街中で見かけて「グッときた人」の思い出

西洋史についての質問です。
下記のようなレポートが発表されたのですが、「政治社会」「文化共同体」「歴史的構造物」というのは具体的にどのようなものを意味するのでしょうか。

カール大帝のヨーロッパと19世紀末のヨーロッパとでは政治社会としてのヨーロッパの理想像がだいぶ異なる。このような「文化共同体」「歴史的構造物」としてのヨーロッパをあなたはどのように説明しますか。どのような歴史的な出来事を経てカール大帝の理想像と異なる数々の理想像が現れてきたのかにも触れつつ、要点をはっきり示して説明してください。

A 回答 (2件)

fujisanroku9 さん、こんにちわ。



カール大帝の理想像というのはフランク帝国の版図の拡大と自分の子孫による継承以外はないでしょう。キリスト教に改宗したのもその一環だと思います。
彼の遠征が50回以上というのがそれを物語っています。
封建時代の9世紀から19世紀末ということは1000年以上隔てていますので、当然考え方も違います。特に産業革命やそれによって台頭してきた新興富裕層が多数の労働者を使役し、利益のほとんどを独占する社会ではこれまでの封建時代のような貴族と農民のような比較的緩やかな関係ではなく、鋭く対立する関係になってきています。この頃から人口も増加傾向にあり、19世紀荷を通じて約倍になって生きていると思います。
また、海外に植民地を形成し、安い原料を輸入して、加工し、それを植民地に輸出するシステムもこの頃完成しました。

下記のURLを参照ください。

カール大帝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC% …
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カール大帝が理想像を持っていたとは思えません。


ただ単に自分の権力を拡大したいだけだったと思います。
それがカール大帝の理想像だともいえますが。

この課題を出題した人は、歴史を知らないバカですから、無視しておかしな点を指摘しましょう。

まず「カール大帝の理想像とは何か」が全く定義されていません。
カール大帝時代に文化共同体など存在していません。し歴史的構造物なども意味をなしません。
またカール大帝の理想像と個人を特定しながら、他方ではヨーロッパの理想像と抽象的な表現になっていることからも、両者の比較はできません。
さらに「数々の理想像が現れてきた」と述べていながら、カール大帝の理想像との比較を求めるなど、課題の体をなしていません。

質問者が正しく課題を理解しておらず、おかしな言葉を追加したためにおかしな課題になったのか、課題の出題者が無知なのかどちらかでしょう。

課題の支離滅裂な状態から、この質問者の理解不足による課題内容が書き換えられた可能性が強いようにも感じます。
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