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 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論

 第四章 非経験の場なる神が どうして経験存在である人間に知られるのか

 § 1 《非思考の庭がわが心に成る》そのいきさつについて

 (あ) 神とはなんぢゃい? とワタシは いぶかったり うたがったりする。

 (い) 分からんと結論づける。《考えても分かるか分からないかが分からないナゾの何ものか》であると 想定し 定義づける。

 (う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。

 (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。

 (お) このとき わが心なる非思考の庭が 成る。維持し持続するとき それを 動態としての信仰と呼ぶ。



 § 2  《神を知る》という表現は――神という言葉からして そうであるが―― 精確ではない。

 (か) ただただ その名前を心に受け容れただけのことだ。ブラフマンにせよ アミターバ・タターガタにせよ キリストにせよ あるいは単なるカミにせよ さらにはまた《無い神》にせよ。

 (き) あとは 人間という存在の社会性――つまり生活の共同性 そしてそこから関係性(つながり・きづな または ときには不倶戴天の敵対関係)――をつうじて そのマボロシなる神の名が あたかも意味を持って来る。言いかえると 何が何だかワケの分からないナゾの何ものかであるということ――非経験の場とでも名づけるべきものであること―― ここから意味が出て来る。

 (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。

 (け) つまり中身はからっぽである(つまり 非思考の庭である)ところへ しかも それが何であるかが知りたさに いろいろ考えることをも為す。つまり 補助線を引いて 《こたえ》を探りにかかる。

 (こ) 手掛かりがないわけではない。それは 非思考であるにもかからわず(または 非思考であるがゆえに) ひとにはヒラメキという出来事があたえられる。そこから 観想・瞑想が得られることがあり 神についての仮りの説明とすることが出て来る。そういう《意味》が現われる。

 (さ) ここから やがて オシエという代物も現われる。うんぬん。・・・


 § 3 《神を知った》わけではなく 《神とわれとの関係》を 何とか経験思考において表現してみたものが 人間には持たれて来る。たとえば不老不死を願うところから 神については 永遠の生命といった当てはめが持たれる。知ったような感じになるということなのであろうか。

 (し) ところで神は この経験世界に介入するか? 

 (す) 分かるわけがない。ただし ひとりの人間の主観内では 如何ようにもと言うほどに 説明書きが持たれる。それを共同化することは 出来ない。出来たら ほんとうに神は何であるかが分かったときだから。

 (せ) 信仰は 非経験の場を マボロシとして心に受け容れるその受け容れることとしては経験的な意志行為である。そういう人間の特殊な現実である。

 ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~

   普遍真理(非経験)――信じる

   世界事実(経験)――考える

   主観真実――《信じる》+《考える(感じる)》

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~


 § 4 介入はしないが 神は人間とその世界にお節介を焼くのだろうか

 (そ) 初めは 神とは何ぢゃい? と問うに過ぎなかった。それは なぜなら 《かみ》という言葉をわれわれは持って使っているからである。

 (た) おそらくこの言語習慣という社会関係性がかかわっている。はずだ。コトバとしての事実が 《かみとわれとの関係》を どこかで成り立たせることになるのかも知れない。

 (ち) ナゾの何ものかについて それでも それが何であるかを探り始めると言ったとき 説明として《絶対・無限・不可変性》などの概念が挙げられるのは それとして分かりやすいものと 大方の人は受け取るのではないか。

 (つ) そこからは いろんな説明やら果ては神学体系やらが 繰り広げられて行く。

    《〈わたしはある〉 それがわたしである》(エフエー アシェル エフエー)

 こういう説明もある。これが 神のことだという。つまりコトバとしてはすでに 存在として受け留めた表現例である。

 (て) はじめの想定も そこから無理にでも概念化して捉えることも その概念からさらに神論として説明を繰り広げるのも すべてすでに 非思考ではなく 思考の緑野における人間のしわざである。基本としては 思考(考える)と非思考(信じる)との区分がなされており このような思考におけるこころみは 限界のあることも分かっている。

