
ここまで考慮すると、優れた策だったのが分かると思います。
結局は、荊州を奪回して南の領地を確保したい孫権の裏切りで関羽を討たれ、
その私怨である夷稜の闘いで呉・蜀が食い合って蜀が衰退することになりましたが、
あれがなければ、呉・蜀連合が魏を潰し、五分五分でガチになっていたか、
長江を挟んで蜀が北、呉が南の領地を分け合って、南北中国みたいな形になっていたかもしれません。
孫権に天下への野心はなく、長江以南で豊かな国を作りたいと願っただけ、
劉備は漢王朝の権威が復活して帝の地位が向上すれば良いだけだったので、
利害が一致して円満分割というのは、けっこうあり得ることだったと思います。
いずれにせよ、7:3の天下二分がほぼ決まりかけたところに劉備をねじ込んだ
諸葛亮の天下三分の計は、ここしかないピンポイントを攻めた絶妙な戦略だったと思います。
No.4
- 回答日時:
後にさんざん北伐をしているので、孔明が割拠主義ということはありえないでしょう。
ただ堅実な性格ですので、がっつり自分の地盤を確保してから魏と雌雄を決するつもりが、荊州陥落で根本的に戦略が破綻して破綻したまま戦っていたのだと思います。
No.2
- 回答日時:
質問の内容が三国志(正史)に対してのものではなく
演義(フィクション)の方ですので
諸葛亮うんぬん、というより、作者がどう考えていたか、ではないでしょうか
実在の諸葛亮は、演義に登場するほどの天才軍師ではありませんし
例えば赤壁の戦いにも、ほとんど関与していませんので
史実だと
三国志の時代は、かつてないほどの食糧難や、貧困の時代です
演義では、よく兵士を50万動員だとか、騎兵10万…などの表現がもちいられますが
それ自体がありえず
実際には、3万もいれば、大軍だった。
ほど、マンパワーが不足しております
人口が増えるに、食糧の供給や、医療、は欠かせませんが
この時代、それが欠落しておりました。
どうしようもない暗黒時代だからこそ、夢物語が生まれたのだと言われています
実際の劉玄徳は、とくだん善人でもありませんし
張益徳は酒乱でもなく、まして関雲長をふくめてのこの三人は、義兄弟ですらありません
そういうことなので
フィクションものである演義の物語を議論することは、あまり意味がないかと思います
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