 (と) けれども ときどき このような神論を弄んで しかもその補助線こそが絶対だと錯覚して――または 自分はそうではないのに 錯覚したい人たちがいると見込んで その需要に応じるとうそぶくかたちで―― カミの商売を展開するヤカラも出て来る。不届き者があとを絶たない。

 (な) つまり この不届き者が 組織宗教である。すでに信仰ではなくなっている。もぬけの殻であり この蛻の殻が けっこう好まれるようでもあるのだ。その内実は ムレタガリ症候群であろうか。



 § 5 信仰は 心の解放をもたらすか

 (に) 《心の解放》は 初めの神の――想定としての――定義の時点では 何の関係もない。
 それでも 神は 社会の生活共同やその言語習慣とかかわりを持つと見た点にかんがみれば やはりいづれかの――神論の《発展》の――時点で この《心の解放》ともかかわりを持つということになるだろうか。

 (ぬ) 言いかえると 主観内面における《神とわれとの言わばタテの関係》は けっきょくのところ社会における《人と人とのヨコの関係》と ほぼひとしいという様相を呈するようになる。こういうかたちで 心の問題が捉えられるし 扱われて行く。

 (ね) いかにか? 《真理》も 説明書きのシルシであり 究極においては ナゾの何ものかは 何が何だか分からないのだから 神という言葉にしても真理にしても その他その他にしても みな 単なるシルシであり 補助線である。

 (の) つまりすべてはシルシであるから 《何者かが存在している》ことも《介在している》こともないと言えばない。そして シルシとして・コトバとして 存在があると言えばあるし 介在していると言えば言えるかも知れない。

 (は) 真理だから それに依拠するのだとか 神だからその存在は うるさいとか 感じるかも知れないとしても それは 問題にはならない。シルシをあやまって受け留めただけのことだ。そして しかも すべては 単なるコトバの問題として マボロシが介在していると見られるのかも知れない。

 (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?

 (ふ) このコトバの問題が 人間的現実であると捉えられるかぎりで 神がわれわれのあいだに・またとなりに 存在している。ここに もしそうとすれば《心の解放――こころがやわらげられ もともとの心に立ち帰る――》という主題が持たれるのか。



 § 6 神は コトバの問題か。コトバがどうして心を解放するのか。

 (へ) 《ナマス・テ》というあいさつが もし《わたしは あなたに帰依する》という意味であるのならば それは やはり《あなた》の内なるブラフマンなりマハーワイロ―チャナ・タターガタなりアミターバ・タターガタなりの神に帰依すると言っているのであるらしい。

 (ほ) かくのごとく わが心なる非思考の庭における神とわれとのタテの関係は わたしとわたしの身の周りの人びとそれぞれとのヨコの関係と相い携えて 互いに入り組んでいる。互いにひとしい。

 (ま) あるいはつまり あらゆる生命に ブッダター(仏性)がやどると言う。神の霊がはたらくと言う。

 (み) 非経験の場なる神が その補助線としての説明表現つまりコトバをつうじて すでに経験現実にあたかもその影をひびかせている。か?

 (む) そして神は 世界中でいかにその名が違っていても すべて同じひとつの非経験の場である。

 (め) これが 神および信仰ならびに信仰の偽造物たる宗教にかんする一般理論である。としてよいか?

 (も) かくしてわが日本のルネサンスが成れば――万葉集 いな 億葉集なる一人ひとりのウタが鳴り響くようになるならば――世界もめざめるか?

A 回答 (2件)

こんばんはです。




☆(う) 《かみ》もしくは《何々の神》といった名は 神を示す仮りのものであり シルシであり 補助線であるとみとめる。
◇でしょう。
この神は、あくまで《観念》として対象化されたものであり、神さまとは異なるものである、と割り切って考えないといけないのでしょうね。
これを混同、同一視したりすると、おかしなことになってしまう。


☆ (え) ということは それでも或る日或る時 何ものかがわが心の窓をノックしている。と感じた。ということが起きたとき 主観としてその単なる感覚で これは神であるかも知らんと思って その雲をつかむような何ものかを心に受け容れた。(または そんなものは知らんと言って 棄てた)。
◇分かるようなら、それは神さまではない。
永遠に《???》の存在(?)ですよ、神さまは。


☆ (く) おのれの心の中で・おのが主観において 《絶対なる神と相対なる我れとの関係》が成っているというとき それは 神がこの経験世界を超えているからには・そしてそれは 非思考であり 何ら中身はないと言ったほうがよいからには 神は同じ次元ではありえない。
◇「《中身》はあるかもしれないけれど、人間には分からない」ということになるのでしょうね。
でも、人間は、そこに意味や目的、使命といったものを見出そうとするのでしょうね。
人間、何が一番気持ち悪いかといえば、それは正体の知れない存在、モノでしょう。
これは、薄気味が悪くてたまらない。
この不安、不安定な状態から抜け出すために、
もっともらしい理由や理屈をつけて、自分を納得させる。
これは人間の性(さが)ですから、しょうがない。

そして、
これは何も、非思考・非経験の場の「???」的存在に限らず、
人間には理解できない自然現象や不条理に思える己れの運命・人生を説明し、
おのれの不安、不安定な心理状態を解消し、
安心や納得を得るために、
観念としての神さまが生まれた、人間によって発明されたんじゃないでしょうか。
不安解消の装置として、
まず、
神なる概念が作り出された、
などと考えております。


☆(し) ところで神は この経験世界に介入するか? 
◇さぁ~。
ただ、非思考・非経験の場で直観した《???》とういう超経験をもとに、
ヒトは、そこに何らかの意味などを見出そうとし、意味を作り出すことはあるのでしょう。
その意味においては、
《???》は経験世界に介入する、
と言えるのかもしれません。



☆ (ひ) 神にしてもその真理なり絶対なりの概念にしても その他その他の説明書きにしても みな コトバの世界である。かみというコトバが ナラワシとして流通しているから これを尋ね求める。その結果としても ただ《神と我れとの関係》というようなやはりコトバの問題に行き着いてしまう。――そして ただし その神とのタテの関係は 人とのヨコの関係にひとしい。どうしてそうなるか?
◇神を経験次元、言葉の次元に引きずり下ろすことができたとしても、
《神とわたし》の関係は、横の関係にはなり得ないのでは。
これが成立するためには、《仏性》や《如来蔵》といった仮定、仮説を必要とするのではないでしょうか。
それでも、
おそらく、
《神とわたし》の関係は《不一不二》の関係になるのでしょうね。
《ヨコとタテ》の両面を持ち合わせた関係になるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 (う) 
 ◇ この神は、あくまで《観念》として対象化されたものであり、神さまとは異なるものである、と割り切って考えないといけないのでしょうね。
 ☆ というとき じんるいは よくも《かみ》というコトバを持つに到ったものだという感想を持ちます。

 つまり カミは あまり語源が分からないので例に出すのですが 一方でそのコトバとしては ただのシルシであり 他方でそれの指し示すものは 非対象なるかみであるという・そういうコトバをよく持つに到ったものだという感慨が いくらかあります。



 (え) 
 ◇ 分かるようなら、それは神さまではない。 / 永遠に《???》の存在(?)ですよ、神さまは。
 ☆ 天の邪鬼のごとく 別の角度がありうると思ったらそれを持ち出してみているのですが 考えてみれば わが心なる非思考の庭が成ったあとでは その主観内にあっては ときどき 神が感じられたというような――まさに主観的な――予感を持つこともありうる。この点を おそるおそる 触れておこうかなという気持ちがあります。

 なぜかと言えば ブッダターとか自性清浄心とかと言われると つまりそういうコトバを耳にすると――歴史的な洗脳としての慣れでもあるのでしょうが――  或る種の 神にかんする予感ないしむしろ既視感のようなものをおぼえることもありうる。のではないか。

 この話は おまけとして いまは 添えておきます。


 (く)
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして、
 これは何も、非思考・非経験の場の「???」的存在に限らず、
 人間には理解できない自然現象や不条理に思える己れの運命・人生を説明し、
 おのれの不安、不安定な心理状態を解消し、
 安心や納得を得るために、
 観念としての神さまが生まれた、人間によって発明されたんじゃないでしょうか。
 不安解消の装置として、
 まず、
 神なる概念が作り出された、
 などと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点では おまけとしてではなく 正式な議論としてになりますが びみょうに違う印象を持ちます。

 つまり 得体の知れない《非経験の場》なる神〔として〕ではなく たとえば《得体の知れなさから来る不安の解消のために》その神を どうしても経験知の範囲内に持って来ようとする。のではないか。

 超自然現象のようなものとして《かみ》を捉え言っていたところ それだけでは どうも安心し得ないというので 山なり木なり磐座なりの依り代をまさに神の依り代として捉え そこに神は霊として降りて来るという物語を作り出したのではないか。

 神というコトバはすでにあったと見ています。そこが びみょうに違っているかなと思います。


 (し)  
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さぁ~。
 ただ、非思考・非経験の場で直観した《???》とういう超経験をもとに、
 ヒトは、そこに何らかの意味などを見出そうとし、意味を作り出すことはあるのでしょう。
 その意味においては、
 《???》は経験世界に介入する、
 と言えるのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええ。これは (え)でちょこっと触れました。あくまでおのれの主観内での話ですが それとして 何らかの予感やあるいは ぎゃくに既視感のような感覚として この《歴史への神の介入》についても マボロシのごとくあるかも知れない。


 (ひ)
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神を経験次元、言葉の次元に引きずり下ろすことができたとしても、
 《神とわたし》の関係は、横の関係にはなり得ないのでは。
 これが成立するためには、《仏性》や《如来蔵》といった仮定、仮説を必要とするのではないでしょうか。
 それでも、
 おそらく、
 《神とわたし》の関係は《不一不二》の関係になるのでしょうね。
 《ヨコとタテ》の両面を持ち合わせた関係になるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。図示すれば 次のようです。

    (神)                   (神)
  タテ |                    |
    (我)= 主観 A  ←―→ 主観 B =(我)
                ヨコ


 一人ひとりの主観の内に 《神と我とのタテの関係》を持つとするならば そのタテの構造を持ちながら 主観と主観とは 相い対する。そういうかたちで ヨコの関係が成り立つ。そしてわが主観の内なる非思考の庭(ないし神)をないがしろにしないとすれば ヨコの関係における相手の存在をとうとぶことにある。

 すなわち この場合は それぞれの神が 名前は違っていても けっきょく同じひとつの神であるという前提が 必要だと言えば必要だとなる。というかたちでです。

 仏性や如来蔵という呼び方は この普遍真理としての神の別名として使われていると捉えればよいと思います。

 
 こんな感じでしょうか。どうでしょうか。

お礼日時:2013/12/13 22:25

まさに、アルケーの神の奇跡ですね。

一文一文アルケーアルケーと神々しい輝きをはなっています。

あまりの奇蹟続きに、世界が目覚めます。アルケーの神のご加護を。
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この回答へのお礼

 さしづめ ひらかれたたこつぼ。


 ひらかれているけれど 中身がうすくて じぶんを堅くとざしている。

 よって たこつぼのごとし。

 めづらしい。あるくたこつぼ。活発なたこつぼ。

 

 ヒントにでもなれば。・・・

お礼日時:2013/12/14 07:28

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